成田悠輔氏の「キリンCM降板」は何が問題だったのか…「高齢者の安楽死」について医師の私が思うこと

2024年3月26日(火)13時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Kayoko Hayashi

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■「#キリン不買運動」が拡散される事態に発展


キリンビールは缶チューハイ「氷結無糖」のウェブ広告から、経済学者の成田悠輔氏をはずしたことを明らかにした。過去に少子高齢化問題をめぐって「高齢者の集団自決」発言をした同氏の起用に批判が集まり、「#キリン不買運動」というハッシュタグがX(旧Twitter)をはじめとしたSNSで巻き起こった末のことである。



木村知『大往生の作法 在宅医だからわかった人生最終コーナーの歩き方』(KADOKAWA)

それは奇(く)しくも、新著『大往生の作法 在宅医だからわかった人生最終コーナーの歩き方』(角川新書)が発刊された、わずか5日後のことであった。


なぜ「奇しくも」なのか。それは今回の不買運動のきっかけとなった成田氏の発言こそが、新著執筆の大きな動機であったからだ。


私は「在宅医療」をおこなう臨床医だ。日頃から高齢者や末期がん患者さんをはじめとした人生終末期を目の前にした人たちと多くの時間を共有している。そして、それらの人たちは、自身の残された時間の短さを自覚しつつも、それぞれに日々を生きている。


そうした人たちと接している私に言わせれば、氏の少子高齢化や社会保障費の増大をめぐる以下の発言は、暴論を超えた、人としての感性が完全に欠落した発言にしか聞こえない。


写真=iStock.com/Kayoko Hayashi
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■より問題なのは、同調する意見が多いこと


「唯一の解決策はハッキリしていると思っていて。結局、高齢者の集団自決、集団切腹みたいなものではないか」
「将来的にあり得る話としては、安楽死の解禁とか、安楽死の強制みたいな話も、議論に出てくると思うんですよね」


彼を擁護する声には、「あくまでもメタファーであり、本当に殺せと言っているわけではない。既得権にしがみつく老害に引退してもらおうというのが真意だ」などというものもあるようだが、安楽死という言葉を使っている以上、この擁護は当然ながら成立しない。


もっとも、ネットでは成田氏ばかりが批判の対象として注目されているが、当然のことながら彼一人の問題に矮小(わいしょう)化すべきではない。彼は単なる「社会保障費抑制論者」「経済的優生論者」のいちアイコンに過ぎない。彼ほど表現は過激でなくとも、同様の主張を持論としている人は、けっこう多いと私は考えている。


そしてこれらの主張は、いつでもそのターゲットを高齢者から、それ以外の「社会の役に立たないお荷物」とのレッテルを貼り付けた人へと広げられてゆく。これが恐ろしいのだ。だから私はこういった「優生思想」を警戒するとともに、巧みな話術や目を惹くキャラクターに惑わされてつい同調してしまう人たちに、騙されないよう警告すべく筆を執(と)ったのである。


■90代の両親の介護でぶつかった壁


私は仕事で高齢者そして終末期医療に携わる一方で、プライベートでは90歳を超えた両親を持っている。つまり医師として終末期の患者さんとその家族を支える仕事をする一方で、介護を担う当事者でもある。その相対する立場、両者の視点から介護や終末期を考察して発信すれば、将来介護の当事者となりうる人たちへ、何らかの「活きたアドバイス」ができるのではないかとも考えた。


じっさい自分が当事者となったことで、今まで医師としての立場からだけでは見えていなかった問題が見えてきた。これは正直に白状しなければならない。もちろん今でもすべて気づけているとは言い切れない。しかし、少しでも気づこうと事細かに見ようとする姿勢に変わったことは事実だ。


例えば、掃除や洗濯、ゴミ出しに困っている高齢者をサポートするために、ヘルパーにお願いすれば良いだろうと短絡的に考えてしまいがちだが、じっさい親にそう提案すると、


「いつも困っているわけでもないし、せっかく来てもらっても、その時にお願いしたいことがあるとはかぎらない」


と断られてしまう。たしかに細々と具体的に思考実験すると親の言う通りだと気づく。


■「人に迷惑をかけてまで長生きしたくない」の危うさ


そしてヘルパーの助けがまだ要らないのなら、せめて妻や私が手伝いに行こうと言うと、「あなた方も忙しいのだから来なくていい」と断られる。まだ常時介護を要するほどの状況ではないから、自分でできるうちは自分でやりたい、そして人に迷惑をかけたくないという気持ちがそう言わせているのであろう。


高齢者や介護を必要とする人の中には、私の両親と同じく「人に迷惑をかけてまで長生きしたくない」と語る人は少なくない。たしかにその気持ちはわかる。痛いほどわかる。だが、その人としての矜持を、巧みに社会保障費抑制論者の持論に利用されかねない現状を、私は非常に危惧しているのだ。


超高齢者や末期患者さんと話をしていると、「家族に迷惑かけたくないから早く死にたい」と言う人も少なくない。成田某氏のような「経済的強制安楽死」を推奨する人たちがこの声を聞いたら徹底的に持論に利用することだろう。そしてそれが「生産性無き者死すべし」の同調圧力へと繋がる。それが恐怖だ。(2024年3月14日

■口減らしは「潔く美しく尊い」行いなのか


深沢七郎の『楢山節考』という小説、その映画化された作品はあまりにも有名ゆえに、ご存じの方も少なくないだろう。これは男女ともに70歳になったら姥捨山にて生涯を終える「楢山まいり」という貧しい山村のしきたりを描いたものだ。村の存続のための「口減らし」を自ら進んで決意する老婆「おりん」が、その主人公だ。


この作品を読んだ人に問うてみたい。「こんなしきたりが村の掟だなんてあり得ない。異常すぎる」と恐怖に震えただろうか。それとも「おりんは、村のため、子や孫のために自ら命を捨てたのだ。まさに潔く美しく尊い行いではないか」と感動しただろうか。


この舞台となった貧しい山村と、現在の日本の置かれている状況はまったく異なる。だが、冒頭に紹介した発言をはじめとした「このまま高齢者が増えると若者たちにしわ寄せがくるから、高齢者には早くいなくなってもらうべき」との主張や思考は、まさに「現代の楢山節考」といえるだろう。


写真=iStock.com/liebre
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そしてこれらの主張を掲げる人たちは、現在の日本がさも楢山節考の舞台となった貧しい山村のような窮状に直面しているかのように人々に錯覚させ、その窮状を打開するには、その原因となっている高齢者をはじめとした「社会のお荷物」を排除せねばならないとの理屈をベースとして語っている。


しかし、そもそも高齢者が社会からごっそりといなくなれば、日本の財政、経済はV字回復するのだろうか。それこそ「経済学者」の解説が聞きたいところだ。


■日本に「安楽死法制化」の議論は早すぎる


折りも折、フランスではマクロン大統領が、末期がんなどで余命が限られると診断されている成人に限って安楽死や自殺幇助を法律で認めることを支持すると初めて表明し、こうした措置を盛り込んだ「人生の終末」法案を5月に議会へ提出するよう政府に求める方針を示したという。


またXでは、安楽死が認められているスイスで最期を迎えたパーキンソン病患者のインタビュー番組が話題となって以降、「#国は安楽死を認めてください」とのタグをつけた投稿が溢(あふ)れた。これらの投稿の中に、難病や末期の患者さんの「死ぬ権利」も認めるべきだとの主張に紛れて、これらの人たちを揶揄し排除しようとする「優生思想」の言説が少なからずあったことに、私は震えた。


このような優生思想の言説が蔓延(はびこ)る環境で、安楽死の議論を冷静におこなうことなどできるだろうか。フランスがどのような環境かは私にはわからないし、すでに安楽死が法制化されている国に優生思想が皆無であるのかも私にはわからないが、少なくとも優生思想を語る人物が公然とテレビに出演し、政府機関で重用されるような国において、安楽死法制化の議論など開始すらしてはならないと私は思う。


■「死ぬ義務」を求められるのはあなたかもしれない


なぜなら、もしそのような国で安楽死が法制化されたなら、その法律は遠くない将来に死を迎えるであろうとされた人に「死ぬ権利」を担保するものではなく、それらの人にたいして「死ぬ義務」を呼びかける根拠として使われかねないからだ。


「日本がこんな大変なときに、あなたはまだ生に固執するのか。あなた以外の人は、潔く死を決断した。国の将来、未来の子孫のために自ら進んで死を選ぶ、こんな美しく尊い行いをする人がいる一方で、あなたは国に迷惑をかけてまで、まだ生き続けたいと言うのか」


そうした「個人は国家のために殉じて当然」という、ほんの数十年前にあった恐ろしい同調圧力が、この国にはもう二度と蔓延しないと誰が言い切ることができるだろうか。いや、そうした空気の製造と拡散は、もうすでに始まっていると見たほうがよさそうだ。そうでなければ「人としての感性が完全に欠落した発言」をする人物がメディアで、こんなにもちやほやされるはずはなかろう。


楢山節考という物語を読んで、主人公「おりん」の決断と行いに、潔く美しく尊いものだとの感想を持つ人を私は否定するものではない。しかし、「おりん」の行動が褒め称えられたり、同調圧力によって「おりん」の行動を取らされたりする社会であってはならないと思うのだ。誰もが一人の人間として尊重され、他人に干渉されない真の自己決定のもと生きていける社会を大切にするのであれば。


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木村 知(きむら・とも)
医師
1968年生まれ。医師。10年間、外科医として大学病院などに勤務した後、現在は在宅医療を中心に、多くの患者さんの診療、看取りを行っている。加えて臨床研修医指導にも従事し、後進の育成も手掛けている。医療者ならではの視点で、時事問題、政治問題についても積極的に発信。新聞・週刊誌にも多数のコメントを提供している。2024年3月8日、角川新書より最新刊『大往生の作法 在宅医だからわかった人生最終コーナーの歩き方』発刊。医学博士、臨床研修指導医、2級ファイナンシャル・プランニング技能士。
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(医師 木村 知)

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