身請け金は「5代目瀬川」を上回る2億5000万円だったが…姫路城主と結ばれた「吉原で最も有名な遊女」の末路【2025年3月に読まれたBEST記事】

2025年4月8日(火)16時15分 プレジデント社

小芝風花(=2021年12月9日、2022年オスカープロモーション新春晴れ着撮影会。東京都港区の明治記念館) - 写真=時事通信フォト


2025年3月に、プレジデントオンラインで反響の大きかった人気記事ベスト5をお送りします。大河ドラマ部門の第1位は——。


▼第1位 身請け金は「5代目瀬川」を上回る2億5000万円だったが…姫路城主と結ばれた「吉原で最も有名な遊女」の末路
▼第2位 1億4000万円で盲目の大富豪に身請けされたが…吉原伝説の花魁・五代目瀬川を待ち受けていた「意外なその後」
▼第3位 「3億円で仙台藩主に身請け→吊るし斬り」という話も…五代目瀬川より悲惨な「落籍された吉原遊女たち」のその後
▼第4位 100年前の吉原の遊女は生理中も客を取った…腹痛に耐え「この苦しみを見て下さい」と神に祈った21歳の実録
▼第5位 「吉原史上最高の玉の輿」2億5000万円で落籍されたが…身請け先「姫路城主」のとんでもない好色ぶり


吉原には、客が女郎の抱えた借金を肩代わりし自分の妻や妾にする「身請け」というシステムがあった。歴史評論家の香原斗志さんは「五代目瀬川以外にも多くの女郎が身請けされた。中には有力藩主に落籍されたものもいる」という——。

■NHK大河で描かれた主人公と花魁の恋の結末


瀬川(小芝風花)は悩んだ挙句、盲目の富豪、鳥山検校(市原隼人)の身請けの申し出を受けることに決めた。NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の第9回「玉菊燈籠恋の地獄」(3月2日放送)。


写真=時事通信フォト
小芝風花(=2021年12月9日、2022年オスカープロモーション新春晴れ着撮影会。東京都港区の明治記念館) - 写真=時事通信フォト

蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)は、自分の瀬川への気持ちに気づき、身請け話を断ってほしいと頼んだ。蔦重が最初、瀬川がいなくなると客が吉原から離れる云々というので、瀬川は反発したが、蔦重はついに自分の気持ちを正直に告げた。「後生だから行かねえで。俺がお前を幸せにしてえの。だから、行かねえでください」。


瀬川の年季が明けるまで待つと蔦重がいうので、2人は将来を誓い合ったが……。瀬川が身請けを断る旨を、所属する妓楼すなわち女郎屋である松葉屋の主人の半左衛門(正名僕蔵)と女将のいね(水野美紀)に伝えると、いねは瀬川が蔦重と思い合っていると察し、瀬川に一晩で5人もの客をつけるなど、妨害をはじめた。


また、松葉屋は蔦重を呼び出し、瀬川が客の「相手」をしているところを見せ、「お前さんはこれを瀬川に年季明けまでずっとやらせるつもりか? 客をとればとるほど命はすり減っちまう」と伝えた。蔦重は反論できず、ついに瀬川を吉原から「足抜け」すなわち逃亡させることを決意した。


■吉原から脱出できる唯一の手段


しかし、小田新之助(井之脇海)に導かれて足抜けを試みながら、捕まったうつせみ(小野花梨)が激しい折檻を受けたあとで、瀬川はいねにこういわれた。「ここは不幸なところさ。けど、人生をガラリと変えることが起こらないわけじゃない。そういう背中を女郎に見せる務めが、瀬川にはあるんじゃないのかい?」。


そこで瀬川は観念し、鳥山検校に身請けされることを決心。吉原から抜け出すための通行切手が挟まれた貸本を蔦重に返却して、こう告げた。「このばからしい話を重三が勧めてくれたこと、わっちはきっと一生忘れないよ」。


蔦重と瀬川の悲恋も、瀬川の足抜け計画も、むろん「べらぼう」の創作である。だが、吉原の女郎たちが置かれていた境遇は、このフィクションをとおしてよく伝わる。年季が明けるまで勤め上げるのは非常に困難なことで、だからこそ足抜けを試みる女郎は後を絶たなかったが、まず成功しなかった。


景山致恭,戸松昌訓,井山能知 編『〔江戸切絵図〕』今戸箕輪浅草絵図,尾張屋清七, 嘉永2〜文久2(1849−1862)刊. 国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-21)

「苦界」から早く解放されるほぼ唯一の手段は、妓楼が女郎という大切な「商品」を手放しても、それを補って十分に余りがある利益を得られた身請けだったのである。


■妓楼が貧農の娘につけた「値段」


いねが語ったとおり、吉原が「不幸なところ」だったのは、女郎たちが人身売買の対象だったことに起因する。幕府は大坂夏の陣の翌年の元和元年(1616)に、人身売買禁止令を発布しており、このため吉原の女郎も妓楼に年季奉公しているという建前だったが、実際には、貧しい親が給金を前借りするかたちで娘を妓楼に売り渡していた。それは事実上の人身売買だった。


親が直接、娘を妓楼に売る場合もあったが、多くの場合は、女性を妓楼に斡旋する女衒が仲介した。女衒は各地をまわり、困窮した親を口説いて娘を連れてきた。では、娘を売った親はどの程度の金額を手にしたのだろうか。


落語の『文七元結』や『柳田格之進』では、50両(500万円程度)ということになっているが、実際はもっと安いことが多かったようだ。文化13年(1816)に成立した『世事見聞録』には、貧農が娘を「わずか三両か五両の金子に詰まりて売るという」とある。30万円とか50万円という金額で売っていたというのである。


幕末に書かれた随筆『宮川舎漫筆』には、下級武士の娘が困窮した家族を救うためにみずから身売りした例が載せられ、金額は「十八両」と書かれている。武士の娘だと箔がついたが、それでも180万〜200万円程度だったというのだ。


この程度の金額ならすぐ返済できそうに思えるが、そうはいかなかった。前借金には膨大な利息がつけられ、日常生活に必要な金額は、すべて女郎の持ち出しというあつかいだったので、長期間縛られ、原則として「年季は10年、27歳まで」とされたのである。


■髪の毛が抜け、鼻がもげる病


しかも、それは原則にすぎなかった。女郎として働けるのは15歳くらいからだが、早ければ5歳や6歳で売られることもあった。その場合、7歳〜8歳ほどで禿として、花魁の身の回りの世話をしながら、芸事や教養などを身につけた。ただ、客を取れるようになるまでのあいだは「唯養い」とされ、あくまでも15歳以降の10年が年季とされた。


それに、生活するなかでさまざまな出費がかさみ、それはすべて妓楼への借金とされたので、実際には、10年では年季が明けない例が非常に多かった。


だが、年季が明けるまで命がもてばマシだった。ほぼ毎晩のように性行為をしなければならない吉原の女郎たちは、梅毒の感染率がきわめて高かった。当時も「すべての遊女が初年のうちに梅毒を患う」といわれていた。


感染すると、最初は局部に痛みが生じ、発熱や関節痛などの症状が出る。次第に皮膚に発疹が現れ、それが全身の腫瘍に発展。続いて髪の毛が抜け落ちるなどし、さらに進むと鼻の周辺にゴム腫ができ、骨や皮膚の組織が壊れて鼻が削げてしまう。最後は心臓や血管にまで感染症が広がり、やがて死にいたった。


こうして命を落とした女郎たちは、親が江戸にいれば引き渡されたが、親元が遠国の場合は粗末な棺桶に入れられ、三ノ輪の浄閑寺(荒川区南千住)や、吉原につながる日本堤の上り口にあった西方寺(豊島区西巣鴨に移転)に葬られた。江戸の廓の裏側を実地調査した往年の歴史学者、西山松之助の著書『くるわ』によれば、浄閑寺の過去帳には、この寺に遺体が運ばれた女郎の享年の平均は22.7歳だった、と記されている。


■身請けは妓楼にとって大チャンス


だからこそ、女郎にとって身請けはありがたかった。身請けとは客が妓楼に身代金を支払って年季証文を買い取り、女郎の身柄をもらい受けることを指す。


だが、身請けには莫大な金がかかった。年季の残額を払えばいいというものではなく、妓楼の主人(楼主)の言い値で身代金の金額が決まった。さらに身請けする客は、ほかの女郎や妓楼の奉公人たち、引手茶屋、幇間、芸者などに金品を送り、盛大な送別の宴も自己負担で開かなければならなかった。


このように妓楼が大儲けできるチャンスだったからこそ、女郎に身請けという逃げ道が許されたのである。


月岡芳年画 月百姿「君は今駒かたあたりほとゝきす たか雄」(写真= CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

元禄3年(1700)に三浦屋の女郎だった薄雲が、町人に身請けされた際は、350両(3500万円程度)が支払われている。その際、三浦屋から薄雲に衣類や布団、手道具、長持などがあたえられている。


350両は身請けの身代金としてはかなりの高額だが、一般には、すぐれた先輩の名跡を受け継いだ女郎が、高額で身請けされるケースが多かった。


たとえば「高尾」。二代目高尾は万治元年(1659)、仙台62万石の藩主、伊達綱宗に身請けされた。三浦屋の当主は身代金として、高尾の体重と同じ重さの小判を要求したという。だが、綱宗の逆鱗に触れるようなことが発覚し、隅田川の船中で惨殺されたと伝わる。


■2億5000万円で身請けした姫路藩主


「高尾」は三代目が水戸藩の為替御用達に、四代目が「三万石の浅野壱岐守」に身請けされたという(浅野壱岐守はだれだかわかっていない)。もっともすごいのは六代目で、寛保元年(1741)に姫路藩15万石の当主、榊原政岑(まさみね)に2500両(2億5000万円程度)で身請けされた。


写真=iStock.com/Starcevic
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Starcevic

だが、倹約令によって質素倹約が勧められている最中の派手な振る舞いが、将軍徳川吉宗の逆鱗に触れ、政岑は不行跡を理由に謹慎処分となり、強制的に引退させられた。ちなみに榊原家は越後高田(新潟県上越市)に転封となり、六代目高尾も高田に同行している。その後、2年もしないで政岑が没すると、側室に呼ばれて江戸に移り、榊原家の下屋敷に住み、剃髪して政岑の菩提を弔って過ごしたという。


むろん「瀬川」も名高い名跡だった。松葉屋は瀬川の名を襲名した4人の女郎を、それぞれ1000両(1億円程度)前後の身代金で身請けさせ、大儲けしたと伝わる。そして安永4年(1775)、小芝風花演じる五代目瀬川に、鳥山検校が支払った1400両(1億4000万円程度)もまた、吉原の歴史に残る高額の身請けだった。


その後、おそらく寛政年間(1789〜1801)、身代金に500両(5000万円程度)という上限がもうけられるようになった。五代目瀬川の身請けは吉原を飾った、いわば最後の花火でもあった。


(初公開日:2025年3月9日)


----------
香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
----------


(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

プレジデント社

「2025年」をもっと詳しく

「2025年」のニュース

「2025年」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ