「子持ちの中年」との結婚を清少納言に嘲笑された…紫式部の「20歳差の年の差婚」が3年で終わった理由

2024年2月24日(土)12時15分 プレジデント社

土佐光起作「清少納言図」(画像= CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

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NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部はどんな生活をしていたのか。古代和歌を研究する国文学者・山口博さんの新著『悩める平安貴族たち』(PHP新書)から、和歌に描かれた紫式部の結婚生活を紹介する——。

※本稿は、山口博『悩める平安貴族たち』(PHP新書)の一部を再編集したものです。


土佐光起作「清少納言図」(画像= CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

■性格の相違で離婚した清少納言


清少納言は十六歳前後から五年間程家庭の主婦として収まった。


夫は陸奥守橘則光という武骨者で、盗賊に襲われ、相手を斬り殺した話などが伝えられている。その反面、どちらかというとエレガントな和歌などは苦手だった。普段から口癖のように「私を愛するつもりならば、歌というものを作るな。歌を詠んで寄越す人は、敵と思うぞ。離婚する時にこそ、そんな歌というものを詠んでくれ」と言っていた。妻とは真逆な人物だった。


この夫の言葉の返事に清少納言は、


崩れよる妹背(いもせ)の山の中なれば さらに吉野(よしの)の川とだに見じ
(今は、山崩れした妹背山のように崩れた仲なので、良い間柄とは見ないつもりです)
清少納言(『枕草子』「里にまかでたるに」段)

と、「これでお別れ」と言い遣った。則光をやり込めるためか、意地悪な程複雑な技巧をもてあそんでいる。


大和国(奈良県)に妹山と背山があり、その間を流れるのが吉野川。妹山は妻の清少納言、背山は夫の則光、「中」に「仲」を、「吉野」に「好し」を、「川」に「彼は」をそれぞれ掛けている。崩れてしまった仲だから、好い仲とは見ないつもりだと離婚を言い渡したのだ。


こんなに手の込んだ技巧を凝らした歌に、優美な歌が不得手な則光が返歌などできるわけがない。石礫を投げて追い出すような、清少納言の意地悪な性格が垣間見られる。


■結婚5年目で破綻


「まことに見ずやなりにけむ。返事もせず(私の歌を本当に見なかったのだろうか。返事もくれない)」と、「やり込めてやったわ」という声が聞こえてくるような、性格の相違からのロマンのない別離だった。結婚五年目のことである。


だから『枕草子』には、則光像をかなりオーバーに書いている。則光だって第五代目の勅撰和歌集の『金葉和歌集』や、私撰集だが『続詞花和歌集』に歌が採択されているほどだから、実際は歌が嫌いでも不得意でもない。


これだけでは単に離婚話になってしまうが、則光の子や孫が『枕草子』伝来に関係がありそうなのだ。清少納言と則光の間には一子則長がいたが、三巻本系と呼ばれている『枕草子』の一系統本は、則長の子の則季の手を経ている。


また、能因本系は能因法師の書写した系統だが、能因法師の妹が則長の妻である。則光は、元妻の書いた『枕草子』を人々に自慢し、則長に伝えたのだろうか。


■家庭崩壊、その後宮仕えになる


写本の件はさておいて、結婚破綻からだろうか、家庭生活蔑視の観が『枕草子』にはうかがえる。例えば、


将来の希望もなく、ただ生真面目に見かけの幸福を追っているような人は、気づまりで軽蔑したくなるわ。
清少納言(『枕草子』「生ひ先なく」段)

「見かけの幸福」は原文では「似非幸(えせさいわ)ひ」で、夫の出世などをさし、現代の言葉でいうなら小市民的幸せで、虚構の家というニュアンスだ。それならどう生きるか。清少納言は続けて、


やはり相当な身分の人の娘は、宮仕えして仲間入りさせて、世間の有様も見せて慣れさせたく
清少納言(『枕草子』「生ひ先なく」段)

と言う。社会生活を体験させよと言うのだが、これは何も上流貴族の娘だからというだけではないだろう。彼女自身の体験からもきていると思われる。


家庭生活にうんざりしているところへ、その才を買われ、私的な女房として中宮定子(後に皇后)の許に出仕し、定子の死去まで八年間程仕えたのだから。宮仕えがよほど性に合ったのだろう。


■年の差婚だった紫式部のお相手とは


紫式部の結婚生活が終了した理由は、離婚ではなく、結婚して三年目に夫が亡くなったことだ。その経緯は彼女の越前国(福井県)下向から話さねばならない。日本海側の雪深い遠国への下向は、父藤原為時の赴任に伴ってのことだ。


為時の越前守任官には有名なエピソードがある。為時は任官発表で淡路(兵庫県の一部)守に任ぜられたが、三日後にわかに越前守に転任した。下国である淡路国に比べ、越前国は大国であり、国司としての格が違う。収入にも雲泥の差がある。


人事の結果、最初に淡路守に任ぜられた為時は、「苦学の寒夜、紅涙襟を霑し、除目の後朝、蒼天眼に在り」の句を、女房を通して奏上した。


「除目」というのは、在官者名を列記した目録から、旧任者の名を除いて新任者の名を書き込むことで、任官行事である。「寒い冬の夜、目を真っ赤にして紅の涙の流れるほど勉強した。そのかいなく任官発表では青ざめた目で天を眺めるばかり」と作詩したのだ。


為時の詩を読んだ一条天皇は食事も喉を通らず、寝所に入って泣いた。天皇の悲哀振りを聞いた藤原道長は、越前守に任じられたばかりの源国盛に辞退させたという。とばっちりを受けたのは国盛だ。国盛は衝撃のあまり病気になってしまい、秋の除目で播磨(兵庫県南西部)守に任じられたが、病は癒えず死んでしまったという。為時の漢詩作成能力の偉大さを物語るエピソードだ。


紫式部の夫・藤原宣孝(出典:国立国会図書館デジタルコレクション「肖像集 2 三島景雄・藤原宣孝」を加工して作成)

■平安京を離れ、父為時と越前に下る


待望の越前守になった為時は紫式部を伴い、越前国に下る。


同じ頃、筑紫(福岡県)の任地に向かう父親に伴って下る友人は、紫式部に歌を寄越した。


西の海を思ひ遣りつつ月見れば ただに泣かるる頃にもあるかな
(これから向かう遠い西の海に思いを馳せながら、西に傾く月を眺めていますと、もう泣けてならないこの頃です)
筑紫へ行く人の娘(『紫式部集』)

これに対し紫式部は、


西へ行く月のたよりに玉章(たまずさ)の 書き絶えめやは雲の通ひ路
(西に向かう月という好便に託して、貴女への手紙の絶えることがありましょうか。雲の往来する道によってお便りいたしましょう)
紫式部(『紫式部集』)

と詠み送り、慰めるのであった。


紫式部が越前国府のあった武生(たけふ)(福井県越前市)に下ったのは、二十四歳頃である。愛発(あらち)山を越えて敦賀に出、北陸道を越前に下った紫式部は、僻地と雪にすっかり辟易した。


土佐光起作「石山寺紫式部書写風景」(画像=Harvard Art Museums/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

■平安京が恋しい


雪山を造って人々が登り、「雪が嫌でも、やはり出ていらっしゃって御覧なさい」と言われて、紫式部は、


ふるさとに帰るの山のそれならば 心やゆくとゆきも見てまし
(雪山が、ふるさとの都に帰る時に越えるその名も鹿蒜(かえる)山であるならば、心も晴れるかと出て行って雪も見ましょうが、そうでないから見たくないわ)
紫式部(『紫式部集』)

と詠むのであった。「帰るの山」に「鹿蒜山」を掛ける。西へ向かう友人は、下向する紫式部をこう歌って慰めた。


行きめぐり誰も都へ鹿蒜山 五幡(いつはた)と聞く程の遥(はる)けさ
(時が来れば誰でも都へ帰れますわ。貴女の行く越(こ)には、その名も帰る山があるの。でも五幡という所もあるのね。いつはた、本当にいつまた帰ることができるのかしら。遥か先のことね)
筑紫へ下向した人(『紫式部集』)

敦賀を出ると、北陸道は五幡(敦賀市東部)から鹿蒜山(福井県南条郡南越前町の木ノ芽峠)にかかる。五幡も鹿蒜も、都下りの歌人の心を汲んでその名を付けたわけではない。


それにしても、五幡・鹿蒜で「いつはた(いつまた)、帰る」とは掛詞としては、実に良くできているではないか。北陸道の国司にとっては望郷の慣用句だった。


清少納言が「山は」として、「五幡山。鹿蒜山」と並べ、その後に続けて「後瀬山」を配する。後瀬山は福井県小浜市にある山で「後の逢う瀬(後に逢う時)」と掛詞として常用される。「いつはた帰る。後の逢う瀬を(いつまた帰ることができるだろうか。後の逢う瀬を期待して)」(『枕草子』「山は」段)と巧みに並べているのは、上出来だ。


■父を残して帰京、結婚相手は子持ちの中年貴族


越前在国一年にして紫式部は父を残して帰京し、筑前(福岡県の北西部)守藤原宣孝と結婚した。宣孝は紫式部在京の頃から心を寄せていて、越前にいる紫式部に都から「春になれば雪も溶けるもの。私に対して閉ざしている貴女の心も溶けるのではないですか」と言ってきた。


しかし当時の習慣として、この程度でウンと言うはずはない。まず拒絶するのがルールだ。紫式部は型通りに返す。


春なれど白嶺(しらね)の深雪(みゆき)いや積もり 溶くべき程のいつとなきかな
(春にはなりましたが、それを知らないようにこちらの白山の雪は益々積もって、いつ溶けるものか分かりません。私の心も同じですわ)
紫式部(『紫式部集』)

「白嶺」は加賀(石川県)の白山、その名の通り雪深く白い山である。プロポーズしてきた宣孝は父の同僚だから、紫式部より二十歳程年上で、既に先妻が三人はおり、紫式部と同年くらいの息子を頭に数人の子持ちであった。


紫式部にプロポーズしている時にも、近江守の娘に言い寄っていたとの噂もあったが、「二心なし(浮気心はない)」と言ってくるのである。先の紫式部の歌で「溶くべき程のいつとなきかな」と逡巡した理由は、この事情も含むか。


写真=iStock.com/Diamond Dogs
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Diamond Dogs

■清少納言があざ笑う


越前国にいた紫式部に、宣孝は京よりラブレターをしきりに送ってきた。


変わったラブレターもあった。紙の上に朱色をポタポタと振りかけて「貴女を思う私の涙の色がこれです」と思慕の心の深さを誇張して書いてあった。それに対し紫式部は、


紅(くれない)の涙ぞいとど疎(うと)まるる 移る心の色に見ゆれば
(紅の色を私は疎ましく思います。紅は色あせ移り易いものですから)
紫式部(『紫式部集』)
山口博『悩める平安貴族たち』(PHP新書)

とやり返すのであった。この歌の後書に「もとより人の娘を得たる人なりけり(この人は以前から他の娘と結婚していたのです)」と、わざわざ「移る心」「疎まるる」の注を付けるのである。


宣孝が吉野の金峯山の御嶽詣を行った時に、周囲の人が「珍しくあやしきこと」と「あさましがりし」ほど、馬鹿に派手な服装で詣でたというエピソードもある。


清少納言はこの一件を、「これはあはれなる事にはあらねど」として、「あはれなるもの」(『枕草子』)にわざわざ書き込むところに、彼女のバサラ宣孝への冷笑と、そのような性格の、しかも年上の男のプロポーズを受け入れる紫式部への嘲笑がうかがわれる。


■なぜ紫式部は「年の差婚」に踏み切ったのか


宣孝のプロポーズを受け入れたのも、北国の雪に辟易していて京へ帰りたさからばかりではないだろう。心奥は分からず推し量るしかないが、既に年齢は二十七歳。『梁塵(りょうじん)秘抄』は、平安時代末期に後白河法皇が編集した歌謡集だが、その歌謡に依れば、


女の盛りなるは、十四、五、六歳、二十三、四とか、三十四、五にし成りぬれば、紅葉(もみじ)の下葉(したば)に異(こと)ならず(『梁塵秘抄』)

二十七歳は女盛りの末期、紅葉の下葉になりかけた年齢である。堅物の学者の父の許で虫ぞろぞろの書物に囲まれて、華やかさも面白味もない生活に飽き飽きし不満があるところへ、いささかバサラがかった真逆な性格の宣孝にひかれたのか。


宣孝にしてみれば、多数の女を経験しているので、二十七歳にもなった学者かぶれの女を、手に入れてみるかという遊び心か、あるいは天皇や道長に衝撃を与えるほどの大学者為時を縁者に持つことによる出世の手立てか。


■結婚生活は3年目で終わった


いささか週刊誌並みの当て推量になったが、紫式部は父を残して帰京し、宣孝と結婚した。だが夜離(よが)れが続き、哀れなことに夫は結婚三年目に亡くなった。


夫の死去に伴い世のはかなさを嘆いていた頃、陸奥名所絵に塩焼く煙で有名な塩釜の絵を見た紫式部は、


見し人の煙となりし夕(ゆうべ)より 名ぞ睦(むつ)まじき塩釜の浦
(あの人が荼毘(だび)の煙となった夕方から、塩焼く煙の絶えない塩釜の浦は、どうしてか名を聞いただけでも親しく思われるわ)
紫式部(『紫式部集』)

と詠み、夫を喪った身を悲しむのであった。


多情であった夫だが、この歌からは紫式部にとって短い結婚生活も満更ではなかったように思われる。親子ほどの年齢差のある夫婦は、『源氏物語』のヒーロー光源氏とヒロイン紫上がそうであった。


この歌は『源氏物語』で、あっけなく死んでしまった夕顔を偲ぶ光源氏の歌、


見し人の煙を雲と眺むれば 夕の空も睦まじきかな
光源氏(『源氏物語』第四帖「夕顔」)

に生かされているのではとの説は、正しいだろう。


空行く煙が間もなく消えるような、紫式部のあっけない結婚生活だった。


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山口 博 (やまぐち・ひろし)
国文学者
1932年、東京生まれ。東京都立大学大学院博士課程単位取得退学。富山大学・聖徳大学名誉教授、元新潟大学教授。文学博士。カルチャースクールでの、物語性あふれる語り口に定評がある。著書に、『王朝歌檀の研究』(桜楓社)、『王朝貴族物語』(講談社現代新書)、『平安貴族のシルクロード』(角川選書)、『こんなにも面白い日本の古典』(角川ソフィア文庫)、『創られたスサノオ神話』(中公叢書)、『こんなにも面白い万葉集』(PHP研究所)などがある。
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(国文学者 山口 博 )

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