足に重りを付けて上げて下ろしてを1000回…「107歳の現役理容師」が続ける驚きの筋トレ内容と心の支え

2024年2月28日(水)6時16分 プレジデント社

理容 ハコイシ 箱石シツイさん - 撮影=向井渉

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107歳の現役理容師・箱石シツイさんは、同時期に父と母を亡くし、夫の戦死広報を受け取った。一家心中を考えるほど思い詰めながら、必死で2人の子どもを育て上げた箱石さんが語る「今も店に立ち続ける理由」とは——。

■2人で開いた理容店が木っ端みじんに…


夫、二郎さんの戦死広報が栃木の実家に届いたのは、昭和28年3月のことだった。言うまでもなく終戦は昭和20年8月15日だが、不思議なことに、二郎さんの戦死は昭和20年の8月19日、つまり終戦の4日後になっていた。場所は中国の吉林省。戦死の状況は一切わからないし、遺骨も返ってはこなかった。


撮影=向井渉
理容 ハコイシ 箱石シツイさん - 撮影=向井渉

シツイさんとふたりの子どもは、奇跡的に無事だった。奇跡的というのは、昭和19年12月27日、シツイさんが疎開の相談のために子どもを連れて栃木の実家を訪ねていたその日の晩に、下落合の「ヒカリ理容店」を500キロ爆弾が直撃したからである。店は木っ端みじんに吹き飛んでしまった。


「お父さんが、店の畳の下に防空壕(ごう)を掘ってくれたんだけど、あの中に入っていたら、親子3人、蒸し焼きになっていたでしょうね」


終戦から戦死広報が届くまでの8年の間、シツイさん親子は二郎さんの帰りをひたすら待ち続けていた。


「うちの横に細い道が通っているんだけど、夜、人の足音がすると、『あっ、お父さんかな』って言ってね、3人でずっと待っていたんです」


■焼け跡から拾った鏡で臨時の床屋を開業


ヒカリはすっかり焼けてしまったが、シツイさんには理容師という職があった。先述したとおり谷川地区はたばこの産地であり、農家はそれぞれたばこの乾燥場を持っていた。シツイさんは、ヒカリの焼け跡から拾ってきた割れた鏡を乾燥場にぶら下げて、臨時の床屋を開業したのである。


改めて取り直した理容師免許(撮影=向井渉)

「東京で床屋をやっていた人が戻ってきたっていうんで、ぽつりぽつりとお客さんが来るようになりました。お寺に疎開していた学童のところに出張に行って頭を刈ることもありました」


やがて、シツイさん持ち前の明るさが子どもたちの間で人気になり、小学校で学芸会や運動会があると、大勢の子どもたちが押しかけるようになった。


しかし、近所には別の床屋があり、しかも、シツイさんは疎開のどさくさで免許を紛失していたこともあって、さんざんな悪口を言われる羽目になってしまった。


「東下りだとか、もぐりの床屋だとか、乾燥場床屋とかね……」


しかも、客のほとんどが農家だったから、散髪代の代わりに米や野菜を持ってくる。開業資金は一向にたまらなかった。


■父、母の死と、夫の戦死の知らせ


昭和22年に父の政治さんが亡くなり、昭和24年に母のキエさんが亡くなった。そして昭和28年、シツイさんにとどめを刺すように、二郎さんの戦死広報が届いた。


「ああ、東京に出る時、『結婚して子どもができても、旦那さんが亡くなったら苦労するから』って大人たちから言われたことが、本当になってしまったんだと思いました」


二郎さんの戦死広報が届いて数日後のこと、長男の英政さんが小学校から帰ってくると、なぜか家の雨戸がすべて閉まっていた。


何事かと思って家に入ってみると、真っ暗な部屋の中で、シツイさんと長女が抱き合うようにして座っていた。英政さんが言う。


撮影=向井渉
長男の箱石英政さん(左) - 撮影=向井渉

「姉のみつ子が、『お母ちゃんが一緒に死のうと言ってるよ。みっちゃんはお母さんと一緒ならいいよ。ひでちゃんもここへ来て、一緒にお父さんのところへ行こうよ』と言うんです。2人の目の前に、皿に盛ったネコイラズ(殺鼠剤)が置いてありました」


シツイさんは、子どもふたりと心中を図ろうとしたのだ。しかし、当時小学校3年生だった英政さんには、そんな気持ちは毛頭なかった。親戚の家に走って行って、心中を止めてくれるように頼んで回った。


■心中未遂から10日、新しい店を出す決意


それからしばらくの間、雨戸を閉じたままの暗い生活が続いたが、心中未遂から10日ほどたったとき、英政さんが学校から帰ってくると雨戸が開いていた。


シツイさんが英政さんに向かって、「お母さん、お店出すからね」と宣言をした。シツイさんが言う。


「子どもに教育もしてやれないし、この辺の人は髪を切ってあげても米とか野菜とか持ってくるだけだから、床屋を立ち上げる資金も貯められなかった。だからネコイラズを飲もうなんて考えたんだけど、二郎さんが兵隊に行くとき、持っていたお金を全部私に渡して、『子どもだけは大切に育ててくれ』と言ったのを思い出したんです」


ちょうど昭和28年から、母子福祉資金の貸付制度が始まったことも大きかった。シツイさんはこの貸付制度によって、開店資金を工面することができた。それが生きる希望につながった。


昭和28年8月13日、シツイさんは「理容 ハコイシ」を開業した。お盆休みに合わせて開店するという作戦が当たって、「理容 ハコイシ」は開店と同時に大盛況を記録することになったのである。


■107歳が語る「働く理由」


以来70年、シツイさんは107歳になった現在でも、月に4、5人の客の髪を切り続けている。


「なんで働き続けるのかって? それは、人間、働くものだからね。生きてる以上、食べなくてはならないし、買わなくてはならないから、死に物狂いで働いてきたんです。少し前までは、床屋をしない人もここに集まってきて、持ってきたお菓子を食べたりお茶を飲んだりしてね、『谷川サロン』なんて呼ばれていたんですよ。ここに人がいないことはなかったですね」


現在の客の中には、赤ん坊の頃からシツイさんに髪を切ってもらっていた人もいるというから、107歳という年齢は、やはりけた外れの長寿なのだと再認識させられる。しかも、シツイさんは背中の曲がりもなければ、腰痛も膝の痛みもなく、内臓疾患もないという。そして、声は力強く、頭も冴えている。


撮影=向井渉
毎日運動を続けるシツイさん。片足立ちでサッとここまで足があがることに取材スタッフは驚いた - 撮影=向井渉

■スタッフ一同、度肝を抜かれた「シツイ流・筋トレ」の内容


「長寿の秘訣(ひけつ)ですか? 70歳から始めた自己流体操と、前の体育館の駐車場を毎朝歩くことですかね。(東京オリンピックの)聖火ランナーをやったときには、毎朝、1000歩歩いていましたよ」


聖火ランナーをしたときのトーチは今も大事にしている(撮影=向井渉)

自己流体操のメニューは、柔軟体操、ツボ押しから筋トレまで30種類ほどあり、シツイさんはそれらを組み合わせながら、毎日気が済むまで体のメンテナンスをする。体操が終わるとウォーキングに出かけるが、毎日やらないと気が済まない。


「体を動かさないと体が硬くなるからね。今日はちょっと辛いから歩くのやめようかなと思っても、やっぱりダメだ! と思って歩きに行くんです」


圧巻はベッドに腰をかけて行う筋トレだ。片足に1.5キロずつ、合計3キロの鉛をつけて、脚が床と水平になるまで上げては下ろす。その運動をなんと500回から1000回もやるというのである。これには取材スタッフ一同、度肝を抜かれてしまった。


撮影=向井渉
シツイさんがつけている足用の重り。ずっしりと1.5キロある - 撮影=向井渉

■主食は米、おかずは野菜


何十年も飲み続けている、お茶の効果もすごい。シツイさんは50代のとき腎臓病を患ったことがあり、毎朝、目も開けられないほど顔がむくんでいたが、息子の英政さんが試行錯誤の末に作り上げ、特許も取得したお茶を飲み続けて、自力で治してしまったという。


畔野果(あぜのか)というこのお茶にはアザミ、アザミの根、ミョウガ、ツユ草、紫ツユ草など、一風変わった植物が入っているが、アザミもツユ草も、かつて茨城や栃木では常食にしていた植物だそうである。


「私は息子が作ってくれるお茶以外、緑茶もコーヒーも飲まないし、肉も魚もほとんど食べないんです。揚げ物なんかも食べろ食べろと言われるんだけど、無理をして少し食べるだけ」


シツイさんの主食は米、おかずは地元で採れた野菜。以前は畑をやっていて、タマネギ、トマト、ホウレンソウ、キャベツ、ハクサイ、ダイコンなど、多くの野菜をほぼ自給していた。


「畑があると、畑仕事をやらなくちゃならないからね。野菜を作ってると楽しいですよ。米はみんなが持ってきてくれるから、買ったことがないんです」


■今も夫が戻ってくるんじゃないかという希望がある


徹底して体を動かし、毎日歩き、嗜好(しこう)品を好まず、粗食を好み、極力自給的な生活を送る。どうやらそれがシツイさんの長寿の秘訣らしいのだが、案外、そうした生活を送っている人はたくさんいるのではないか。


撮影=向井渉
お店の前で取材スタッフを見送ってくれたシツイさん - 撮影=向井渉

いったい何が、100歳をこえる“超長寿”にシツイさんを導いたのか? ふと、二郎さんの戦死広報のことが頭に浮かんだ。戦死広報が届いたのは終戦の8年後。遺骨はいまだに返ってこない。


「いまでも二郎さんが死んだって、信じられないんですよ。どこかで捕虜になって生きているんじゃないか、それともボロを着て、中国の農家の手伝いでもしているんじゃないか。もしかしたら戻ってくるんじゃないかっていう希望が、まだあるんです」


この希望がシツイさんを支え続けているというのは、穿った見方に過ぎるだろうか。


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山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター
1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。
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(ノンフィクションライター 山田 清機)

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