14歳で選んだ腕一本で稼げる仕事…「107歳の現役理容師」は迷うことなく93年間ハサミを握り続けた

2024年2月28日(水)6時15分 プレジデント社

理容 ハコイシ 箱石シツイさん - 撮影=向井渉

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世界最高齢の現役理容師が栃木県にいる。14歳で見習いとして東京の理容室に入り、93年にわたって迷うことなくその道一本を歩んできた。連載「Over80 50年働いてきました」13人目は107歳の現役理容師・箱石シツイさん——。

■年齢早見表に載っていない大正5年生まれ


わが国最年長の現役理容師、箱石シツイさんは大正5年(1916年)11月10日生まれの107歳。考えてみれば、100歳をこえる方の話を直接聞くのは生まれて初めてのことである。


久しぶりに吉川弘文館の『日本史年表・地図』を開いてみると、シツイさんが生まれた大正5年の1月に大隈重信が要撃されて第二次大隈重信内閣が倒れ、10月に寺内正毅内閣が成立とある。


撮影=向井渉
理容 ハコイシ 箱石シツイさん - 撮影=向井渉

第一次世界大戦が始まったのが大正3年。日本はドイツに宣戦布告して中国の山東半島に陸海軍を上陸させ、大正4年には中国に対して「21カ条の要求」を突きつけ、大正7年にはシベリアに出兵している。国内では同年に“平民宰相”こと原敬の政友会内閣が成立して、普通選挙獲得運動が始まった。


「2024年用」のシツイさんの名刺(撮影=向井渉)

シツイさんは、政党政治が勃興して普通選挙(男性のみ)が実現する大正デモクラシーの渦中に生を享けたわけだが、その時代はまた、わが国が第一次大戦に勝利し、列強の一角(5大国)として国際社会でのプレステージを高めていく時代でもあった。


ちなみに、筆者が愛用している能率手帳の巻末には「年齢早見表」がついているが、表の始まりは「大正12年 1923年 100歳」である。現在、100歳ごえの人口は全国で約9万人いるそうだ。


■「人を恨まず、人を妬まず、人と争わず」という母の教え


「小学校でドッジボールをやるでしょう。そうすると、友だちがみんな私のほうに入りたいって言うんですよ。うれしかったですね」


JR水郡線の常陸大子駅から車で20分ほど。「理容 ハコイシ」は栃木県那須郡の国道461号沿いにある。かつてたばこの栽培で栄えたこの谷川地区には、当時、尋常小学校の分校が3つあった。運動神経抜群のシツイさんは、3校合同の運動会では常に主力選手のひとりであり、活躍のご褒美にいつも半紙の束を貰って帰ったそうだ。


乳母に育てられていた頃のシツイさん(左から2番目)。左が実母で右が乳母(画像提供=本人)

大正時代の小学生がドッジボールをやっていたのも驚きだが、クラスメイトがみんなシツイさんのチームに入りたがるのでは試合にならない。


「なんでみんながこっちに入りたがったかって? 私は喧嘩をしたことがなかったですからね。小さい時から『人を恨まず、人を妬まず、人と争わず』って母親から教えられていたんです。だからみんな私のほうにきたがったの」


こうした心持ちが長寿の秘訣(ひけつ)だなどというのは、早合点だ。シツイさんの人生は、大正から昭和にかけての日本の歴史がそうであったように、文字通り「激動の人生」だった。


■尋常小学校を卒業して住み込みで和裁を習う


激動の第一波は、尋常小学校卒業と同時にやってきた。当時の谷川地区には高等科(中学校)がなかった。隣の大内地区にある高等科までは8キロの道のりがあったが、小柄(現在の身長は138センチ)だったシツイさんは自転車に乗れなかった。歩けば2時間近くかかる距離である。


「毎日歩けば体が弱ってしまうから、親の考えで高等科には行かずに、村長のお宅に住み込みでお行儀と和裁を習うことになったんです。12歳のころです」


1年ほど御新造さん(村長の奥さん)に和裁を教わったが、古い着物をほどいて、洗って、板に広げて干す程度のことで、なかなか着物を縫うところまではたどり着かない。


■14歳で東京の理容室に見習いで入る


そんなある日に、東京で理容室を開業している親方(経営者)が、知人を介して「理容師にならないか?」と誘いをかけてきた。シツイさんの同級生の妹が、その親方の下で見習いをやっていたのだ。


撮影=向井渉
理容師になったころから愛用しているシツイさんの仕事道具 - 撮影=向井渉
撮影=向井渉

「田舎で和裁をやっているよりもいいかなと思って、親と相談して、御新造さんにも相談したら『あなたの好きなようにしなさい』と言われたので、東京へ行くことにしたんです」


現在でも、水郡線の常陸大子駅から上野駅までの所要時間は、特急ひたちを使って3時間近くかかる。蒸気機関車でどれだけの時間がかかったか分からないが、小学校を卒業して間もない子どもにとって、東京は遥か彼方だっただろう。


「実は小学校を卒業した時、父親が東京見物をさせてくれたんです。宮城も見に行きましたよ。やっぱり東京はいいなと思ってね。行ってみたいという気持ちが強かったです」


御新造さんと両親の後押しもあって、シツイさんは向島区吾嬬町の理容室に見習いで入ることになった。


「外国に行くみたいでドキドキしたけど、憧れがありましたからね」


■夫が亡くなる可能性を踏まえて腕一本で稼げる道を選んだ少女


これだけを聞けば、NHKの連続テレビ小説の初回のようなイメージだが、シツイさんが理容の道に入ることを決めたのは、単に東京に行きたかったからではなかった。


「小さい頃から周りの大人たちが、『結婚して子どもができても旦那さんが亡くなったら苦労するから、手に職を持ったほうがいい』と言っていたんです。親戚が東京でがま口を作る工場をやっていて、そこに勤める話もあったんだけど、私は好かなかった。だって、がま口は何人もの人が工場に集まって作るもので、ひとりじゃ作れないんですよ」


撮影=向井渉
理容師の免許をとった88年前のシツイさん - 撮影=向井渉

つまりシツイさんは、10歳そこそこで将来「旦那さんが亡くなる」可能性を踏まえて、腕一本で稼げる道を選んだのだ。シツイさんの日常には、周囲の大人たちの言葉を通して、戦争の影が忍び込んでいたのではないだろうか。


美容ではなく理容を選んだ理由も時代を感じさせる。


「当時は美容のことを『髪結い』と言ったんだけど、昔の女の人は髪を長く伸ばしてあまり洗髪しなかったから、不潔だったんです。その点、理容は衛生的だから、どうせやるなら理容がいいと思ったんです」


■他の見習いが遊んでいる間に剃刀の練習


シツイさんが初めて見習いとして入った向島の理容室には、例の同級生の妹のサクちゃんの他に2人の見習いがおり、シツイさんは女性ばかり4人の見習いの4番目だった。24歳の女性の親方(当時は女性でも親方と呼んだ)は優しい人で、店が終わると見習いを引き連れて夜店に繰り出すのを習慣にしていた。


「浅草の松屋(1931年開業)から亀戸天神にかけて、毎晩、夜店が立ったんです。果物からお菓子から焼き芋から雑貨まで、何でもあってとても楽しいんですが、私は2、3回しか行かなかった。夜店で遊ぶお金もなかったし、早く他の見習いの人に追いつきたかったから、仮病を使っては先に布団に入らせてもらって、みんなが夜店に出かけた後に起き出して剃刀の練習をしたんです」


当時の剃刀は全長15センチほどの日本刀だった。顔剃りの練習には底に煤のついた土鍋を使ったそうである。煤をひげに見立てて、日本刀で煤を落とした。


「顔剃りができるようになればお客が取れるから、一所懸命練習しました。でも、刃を研ぐのが難しくてね。石(砥石(といし))と鉄と水でしょう。冬場は凍っちゃうから、つるーっとすべってぱっと切っちゃう。ほらこの指、ゲジゲジでしょう。みんな剃刀で切った痕ですよ」


撮影=向井渉
シツイさんの指には剃刀で切った痕が何本も残る - 撮影=向井渉

努力の甲斐あって、シツイさんは他の見習いよりも早く顔剃りをやらせてもらえるようになった。髪を切るのは危険ではないから、顔剃りができればもう一人前だった。


■どうせやるなら有名になりたい


当初、シツイさんは店の中で「チヨちゃん」という綽名で呼ばれていたが、やがて親方から「トクちゃん」と呼ばれるようになった。


「特別のトク。タオルを洗ったり店のガラスを拭いたり、とにかく細かく働いたんで、親方が特別扱いしてくれたんです。だから、トクちゃん」


この道一本を貫き、「世界最高齢の現役理容師」の認定を受けた(撮影=向井渉)

なぜ、シツイさんはそんなに必死で働いたのか。


「全部、自分のためです。将来、床屋を開業するって決めていたし、どうせやるなら有名になりたかったから、床屋の仕事は全部覚えたほうがいいと思っていたんです。18、9になるとみんな一時は、他の仕事をやってみようかなと迷うものですが、私はぜんぜん迷わなかった。この道一本で通したんです」


■お世話になった親方の元を離れがたく嘘の電報を…


吾嬬町の店には5年間奉公した。お礼奉公が1年残っていたが、親方は「トクちゃんの将来のためにも、少しでも早く他の店で修業した方がいい」とシツイさんの背中を押してくれた。しかし、親方に義理を感じていたシツイさんは、なかなかお店を離れることができない。


仕方なく、栃木の父親に「母が病気になったから帰ってこい」という嘘の電報を打ってもらった。すると、それを真に受けた親方は、実家の母親に缶詰、父親にはタバコを送ってくれたという。


「よけいに義理で(がんじがらめになって)どうにもならなかったですが、違う店で修業をするのも大切でしたからね」


どうにか吾嬬町の店を離脱すると、下町で数軒の床屋を渡り歩いて腕を上げた。シツイさんはその後、四谷見附の「ライト」という店に移っている。


「ずっと下町の工場街で仕事をしていたので、山の手でも仕事をしてみたいと思ったんです。山の手はお客さんの身のこなしも服装も垢抜けていましたね」


この「ライト」への移籍が、シツイさんの人生に激動の第二波をもたらすことになる。


■出張で髪を切っていたご婦人から「結婚はまだ?」


ある日、品のいいご婦人が女中さんを連れて「ライト」に来店した。電話予約の常連客だったが、店内を見回すと新入りのシツイさんを指名してきた。


「刈り上げにして欲しいと言われたんですが、昔の刈り上げはいまの刈り上げと違って、お金持ちしかやらない髪型でした」


その婦人は、その後も来店の度にシツイさんを指名するようになった。シツイさんが他の客にかかっていても、「あの女性を待ちますから」といって、シツイさんの手が空くのを待ってくれた。


よほどシツイさんが気に入ったのか、その婦人はシツイさんに出張を依頼するようになった。マスター(ライトでは親方と呼ばずに店主をマスターと呼んだ)に聞いてみると、前例はないけれど問題ないと許可してくれた。


「訪ねて行くと、女中さんが5、6人もいる大きなお屋敷でした。なぜかお屋敷の中に美容室があって、床屋の椅子が置いてありました。毎回、お茶とお菓子を出してくれて、可愛がってくれたんです。何回か出張するうちに、『あなた、まだ結婚しないの?』なんて聞かれるようになって、実家のほうからも、そろそろ結婚したほうがいいと言われていたんですが、なにしろ自分の店を持ちたいと思ってお金を貯めている最中だったから、結婚はずっと遅くでいいと思っていたんです」


■夫婦で理容店を開業


シツイさんはご婦人の言葉をのらりくらりとかわしていたが、何度目かの出張の際に、ご婦人が直球勝負に出てきた。


「実は私の甥も同業(理容師)なんですよ。そろそろ結婚しなくてはならない年頃なんですけれどね……」


その甥っ子は大手商社の参事の息子で、母親を早くに亡くして継母に育てられたが、ひどい継子いじめに遭って家を出て理容師の資格を取り、おばであるご婦人の元に身を寄せているという話だった。


「おばさんに呼ばれて奥から出てきて、『こんにちは、僕も同じ商売なんですよ』なんて仕事の話をちょっとしたぐらいでね……」


親に手紙で知らせると、トントン拍子に話が進んだ。


「床屋仲間とは、動作から何からちょっと雰囲気が違う人でしたね」


こうしてシツイさんは、箱石二郎さんと結婚をすることになった。シツイさんは22歳、二郎さんは24歳である。


シツイさんが開店資金として貯めていた200円を出し、二郎さんがその半分の100円を出して、昭和14年、新宿の下落合に「ヒカリ理容店」を開店した。「ライト」で修業したから「ヒカリ」、というわけだ。


■夫に届いた招集令状


自分(だけ)のお店を持つという夢とは異なる形で開業することになったわけだが、二郎さんは、店の切り盛りをシツイさんに任せてくれた。


ヒカリは大繁盛し、見習いの弟子も入り、すでに免許を持っている職人も2人入った。念願のお店を持ち、長女と長男も生まれてシツイさんは幸福の絶頂にいた。しかし、時代は軍部の台頭によって風雲急を告げていた。昭和12年には、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まり、昭和13年に国家総動員法が成立。日本軍による真珠湾攻撃は、昭和16年の12月8日である。


「お父さんに招集令状が来たのは、昭和19年の7月17日でした。店の向いに『公民館』という屋号の本屋さんがあってね、そこの旦那さんが入隊と除隊を3回も繰り返していたから、私はうちのお父さんも1、2年で帰ってくるものだと思っていたんです」


■2人の子を両腕に抱えて号泣する夫


出征の日、見送りの人たちが集まってきたが、二郎さんは店の二階からなかなか降りてこなかった。シツイさんが二階に上がって「見送りの方が来てますよ」と声をかけると、長女と長男を両腕に抱えて、号泣していた。


「両腕が塞がっているから、鼻から涙が垂れるぐらい泣いていました」


出征の翌々日、宛名も差出人の名前もない葉書がひかりのポストに入っていた。書かれていたのは「12時30分新宿駅通過」という文字のみである。


「きっと、誰かに託したんだと思いますが、名前は書けなかったんでしょうね。この時刻に新宿駅に来てくれという意味だったんでしょうが、間に合いませんでした」


これが、二郎さんからの最初で最後の音信になった。


後編に続く)


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山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター
1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。
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(ノンフィクションライター 山田 清機)

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