防護服を着て被災地の写真を撮り続ける83歳主婦「復興の掛け声から取り残された人がいる現実伝えたい」
2025年3月12日(水)11時0分 女性自身
【前編】「かつて暮らした場所が今は原生林のように…」浪江町・津島地区の83歳主婦が被災地を撮り続ける理由から続く
「自宅へ戻りたいときは、前もって一時立入り受付コールセンターに連絡して、訪問場所、目的、人数、車種などを申請します。許可が下りると、スクリーニング場で防護服や線量計、トランシーバーなどを支給され、目的地に向かいます。
そして自宅でパソコンやアルバムなど必要なものを探したりして、午後3時半までにスクリーニング場に戻って、持ち出したものや自動車のタイヤなどの線量を測って、許可されたら持って帰ります」
そう語るのは、福島県安達郡大玉村在住の主婦カメラマンの馬場靖子さん(83)だ。
馬場さんは、東日本大震災と福島第一原発事故原発事故により全域が「帰還困難区域」となった福島県双葉郡浪江町の津島地区に、事故が起きるまで30年以上暮らしていた元小学校教師でもある。震災後からカメラを手に被災地に入り、ときには放射線被曝から身を守るために防護服を着て撮り続けてきたのだ。
冒頭のような手続きの煩雑さを嘆く声は多いという。
「スクリーニング場を“関所”のように言う人もいます。許可制なので、高齢者が『今日は体調がいいから』と思い立っても、当日に行くわけにはいきません。私にしてみれば、写真を撮るときにも動きにくい防護服を、これがなければと思うこともありますが、正直、それ以上に怖いのが放射能です。
特に草むらを歩くと、胸に下げた線量計の警告音が鳴り響き、数値が跳ね上がるのがその場でわかるんですね。やはり、地面に近いところは高いというのが実感です。
もちろん、防護服を着ていても被曝の恐怖は消えません。夏の暑さも閉口しますし、『こんなの着てても効き目ないよ』という声もありますが、私は面倒くさくても、ここでは防護服を着てなくてはいけないんだと、自分に言い聞かせてきました」
その動きにくさ、煩雑さこそが、原発事故の残酷さや理不尽さそのものと言えるだろう。
被災地だけでなく、仮設住宅などでも撮影を続けてきた馬場さん。そのなかで、多くの元住人たちから、「事故前の写真はないの?」という声がかかるようになったという。
「その声があまりに多くて、以前は趣味のつもりでしたが、地域の記録としてもっといろんな場面を撮っておくべきだったと後悔もするんです。でも、当時は、まさか津島がこんなことになるなんて、思いもしなかったから……」
’13年12月、自宅周辺の変わらぬ線量の高さもあって、馬場さん夫婦は、中通りの大玉村に転居することを決めた。
「この地への引っ越しを決めた理由の一つが、雄大な安達太良山を身近に感じられる環境でした。避難者が100人いれば100通りの事情と選択があると思います。カメラを手に仮設や知人を訪ねると、自宅に『戻る、戻らない』で夫婦や家族が仲たがいしたとか、地方の娘さん宅に身を寄せていたが、避難をめぐって親子げんかをして『お母さん、絶交だよ』と宣言されたという話も耳にします。
精神的な不安で高血圧や糖尿病の悪化など健康問題も深刻。ずっと農村の広い家に大家族で暮らしていた人が、狭い仮設住宅でのストレスからのうつや、また認知症や関連死も多かったです」
さらに、馬場さん夫婦が、津島の自宅解体に踏み切ったのは’24年1月のこと。
「現実的に家の中まで野生動物に荒らされていたし、いちばんの決め手は、先が見えないことですね。夫とも話して『負の遺産は残せないよね』と決心しました」
そして同年10月、この自宅や牛舎の解体の光景も収められた写真集、『あの日あのとき 古里のアルバム 私たちの浪江町・津島』(東京印書館)を出版した。
’19年5月の写真は、一時帰宅した自宅で教師時代の子供たちとのアルバムを見つける場面。「あどけない笑顔が無性になつかしい」との添え書きが。また’18年8月の「物置で。好きだった服」と題された写真には、馬場さんが薄紫色の花柄のワンピースを防護服の上から体に当てている姿が。
「段ボールを開いたら、あのワンピースが出てきて。お気に入りの服だったことや、友人の結婚式に着ていったなぁと、次々に昔の思い出がよみがえってきました。
私にとっては宝物のような洋服ですが、その日はまだ放射線の線量が心配で、持って帰ることは断念しました」
写真集のラストに配されたのは、馬場さん夫婦の結婚式の写真。
「長く津島で教員生活を送り、結婚もして、地震と原発事故で古里を追われて……。そのすべてが自分史であり、夫婦の歴史なんです。つくづく思うのは、写真に救われたということ。私、写真がなかったら、80代の今、こんなに元気にしている自信はありません」
それから、津島の日常が記された写真集のページを愛おしそうに手でさすりながら、
「この本を手にした元住人の方から『一晩中泣きながらページをめくったよ』などと聞かされると、本当によかったと思います。お年寄りが山菜を採っていたり、夫婦で鶏の世話をしてたり、ばったり教え子と再会したり。そんな何でもない光景を前に、ああ、津島って、古里っていいなぁと思ってシャッターを押す喜び──。
私には芸術写真は撮れませんが、せめて元気な間は、帰りたくても帰れない古里の姿を、カメラで撮り続けたいと思うんです」
夫の績さんがこう語る。
「私たち夫婦はどちらも頑固だから(笑)、よく意見がぶつかりますが、それだけに会話も多いのが円満の秘訣かもしれません。彼女はこのとおり明るくて、人が好き、写真が好き、そして津島のことが大好き。その愛する古里を奪われた者の心情を、写真を通じて代弁しているのではないでしょうか。
私も、妻と一緒に元の自宅を先日訪ねましたが、原生林のようになった田んぼを見て、目をつむっていても歩けるほど馴染んだ場所だっただけに、ただただ無念でした」
そう話す績さんは、’15年から国や東京電力に対して原発事故の責任を問う「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」に共同代表として関わってきた。’21年には福島地裁郡山支部で勝訴しているが、さらに原状回復などを求めて裁判はいまだ継続中だ。
馬場さんも言う。
「原発問題は福島県だけのものではありません。14年が過ぎて忘れられつつあるのも感じますが、風化させない努力も、私たちの役目だと思います」
震災前には1千459人いた津島の居住者は写真集が出た時点でわずか20人だが、一方で一昨年春には避難指示が解除される地域も出ている。
「現在、元の自宅周辺のおおよその放射線量は、毎時2マイクロシーベルト前後と聞いています。しかし、除染されている場所を少し外れるだけで、線量がグンと上がることもわかっています。私たち夫婦がこの先、津島に戻るという可能性は、年齢のことを考えても、現実的には難しいでしょう。
だからこそ、『復興』の掛け声はありますが、そこから取り残されている人もいることを、私は写真を通じて伝えていきたい」
今年もまた、福島県に春がやってくる。
「本来なら、私の古里では、誰もが農作業の合間にお花見を楽しむころ。地区のどこかに花見の名所があったのかって? いやいや、津島では、桜だって、そこらじゅうに当たり前のように咲いてましたから」
もう少し暖かくなったら、あぜ道や野山に咲く桜の写真を撮りに、カメラ片手にまた古里を訪ねるつもりだ。
(取材・文:堀ノ内雅一)