「そうだね。わしの父親の弟だね」19歳でサメに脇腹を食いちぎられ…“連続人食いザメ事件”被害者の親族女性が語ったこと

2025年5月14日(水)7時20分 文春オンライン

〈 「全員が死亡」「叔父さんがサメに襲われて死んだ」愛知県の“小さな島”で起きた、凄惨な“人食いザメ事件”の深いナゾ 〉から続く


 名古屋から“一番近い島”として知られる、愛知県・日間賀島(ひまかじま)。この周辺の海域で、12年のあいだに8件のサメによる襲撃があり、襲われた全員が死亡しているという。この知られざる「人食いザメ事件」はなぜ起きたのか? “漁師の島”に今も暮らし続ける、被害者の親族に話を聞いた。(全2回の2回目/ #1 から続く)


◆ ◆ ◆


まさか被害者の親族につながるとは…


「私の親類に“叔父さんがサメに襲われて死んだ”という人がいて、その人を紹介することならできるんですが、どうしましょうか?」 


 日間賀島観光協会のIさんは、ライターである私からの問い合わせを受けて、知人や親類に片端から聞き込みをしたという。その中で、漁師をしているご主人の母の姉にあたる方が、まさにサメに襲われた被害者の親族だったというわけだ。そのことはIさん自身、今回初めて知ったという。


 まさか被害者の親族につながるとは……。思わず「本当ですか!」と前のめりになった。



78年前、この海で19歳の漁師が命を落とした


「そうだね。わしの父親の弟だね」


 このような経緯があり、2025年1月下旬、私は日間賀島へ向かったのである。


 日間賀島東港に向かう船中では、民俗学者の瀬川清子が昭和13年(1938)にこの島へ現地調査に訪れたときの記録を読み返していた。



〈〈小さな発動機船がゴトゴトと動き出した。豚箱を思わせる、あの船艙の匂いの中に、放心したように座っていると、乗り合った日間賀島行きの男女が、互いにあいさつをはじめた。(中略)鱶(※編集部注:フカ/サメ類の特に大きいもの)に片腕を食われた男の話がもっぱらで、今日も島人が総動員で、その鱶を捜索しているという。鱶を討ちとらないうちは海水浴もできないのである。〉(瀬川清子著『日間賀島・見島民俗誌』)〉



 瀬川が船中で「鱶に片腕を食われた男」の話を聞いてから87年後、私はようやく日間賀島に降り立った。


 Iさんの案内で日間賀島の海水浴場からほど近い一軒家を訪ねた。


「そんな遠くからわざわざこんなお婆さんの話を……まぁ、楽にしておくんな」


 今年75歳になるというこすゑさんは、そう言って自宅の居間に私を招き入れてくれた。


 いきなり「サメの話を聞きたい」と訪ねてきたライターを不審がることもなく、「わしが生まれるずっと前のことだで……わからんがね」と言いながらも、取材に応じてくれた。


「ここらへんはみんな“くぐりさ(潜水漁)”で、タイラゲ(平貝)とかテングサ(天草)とかいろんなものを獲って、それで生活しとったみたいで」


——お父様も漁師だったんですか?


「そいだよ。小せぇ船をこしやって(造って)、やうち(みんな)でおき(漁)に出とっただけどね。そんなに(沖の方へは)出ない。島の近いところでやってた」


——サメの被害に遭われたのは、叔父さんにあたる方と聞きました。


「そうだね。わしの父親の弟だね。会ったことはないけどね」


 こすゑさんは「ただ、写真があるもんだ」と一葉の白黒写真を見せてくれた。そこには相撲のまわしをつけた小柄だが引き締まった身体をした少年が写っていた。写真の裏には「久野久芳 19才」と書かれている。私はこれで初めて被害者の名前を知った。


「相撲をやってたんだね。友だち5人ぐらいとまわしをつけた写真もあったんだけど、わたしがどっかやっちゃったもんだ」


「サメがこうやってひっくらかえったら噛まれるというのは、よく聞いてた」


——久芳さんが襲われたときの状況というのはお父さんから聞かされたんですか?


「(事故は)わしが生まれるずっと前のことだから。わしがものごころついてから、小さいときに(父から)聞かされとったもんだ」


——どういう風に聞かされたんでしょうか?


「“くぐりさ(潜水漁)”は1人で行かんもんだい。2人とか3人で行って、1人がくぐって(潜って)、もう1人がおかばんで舵をもって、あげるもんだいね(船の上で舵をもって潜った人についていき、獲れたものを船へあげる)。


 それで叔父さんが潜っているときにサメに(脇腹あたりを指して)ここを噛まれたらしい。この横っ腹というものを。(噛まれたのが)足とかだったら助かってたかもしらん。けれど横っ腹だもんで、縛って血を止めることもできない。今でいう出血多量とかそういうような感じじゃなかったかね」


 実際に片方の膝から下をサメに食いちぎられたものの一命はとりとめた漁師の姿を、こすゑさんは幼い頃に島で見かけたことがあるという。当時の日間賀島ではサメによる被害者は珍しくはなかったのかもしれない。


——叔父さんはサメに噛まれた後で舟に引きあげられた、ということですね。


「まあ、自分では上がれん、仲間がおったもんね。ただ昔だもんが医者もここら(島)にないがね。それで病院のある師崎(知多半島の先端にある港町)まで、舟で運んで。運んでいった途中で死んだのか、(師崎の病院に)着いてから死んだのか、それもわからんけど」


 久芳さんがサメに襲われて亡くなったという事実は久野家に影を落とした。


「やっぱり、じいちゃんも兄弟がサメに食われてからめったく海に行かんようになったというのは聞いたことあるけどね。わしも、あまり海で遊ぶな、というようなことは親から言われとったもんでね。身内で集まると(久芳さんが襲われたとき)その場にいた人もいたし、医者に連れて行ってくれた人もいました。そういう人たちからも(事故の)話を聞いとったもんだ」


——襲われたサメの種類などはわかっていたんでしょうか?


「さあ、それはわからないね。人を食うぐらいだから大きいサメだったろうね」


——この島は昔からサメが多かったんですか。


「(人を襲うような)どでけぇ(大きい)のはおらんよ。小せぇのなら網に入ることもあるけども」


 夫が現役の漁師である観光協会のIさんは「(夫も)大きいサメは見ないそうです。小さいサメが横にいることはあるそうですけど。でも私が小学生くらいのときもお盆の時期は海で泳ぐな、ということは言われてましたね。ボンザメ(盆鮫)が出るから、って」と語る。


「ボンザメって言ってたね」と頷いたこすゑさんは、掌をひっくり返す仕草をしながらこう言った。


「海の中でサメに会ったとき、サメがこうやってひっくらかえったら噛まれるというのは、よく聞いてた。サメの口は下(顎)の方にあるから。噛むときは、ひっくらかえるということはよく聞かされたね」


 サメが人間を襲うときは“ひっくらかえる”——漁師の島ならではの生々しい表現が妙に印象に残った。


こんな場所にサメが出たのか


 こすゑさんの家を辞した後で、一人、日間賀島を歩く。今では海水浴場になっている場所から、そう遠くないところに、久芳さんの事故現場が見える。当然のことだが、こんな場所にサメが出たこと自体、今となっては信じられない。


 この取材時は久芳さんの事故が、日間賀島で連続した襲撃のどの事故であったかまでは特定するに至らなかったのだが、後日、観光協会のIさんから「こすゑさんがお仏壇から見つけたものがあったそうなので添付します」とメールが送られてきた。


 そこにはこう書かれていた。


〈性海覚了信士 昭和二十二年五月二十日 久野〇〇(久芳さんの父の名)二男 久野久芳〉


 ついに事故のあった日時が特定できた。昭和22年は1947年であるから、 前出の矢野の記録 とも一致する。久芳さんの生年は不明だが、19歳まで存命であったことはまわしをつけた写真の裏書で確認できる。久芳さんの兄(こすゑさんの父)の生年は1926年だというから、1927年生まれであれば事故のあった1947年には20歳、1928年生まれであれば19歳ということになる。いずれにしろ、あの写真を撮影して間もなく命を落としたのだ。その事実にまた粛然とした気分になる。


 Iさんによると今や日間賀島の漁業関係者でも、過去に凄惨なサメによる被害があったことは、よほど年配の方でなければ、知られていないという。Iさんが話を聞いてくれた80代の元漁師は、「小学生の頃にそんな事故があったけど、“子どもがそんなこと聞いてくるな”と叱られたから詳しくは知らないなぁ」と語っていたという。


 1950年を最後に日間賀島ではサメによる襲撃は起きていない。事故の記憶が風化していく中で、現地取材によって被害者の名前とその亡くなった正確な日付が判明した意味は小さくない。


 さらに調べるうちに、日間賀島で起きた「別の襲撃事件」のこともわかってきた。


(文中一部敬称略)



【参考文献】
「サメの攻撃による人的被害と被害による社会現象」矢野和成(「海洋と生物 142」2002年所収)



(伊藤 秀倫)

文春オンライン

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