月15万円をアルツハイマー病の老母介護に投入で貯金0円…派遣で働く40代娘を待ち受ける"切実老後"
2025年3月1日(土)10時16分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/goc
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【前編のあらすじ】近畿地方在住の高蔵小鳥さん(仮名・40代独身)はひとりっ子。40歳目前までいくつかの仕事を経験後、ずっと勤めたかったアパレル系の会社の人事に採用される。しかし直後、母親は認知症と診断され、それから半年も経たないうちに胃がんとわかる。母親の介護や病院の付き添いなどをこなしながら、仕事を続けていた高蔵さんだったが、ついに退職という決断を下した——。
■離職と介護の両立
悩みに悩んで離職を決断した高蔵小鳥さん(仮名・40代独身)は、「今は、母親(79歳)を優先する」と心に決め、認知症を理解することに努めた。
「私は、元気だった頃の母との対話を取り戻すことを願っていましたが、現実は違いました。離職後、介護の日々はますます厳しくなり、私は母の日常的なケアに全力を尽くしましたが、それでも限界を感じることがありました。そして認知症の進行とともに、母はどんどん他人に依存するようになっていきました」
同じことを何度も聞かれることにうんざりすることは頻繁にあった。うんざりした様子を察したのか、母親は「子どもなんだから親の介護をするのは当たりまえ!」と言うこともあった。その一方で、まだ自分でトイレも食事も入浴もできたが、食べる順番や服を脱ぎ着する順番などを近くで教えないとできず、何もかもすぐに忘れてしまう。それでも母親は、「全部1人でできている!」と豪語した。
お金や時間を犠牲にすることを覚悟して介護の世界に飛び込んだ高蔵さんだが、してあげていることを全く認識されないことや一切感謝されないことは、やるせないことだった。
「離職と介護の両立は、経済的な負担も伴います。仕事を離れることで収入が減少し、生活費や医療費などの負担割合が増大しました。この状況は私にとって大きなストレスであり、不安と絶望感に苛まれる日々が続きました。しかしこの難しい状況の中で、私は多くのことを学ぶことができました。これまで私が母に任せっきりで、全くしてこなかった家の財政管理について、状況を把握することができたこともその一つです」
父親との離婚後、母親は全く働いておらず、わずかな貯金だけで生活していた。高蔵さんが実家に戻ってきてからは、高蔵さんが入れてくれるお金と貯金で生活しており、60歳からは国民年金が受給されていた。
「母は国民年金のみで、まだ老後が続くと考えると、私がお金を入れなければ、生活できない貯金額しかありませんでした。それを知った私は、国の制度や地域の支援ネットワークの重要性を学びました。そして、介護者としての役割を果たすことの尊さと責任を痛感。働いていたときは出張も多く、母と向き合う時間をあまり持ってこなかったのも事実です。認知症が進行する母との時間があまり残されていないことを痛感すると、介護離職は決して容易な決断ではありませんでしたが、その結果、私は母との貴重な時間を共有することができたので、良かったのだと思います」
当時を振り返ってこう話す高蔵さんだが、金銭面の心許なさと「このまま家にいては、社会に復帰できなくなるのではないか」という不安から精神的に疲弊し、離職から3カ月後に就職活動を開始した。
1 家から近い職場
2 残業があまりない職場
3 ある程度休みの融通が利く職場
4 肉体労働ではない職場
5 給与はひとまず生活する最低限でよい
という5点を考えた結果、初めて派遣という働き方に挑戦することにした。
■認知症患者の入院
派遣を始めてみた高蔵さんは、「自分に合っている」と感じた。
母親の介護をしていることをダメもとで話したところ、母親のデイサービスのない日は半日リモートワークにさせてもらったり、母親の通院で半休もいらないというときは、2回で半日の有給を使用させてもらったりするなど、融通の利く職場と出会うことができた。
母親は、胃がんの手術後、2年ほどは気管が狭まる症状が出て、食べても喉に詰まり、戻してしまうことが続いたが、バルーン拡張術を4〜5回受け、徐々に食べられるようになっていった。
ところが、胃がんの手術から2年後のこと。定期検診で医師から「瞼が腫れて下がっているのが気になる」と言われて検査したところ、「バセドウ病」であることがわかる。
さらに「バセドウ病」の治療を始めた後、顔が浮腫(むく)んだり、ちょっと歩くと「しんどい」というようになった母親だったが、そのことを主治医に相談すると、「心臓が正常に機能していない」ことが判明。脈が異常に少ないため、その日のうちにペースメーカーを入れる手術を受け、入院する。
「またそれからが大変でした。ペースメーカーが固定されるまで、3カ月ほどは左腕を肩から上に上げることは避けたい行為なのですが、手術をしたことが理解できない母は、とにかくバンドは外すし、勝手に帰ろうとするのです」
1日目は、軽い麻酔を打って眠ってもらった。2日目は、高蔵さんが夕飯まで一緒にいて、落ち着いていたので大丈夫かと思われたが、看護師さんの言葉を勘違いし、「出ていけと言われた!」と突然怒り出したため、「病院に泊まってお母さんの世話をしてほしい」と病院から頼まれた。
「入院と手術は、本人が全く理解できないので認知症には本当に厳しいんです。そして、看護師さんも人それぞれで、まだ若い看護師さんや男性の看護師さんは対応に慣れておらず、ちょっとした言葉遣いなどで認知症の母のスイッチが入り、妄想が広がってとんでもないドラマが母の脳内で展開されるんですよね。この時は、入院費が払えないので私が母に無断で自宅を売り払い、『そんな状態で、ここ(病院とは理解していない)から出てけと言われたらどうしたらいいんだ!』という展開で怒っていました」
写真=iStock.com/mr.suphachai praserdumrongchai
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高蔵さんは胃がんの時同様、「夜中に呼ばれて行くよりは泊まったほうが楽だ」と考え、母親の病室から通勤することに。仕事が終わったら、一旦帰宅してシャワーだけ浴び、病室で寝るという生活を3日間続けた。
「病院なんだから、私が泊まらなくても任せるということもできたと思いますが、認知症で物事に対して不安の大きい母のケアをできるだけ手厚くしてあげたいと思ったので泊まりました。病院の都合で個室にしてくれたため、個室代はかからなかったのですが、私が泊まった簡易ベットと布団代で1日300円の支払いがありました。母は、私が仕事に行っている間も、何度も着替えて帰ろうとしたみたいですが、病院のテレビや私が持っていったiPadは多少、母の気を紛らわすことに貢献したようです」
■仕事と介護の両立
退院後、高蔵さんは、平日昼間は仕事でいないため週3回のデイサービスのほか、1回30分の訪問介護に週4回入ってもらうことにした。
しかしそれでも高蔵さんは、「認知症の母が左腕を上げてしまったり、症状が変わってしまったりしないか」と不安だった。
「もっと訪問看護を増やすべきか」と悩んでいたところ、国の制度で「特別訪問看護指示書」というものがあることを、退院するときに病院から教えてもらった。
「うちの母の場合、訪問看護は週4回までしか来てもらえませんでしたが、この『特別訪問看護指示書』を医師に記入してもらうことで、14日間のうち4回以上、1日3回でも来てもらえるそうです。しかもこれは医療保険の範囲なので、母はすでに2月末から3月4日まで入院していたため、3月の医療費は限度額に達していて、訪問看護の費用は発生しないとのこと。国の制度は知らないと利用できず、自分から取りに行かないと使えませんから、上手に情報を得ないともったいないなと思います」
高蔵さんは14日間、昼と夕方に来てもらえるようお願いした。そのほか高蔵さんは、カメラなどの機械を使って、自分がいない間の母親の様子を遠隔でモニターチェックした。
例えばカメラは、デイサービスがない日にカメラで母親の様子を外から確認し、時々カメラ越しに声をかけるなどして活用している。
自宅リビングに設置したアレクサは、時間ごとに音声が流れるように設定した。例えば、数時間ごとに「お母さん、水を飲む時間です、机の上の水を飲みましょう」と流し、熱中症を予防。他にも、「お母さん、夜ご飯が机の上にあります。他の人の食事は作る必要ありません」とか、「お母さん、明日はデイサービスの日です。朝9時に迎えにきます」など。
写真=iStock.com/fabioderby
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「これで母を完璧に動かせるわけではないですが、水を飲むタイミングはちゃんと聞いて実行してくれています。私はスマホで部屋の様子が見えるし、母からは私の顔が見えるので、母もあまり違和感なく会話しています」
また、認知症の症状としてよくある、今日が何月何日で、今何時なのかがわからなくなることに対応するため、画面付きのアレクサに日付と時間を表示させておいている。
■働き方の理想と現実
母親は、胃がん以降「バセドウ病」になり、そして脈が異常に少ないことが判明してペースメーカーを入れる手術を受け、退院した月の月末、喘息を発症していた。
その後、骨がスカスカになっているということがわかり、骨密度を上げる注射を週2回2年間、訪問看護のときにお腹に打ってもらっていた。
母親の通院が増えることが決定し、高蔵さんの有給休暇はほぼ全部、母親のために使い果たした。それでも足りない年もあり、派遣を始めて1年目、2年目はやむをえず欠勤することもあった。
その間、あまり家の中や施設に閉じこもってばかりではいけないと思い、初めは近くのレストランにランチに行くことからはじめ、母親が元気になってきてからは、年に1〜2回は京都や金沢など国内旅行やドライブに出かけた。
写真=iStock.com/tawatchaiprakobkit
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胃がんの手術以降、思うように食事ができなくなってしまった母親は、現在も肉や刺身は苦手だが、それ以外は食べられるようになった。
2024年3月。母親の認知症発症と胃がん手術から5年の月日が流れた。5年間通院してきた病院の主治医には、「最終のCT検査で何もなければ、いったん通院は終わりです」と言われた。
「バセドウ病」の担当医師からも通院の間隔を延ばす話があり、経過は順調だ。
「認知症があるので、身体が元気になっても活動的になる分、目が離せないのは変わりません。でも、通院に月に4回とか行っていたのが、行かなくて良い月もでてきて、介護が少し楽になりました。このまま、穏やかに過ごしてくれることを祈っています」
高蔵さんは、再び働き方について考えていた。
「一番の理想は、時給が高く、働く時間を減らせること。それにより時間の余裕と、心の余裕を持てます。母の認知症の進行を見ていると、在宅介護をするうえで、今の方法では通用しなくなる日は近いなと感じています。週に3日ほど仕事に出て、2日間はリモート、そんな働き方が私にとっての理想ですが、派遣という仕事はきっちり終われて、休みの融通も利くという反面、職種にもよりますが、給与があがりにくいという側面があります」
母親の年金は、ひと月5万円ほど。母親の医療費や介護費用のほか、生活費なども入れたらそれでは全く足らないため、不足分は高蔵さんが補っている。
「私と母は一緒に住んでいますが、世帯分離をしていて母は単独非課税世帯のため、たまに市から助成金などがあるときは助かっています。ペースメーカーを入れたため、障害者手帳を持っているので、医療費はかなり抑えられています。『介護費用限度額』で後日戻ってくるお金もありますが、母の介護費用は4万円くらい。私は毎月15万円くらいを母との生活費に充てていますが、ほとんど貯金ができず、私自身の老後のお金の問題は切実です」
派遣の高蔵さんにとって、苦しい生活が続いていた。
■介護は生き方を見直すきっかけになる
転職活動をしようかと思っていた矢先の2025年の1月。派遣先の子会社から正社員登用の話があり、4月から正社員として働き始めることになった。
高蔵さんは、
「週に1〜2回リモートもあり、勤務時間がこれまでの8時間から7時間になるため、これまでよりも働きやすそうです」
と胸を躍らせる。
写真=iStock.com/west
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母親を懸命に介護しながらも、実直に働く姿勢が認められた結果に違いない。42歳まで、家のことは母親に任せきりで、家事も家計もわからなかった高蔵さんだが、これまでの約5年で目覚しい成長を遂げてきた。
「最初の1〜2年は、見えない、わからないものと向き合うグレーな期間が続き、精神的にも肉体的にも疲弊しました。しかし、介護は自分の生き方を見直すきっかけになりました」
たらればを言っても仕方がないことはわかっていても、「母が認知症でなければ……」と思ってしまうこともあったと言う。だが今は、「介護は半分仕事のような気持ちでしている」と話す。
「できないことも増えてきてますが、忘れてしまうことをそれほどマイナスに考えず、『私がいるんだから、お母さんは別に忘れても困らないでしょ』と母にはよく言っています。それでも落ちこむことはありますが、自分で自分に『私は今できることの最善を尽くしている!』って自分を励ましています。だから、友だちと会うことがあっても、私はほぼ母の介護の話はしません。聞くほうもしんどいかなと思いますし、わざわざ母の介護の話をしなくても、ガス抜きはできてるかなと思っています」
どうしようもなくなった時は、一人でカフェに行ったり、ドラマを見たり、早く寝てしまったりするなどの気分転換をしている。ブログを書いて気持ちを整理することもある。
「幸いにも大きな病気も早めに見つかり、母の命は助かっています。時々とんでもなくボケたことを言いますが、家で吉本新喜劇が繰り広げられていると思うようになり、介護を始めた当初ほど、苦しむことはなくなりました。手を焼くことも多いですが、もともと愛情深く、優しい母なので、私が一人で看れるうちは、在宅介護をするつもりでいます」
84歳になった母親は、昨年の夏くらいから、時々高蔵さんのことさえわからない時があり、「娘はどこ?」と言ったり、仕事から帰ってくると、「なんでここに帰ってきたの?」と言ったりするように。要介護認定は、更新時に3になった。
要介護3であれば、特養に入所できる。高蔵さんの場合は世帯分離しており、母親は非課税なので、費用も低いはず。認知症でも特養に入ることは可能だ。
介護は介護者と被介護者の双方の「納得のプロセス」が重要だ。そう考えた時、高蔵さんの場合、42歳まで母親に甘えてきたことへの恩返しもあるかもしれないが、もう十分返せたのではないだろうか。母親が高蔵さんのことを完全にわからなくなった時が、一つの区切りかもしれない。
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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)