自社株を買ったら「約8億円の資産」に化けた…「最高年収4110万円」だけではない、伊藤忠「異次元の賃上げ」の全容

2025年4月8日(火)8時15分 プレジデント社

伊藤忠商事の岡藤正広会長 - 提供=伊藤忠

伊藤忠商事は、五大商社の中でも大学生の就職人気ランキング上位の常連だ。学生に「入社したい」と思わせる強みはどこにあるのか。岡藤正広会長に迫った『伊藤忠 商人の心得』(新潮新書)を出した、ノンフィクション作家の野地秩嘉さんが解説する——。

※本稿は、野地秩嘉『伊藤忠 商人の心得』(新潮新書)の一部を再編集したものです。


提供=伊藤忠
伊藤忠商事の岡藤正広会長 - 提供=伊藤忠

■社員のやる気を引き出したいなら給料を上げよ


日本、日本企業を成長させるのに必要なのはなんといっても人材だ。商人経営者の岡藤は「優秀な人材を海外企業に奪われないようにする」ことが重要と言っている。


「先ず隗より始めよ」で伊藤忠は賃金を上げてきた。


彼は社長に就任してすぐに報酬体系を見直している。「ひとりひとりの社員を元気にする」ため、それまで「組織」「個人」「全社」の業績に連動する形で決めていた報酬体系から、「組織業績」の要素を取り去った。理由は次のようなものだ。


当時の報酬体系ではたとえ新入社員であっても、業績好調な組織に入ることさえできれば、高い報酬を得ることができた。しかし、それはフェアとは言えない。なんといっても業績の基盤を確立したのは新入社員ではなく、組織の先輩たちなのだから。たまたま好業績の部門に配属されたから高い報酬が手に入るのでは、全社員の士気を高めることにつながらない。


確かに組織連動型の報酬体系は部門間の競争意識を高めることができる。一方で、部門間の業績に開きが出ると、儲かっている部門とそうでない部門の社員のやる気に差が出てしまう。そして、組織業績を偏重すると強調されていたら、苦戦している部門を志望する社員はいなくなる。そこで岡藤は報酬体系を変えた。


■給与は、「正論」だけでは解決できない


「社内から反対の声もあったのだが、思い切って変えた。その結果、これまで業績があまり上がらなかった部門の人間も頑張り出した」


社員のやる気を引き出すには労働環境の整備もさることながら、やはり報酬を引き上げることがいちばんなのである。


2024年の秋にも岡藤は社員の報酬を引き上げる決断をした。


「僕は三井物産、三菱商事の財閥系商社と遜色ない給料を払うのが重要と思ってきた。だから、財閥系商社に負けないように配慮してきた。少し前までは伊藤忠がトップだったが、三菱、三井が給料を上げたので三番手になってしまった。


人事が何とかしてくれと言ってきた。『伊藤忠は就職の人気ランキングでトップを続けている。学生は総合商社の平均年収の額を見ています。何とかしてください、会長。給料を上げたいです』と。


人事は学生たちが三菱、三井に流れてしまい、伊藤忠には来なくなるというんや。人事には最初、『本来は平均年収を上げなくとも優秀な人間を採用するのが人事の仕事と違うんか』と正論で返したけど、正論だけでは解決できないなとは僕もわかっていた」


■三菱商事は約2090万円、三井物産は約1899万円…


では、三菱、三井、伊藤忠の2024年3月期の給与水準はどういった状況か。業界トップ3社はいずれも業績連動報酬を採用しているため、業績によって給与水準は変わるのが前提だ。有価証券報告書の平均年間給与を見ると、2022年3月期には伊藤忠がトップだった。しかし、24年3月期は伊藤忠が約1753万円で、三菱商事は約2090万円、三井物産は約1899万円である。伊藤忠の人事部が危機感を覚えたのも仕方のないことだろう。


そこで、岡藤は給与を上げることを決めたが、単に三井、三菱よりも多額の給与を出すと決めたのではなかった。社員のモチベーションを上げるために、3つのポイントを付け加えた。


①自社株式を通じた株式報酬の拡大を図る
②固定給の引き上げを行う
③力を発揮する社員には変動給にてより一段と報い、業界トップの報酬を支給する


この報酬改訂を実施した後、伊藤忠が2024年度計画の連結純利益8800億円を達成したとすると、社員の平均年収は前年比で10%上昇する。個人の成績次第だが、部長級で最高4110万円、課長級では最高3620万円、担当者では最高2500万円という「日本経済界でも突出した高給」となる。


これだけではない。岡藤が重視したのは現金給与だけでなく、株式を組み合わせた方式の採用だ。


■「定年時に8億円近く」株式保有が生む幸せ


「現金だけでは資産形成につながらないでしょう。人事と相談しながら、社員のモチベーションアップになり、さらに資産形成に役に立つ報酬の渡し方を自分なりに考えていたんです。現役社員にも当社を志望する学生にも喜んでもらえるような形にしないといかん。そこで、お金を渡すだけではなく伊藤忠の株を持ってもらうようにしました。それはうちの株を長年、持っている社員が幸せになっている実例があるから。


少し前のこと、繊維部門にいた女性が『定年になりました』とあいさつに来た。その女性は若い頃からコツコツと自分の金で買った伊藤忠の株を10万株持っていて、それだけで8億円近くになりましたと言ってきた。配当が年に2000万円もある、とほんとに喜んでいた。


『岡藤さん、一生、幸せに生活していくことができます。ありがとうございました』


そう言って退職していきました。経営者にとってこれほど嬉しいことはない。こういう実例があるのだから、現金だけでなく株も渡すと決めました。株価は経営者にとっては成績表や。経営して株価を上げていこうというモチベーションにもなる。社員に株を持たせて、それで株価が下落したら、経営者失格だ。つまり、株を渡すには経営者にも覚悟がいる」


■「現金と株の割合」まで考え抜いている


「それと、もし、現金だけの報酬をひとりの社員につきたとえば2000万にしたとしましょう。もし、夫婦ともに当社で働いていたら年収が4000万になる。そうなるともう、ハングリー精神で頑張ろうという気力は出てこないんじゃないかな。


『正月か。じゃ、ハワイでゆっくりするか』となるに決まってる。休みを取ったり、ハワイへ行くのがいけないわけじゃない。共働きで4000万ももらったら、それ以上のことは考えなくなるのが人情と言うもの。お金はあれば使ってしまう。だから、現金だけではなく、一部を株に換算して渡すことにしました」


岡藤はこの報酬体系を自ら、ああでもない、こうでもないと考えた。人事と打ち合わせして、何度もやり直して、現金と株の割合まで決めた。なんとも忙しく働くCEOである。彼自身の報酬は億を超えている。だが、それでもハングリー精神と経営へのモチベーションは失っていない。


■「残業が多い人間で仕事ができるやつはいない」


岡藤は伊藤忠から残業を追放した。それは、つねづね「残業が多い人間で仕事ができるやつはいない」との持論を持っているからだ。


写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gyro

「今、日本企業はフレックスタイムが主流になっている。そうすると早く来るのもいれば遅く来る社員もいる。同じ社員が早く来る時もあれば遅く来る時もある。来る時間がバラバラでは仕事のリズムが崩れる。かつてはうちの会社でも午前10時に出社した人が新聞を読みコーヒーを飲んで10時半になり、ちょっと仕事をしたかと思うと、すぐに昼ご飯に行った。そういう社員に限ってだが、午後8時まで残業していた。


僕は今でも午前5時半に出社し、昼も食堂に行かず自室でファミリーマートのおにぎりを15分で食べる。午後3時にはいったん自宅に帰る。午後5時から会食に向かい、午後8時には帰宅する。それが効率が良い。そして、うちの会社は今、朝型になっているんだ」


岡藤はつねに自分に対して、問いかけを続けている。


「相手が何を考えているか、客が望んでいることは何か。人間の幸せとは何か」


人に答えを聞きたいわけではない。自分自身で答えを出そうというわけでもない。自分に対して問いを続けることが自分を成長させると信じている。


■「経営はアートだ」流行語を使わない対話力


その根本にあるのが鋭い感受性だ。マスコミのインタビューでも、読者のことを頭において、読者がわかるような言葉だけを使う。岡藤はインタビューでは専門用語を使わないし、流行の経営理論について触れることはない。「シンギュラリティ」だの「ボラティリティ」だのと役員会でしゃべることはあっても、一般読者が読むメディアの取材ではそうした言葉を使うことはない。


それは記者に対して話すのではなくその先の読者を見据えているからだ。トヨタの豊田章男、ユニクロの柳井正、ソフトバンクの孫正義など、世間への発信力の高い経営者と同じように読者を見ている。


プロフェッショナルマネジャー』の著者、ハロルド・ジェニーンが言うように「経営はアートだ。科学ではない」。だから、経営者に必要なのは科学知識や専門性ではなく、むしろ人間そのものを理解する感受性だ。


提供=伊藤忠

■「譲ってあげる」は相手への好意ではない


岡藤は部下を叱ったことがある。その部下は、契約交渉を「条件のすり合わせ」と考えていたのだ。


「一緒に仕事をして、ある契約をする時のことだった。最初から相手の条件を飲もうとしていたんだ。いったいこんなやり方、どこで覚えてきたのかと心配になった。こんなことしていたら会社は簡単に潰れるで、と思った。彼は仕事はできる。人柄はいいし、友人知人も多い。社外の人脈も広い。ところが、契約の交渉では弱い。優しいんだな。相手との関係を大切にしようとばかり考える。優しい。優しすぎる。


交渉の時に、相手が言うことを飲むか飲まないかを考えて勝手に悩んどる。そんなことで悩むことはない。


契約交渉とは条件のすり合わせではない。うちの契約書の内容は相手も損をしないようにちゃんと考えてあるものだ。フェアな契約書を作って、それをそのまま通せばいい。相手の条件に合わせようという態度で交渉すると、相手から舐められる。相手のこともちゃんと考えて契約書作って、一緒に仕事をしようというのだから、契約書通りでいい。譲ってあげることが相手に対しての好意ではないし、相手に嫌われたくないと思っちゃいかん」


■百戦錬磨の岡藤が「この人の方が上だ」と感じた相手


岡藤はブランドの仕事が長かった。海外ブランドとの契約でうまくいったこともあれば、そうではなかったこともある。また、契約しても履行しない相手がいた。履行しないのに、「ちゃんと契約を守った」と言い張る相手もいた。契約と交渉については百戦錬磨の岡藤だが、ある相手との交渉で「この人の方が上だ」と感じたことがあった。



野地秩嘉『伊藤忠 商人の心得』(新潮新書)

「かつてディーンアンドデルーカの仕事をやった時、最初は雑貨を扱うソニープラザ(現プラザ)と提携して店舗を作ろうと思ったわけです。ソニープラザの経営者は『やりましょう』と言って、契約書にサインをした。社長がOKと言った案件ですわ。ところが、しばらくして、『ソニーの本社が本契約に瑕疵があると言っている』と。ソニープラザはソニーの子会社だからね。


ソニー本社の法務担当をやっていた女性弁護士と会ったら、彼女は『契約通りにやりましょう』と。彼女は決して自分から『契約を破棄したい』とは言わない。サインは済んでいるから、自分から言い出したら補償しなければならない。だが、契約をすすめたくないわけだ。子会社のソニープラザは雑貨専業だからディーンアンドデルーカが扱う食品に対する管理ノウハウは持っていない。そこのところにリスクを感じたのでしょう。雑貨の管理と食品の管理はまったく違うものだから。


■「敵ながらあっぱれ」交渉相手からも学ぶ


そこで、ソニー本社の女性弁護士が取った作戦は『伊藤忠とディーンアンドデルーカとのオリジナル契約を見せろ』というもの。こちらにとっては難題です。ディーンアンドデルーカとは守秘義務があるから、オリジナル契約は見せるわけにはいかない。だが、契約内容を知らせなければソニープラザには出店できない。僕らにはとてもできないことだった。結局、僕らの側からやめたんです。


『これは大したものや』と思った。契約を結んだとしても、リスクを感じたら撤退する。その場合、補償しなくていいように契約の条項を精査する。いい勉強になりました。さすが世界のソニー。海外の企業との契約に慣れていると感じた。うちは他のチームと組んで、成功したから結果的にはよかったけれど、あの時の女性弁護士は凄腕だった。敵ながらあっぱれというか、ああいうところを僕ら商人は見習わないといかん」


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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。旅の雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「巨匠の名画を訪ねて」を連載中。
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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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