「クマ出没」どころではない…野生のゾウ・トラが出るインドの「ポツンと一軒家」で暮らす日本人女性の来歴

2025年4月20日(日)9時15分 プレジデント社

サヒヤンデ劇場の3階にて - 写真提供=鶴留さん

インド南西部ケーララ州の山奥で暮らす日本人女性がいる。演劇制作者の鶴留聡子さんは、インド人の演出家である夫と自宅兼劇場を造り、暮らしている。日本語も英語も通じない。文字を持たない先住民族もいる。野生のゾウやトラが出没する。そんな場所で、なぜ鶴留さんは暮らすようになったのか。フリーライター・ざこうじるいさんが、鶴留さんの素顔に迫る——。
写真提供=鶴留さん
サヒヤンデ劇場の3階にて - 写真提供=鶴留さん

■日本人女性が暮らす「ポツンと一軒家」


1月末、インド南部の空港で私は冷や汗をかいていた。入国審査で「なぜ日本人がこんな場所に来る必要があるのか」としつこく怪しまれたのだ。「サトコという日本人に会いに行く」と伝えると、ようやく入国が許可され、ほっと胸を撫でおろした。


空港から都市部を通り過ぎてくねくねとした山道を進むこと3時間。道中のレストランでもお店でも、確かに日本人は他に見当たらない。


広大なバナナ畑を通り過ぎて車から降り、急斜面の山道を登っていくと、鬱蒼(うっそう)とした森の中に突如としてガラス張りの現代的な建物が現れる。扇型のユニークなつくりをしたこの建物は、民間劇場「サヒヤンデ劇場」だ。


撮影=Roshan P. Joseph
ジャングルの中に忽然(こつぜん)と現れる扇形の現代的な建物がサヒヤンデ劇場だ - 撮影=Roshan P. Joseph

ここに10年ほど前から暮らしている日本人女性が「サトコ」こと、鶴留聡子さん(45)である。夫で演出家のシャンカル・ヴェンカテーシュワランさんとともにこの劇場をつくった人物だ。


ふたりが住むのは、インド南西部、ケーララ州の山奥、アタパディ。日本人はおろか、外国人は他に見当たらず、英語も通じない。野生のゾウやトラ、オオカミも出没するという。


写真提供=鶴留さん
劇場兼自宅の窓から、野生の象が現れたところを撮影した - 写真提供=鶴留さん

「ゾウが出るのは夜だけなんですけどね。ちょうど先週も、劇場に続く橋のあたりにゾウの家族がいてシャンカルが帰ってこれない、ということがありました。時期や場所にもよるけど、うちには年に4、5回来るかなあ。フルーツがなる季節になると降りてくるようです」


ゾウは草食動物ではあるが、人間に出くわすと警戒して攻撃的になることもあるという。東京動物園協会によると、通常インドゾウの重さは3トンから5トン。サトコさんは、自家用車をゾウにつぶされたこともあるそうだ。


■家畜や飼い犬がトラに次々に襲われる


サトコさんらが飼っていた犬のブラウニーは、5年ほど前、トラに襲われて亡くなった。


「夜中に『キャイン』って声がして、見に来たときにはもういなくなっていて……一瞬でした。トラの姿は見ていないんですけど、地元の人に聞くと『それはトラだ』っていうんです。オオカミもだけど、トラは犬が大好物なんだそうです」


ブラウニーがいなくなった数日後、ブラウニーの子どものパシュが裏山から獣に食べられた後の頭蓋骨を持って帰ってきたという。よく見ると頭蓋骨の欠けている前歯は、確かにブラウニーのものだった。


それから2カ月もたたないうちに、今度はパシュのきょうだい犬も同じようにトラに襲われて亡くなった。


それ以来、サトコさんはパシュを夜外に出さないようにしてきた。それでも数年前、一瞬の隙をついて同じように襲われたことがある。


「キャイン」という声がしたと同時にサトコさんは一目散に駆けつけ、パシュは九死に一生を得た。その時の記憶があるのだろう、パシュは今でも警戒心が強く、野生動物の気配に敏感だ。


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臆病だがとても優しい飼い犬パシュ - 筆者撮影

「つい先日も、近所の人が飼っているヤギが40匹くらい、一晩で全滅しちゃったんです。有刺鉄線も張ってたんですけど、停電した少しのタイミングを狙って襲われたみたいです」


トラは人間の前に姿を現さず、まさに“虎視眈々”と状況を伺い、獲物を襲う機会を狙っている。人間も夜出歩くときは2人以上で歩くのが地元の常識だ。


日本では考えられない危険が潜むが、サトコさんは淡々と語る。


■薪を運び、川で洗濯をする村


アタパディには、入植者と呼ばれる外から移住した人たちと、3つの異なる先住民族、合わせて7万人ほどが暮らし、共同体ごとにそれぞれ独自の言語をもつ。人口の半分ほどが、文字を読み書きしない先住民族だ。


選挙の宣伝は紙で配られ、災害時の避難連絡など行政からの知らせは、拡声器を持った職員が村を練り歩く。


劇場の近くではスプリンクラーが完備された広大なバナナ畑や、ヤギや牛を引いて歩く人々をあちこちで見かけた。私が出会った村の女性たちは、昼間は薪を集める仕事をしていた。夕方になると川で洗濯をし、ついでに自分の髪や体も洗う。


筆者撮影
薪を集める仕事をする村の女性たち - 筆者撮影

ウーバーなどの配車サービスはなく、山のふもとのエリアまではバスが通るが、他に公共交通機関はない。サトコさんが買い物をするときは、車で10分ほど山を下った先にある小さな商店に出かける。


「野菜、米、塩、砂糖、必要なものはだいたいそこで手に入ります。買い物は週に1、2回かな。牛乳は、地元の人が絞った牛乳を集める生協みたいな場所があって、そこにボトルをもっていくと、1日に朝夕2回、決まった時間に直接牛乳を買うことができます」


■村人が慕う「サトコ」


日常的に買い物をするという商店の近くで、オートリキシャーと呼ばれる3輪自動車の運転手にサトコさんとシャンカルさんの名前を伝えると、詳しい説明をしなくても山の上のサヒヤンデ劇場まで連れて行ってくれた。


さらに、私が滞在したホテルで支払いコードをうまく読み込めずに困り果てていたときのことだ。サトコさんが手配してくれた運転手のお兄さんが、見かねて自分のスマホで支払いを済ませてくれた。もちろん彼にとって私はその日出会ったばかりの赤の他人だ。


筆者撮影
村に流れる川は、生活の中心になっているようだ - 筆者撮影

ありがたいけれど、どうしたものだろう……持ち合わせの現金がなく、言葉も通じないため私がオロオロしていると、彼は笑顔で「サトコ」と伝えてきた。どうやら「後で『サトコ』からお金を受け取るから、日本人のあなたは『サトコ』に支払いをすればいいよ」ということのようだ。運転手の彼にとって「サトコ」はそれだけ信頼できる人物なのだということが伝わってくる。


サトコさんは、この場所の人々といったいどんな関係を築いてきたのだろう。


■パートナーを追いかけてインドへ


東京生まれのサトコさんがアタパディに住み始めたのはおよそ10年前。それ以前は、同じインド国内でも都市部で演劇活動をしていた。


筆者撮影
劇場の1階は、生活スペースも兼ねる - 筆者撮影

とはいえもともと演劇を専門に勉強したわけではない。ごく一般的な家庭に生まれ育ち、英語が得意だった母親の影響で外国語に興味を持った。


「日本語で日本人と会話すると、近すぎると感じることがあります。別の言語を使うことによって、ワンクッション置かれるというか。コミュニケーションに余白が生まれる気がするんです。それが私には心地がいいなって感じました」


教科書で読んだマザーテレサをきっかけに、東京外国語大学でヒンディー語を専攻したことが、サトコさんに運命の出会いをもたらす。


2001年2月、大学3年生の終わりに、インドからくる劇団の楽屋裏バイトを2週間ほど経験した。その劇団こそ、後にサトコさんのパートナーとなるシャンカルさんが所属する学生劇団だったのだ。


当時カリカット大学の演劇学部に在籍していたシャンカルさんは、サトコさんと同い年。授業の一環で作品づくり全般に関わり、舞台上ではミュージシャンとして南インドの太鼓を演奏していた。


いつも楽しそうに前を向いている印象のシャンカルさんとコミュニケーションをとるうちに「今この瞬間をこの人と共にしたい」と直感したサトコさん。4年生になると休学し、その直感を追いかけるように、当時シャンカルさんが住んでいたケーララ州のトリシュールに向かった。


■消費される芸術への違和感


それからビザが切れるまでの6カ月間、既に人生をかけて演劇をやっていくことを明確に決めていたシャンカルさんの近くで過ごし、日本に帰国する。


「この先ふたりで演劇をして生きていくことを思い描いた時、インドやシャンカルの前に、まず自分がどう演劇と関わっていきたいのか、糸口をみつけてからにしようと考えました」


大学卒業後は赤坂の国際交流基金アジアセンターで舞台芸術専門員のアシスタントとして働きながら、舞踏カンパニー『山海塾』のプロデューサーの元で制作も学んだ。


2年後、今度は国際交流基金ニューデリー事務所の専門員として採用され、ニューデリーに移り住む。


筆者撮影
劇場に入る人を迎えるサトコさん - 筆者撮影

一方シャンカルさんは、大学卒業後に留学したシンガポールの演劇学校を終えて、2006年にサトコさんのいるニューデリーで演出家としてスタートを切った。


2007年、ふたりは「劇団シアター・ルーツ&ウィングス」を立ち上げる。劇団で最初に作った作品は、断片的な51の場面から構成され、解釈が観客それぞれに委ねられるというもの。この実験的な演出が「これまでのインド現代演劇にはなかった」と評判になり、シャンカルさんは注目の若手演出家としてメディアに取り上げられた。


しかし次第に、ニューデリーで一部の限られた人に消費される芸術のあり方に違和感が募った——。


「私たちは一体誰のために演劇をやっているのだろう……」


■暮らしに根付いた演劇ができる場所へ


「もっと別の演劇のあり方を探りたい」と考えたふたりは、2008年、ケーララ州トリシュールに拠点を移す。ケーララ州では演劇作品が政治を動かした歴史があり、階層を問わず幅広い層が演劇を楽しむ文化が醸成されていた。


そこで制作した2つの舞台作品『山脈の子:エレファント・プロジェクト』と、日本の劇作家・太田省吾の沈黙劇『水の駅』は、どこで公演をしてもチケットが完売し、追加公演を組むほど話題になった。インド各地を巡回した「劇団シアター・ルーツ&ウィングス」はインドの演劇界で全国的に名前を知られるようになる。


撮影=Deljo Thekkekkara
2011年に手掛けた『水の駅』の稽古風景 - 撮影=Deljo Thekkekkara

ところが今度は、30万人以上が住むトリシュールの喧騒(けんそう)やスピード感と、演劇の創作活動が「噛み合わない」と感じるようになっていく。


「暮らしと結びつく場所で作品を作っていくための基盤を持ちたい」と考えたふたりが選んだ地が、同じケーララ州でも人里離れた山間地域であるアタパディだ。『山脈の子』の創作のため野生のゾウのリサーチで2008年にアタパディを訪れ、すぐにこの場所が気に入った。


「一番いいなと思ったのは、自然の中で暮らす人たちとの顔の見える関係性でした。この場所なら、自然やコミュニティと共にある、暮らしに根付いた演劇ができるのではないかと感じました」


■ヤギ小屋と間違えられるツリーハウスで暮らす


2010年、土地を購入し、俳優でもある建築家の友人に劇場兼自宅のデザイン設計を依頼した。ガラス張りのデザインは、自然あふれる情景を活かした空間にしたかったことはもちろん、地域の人たちに開かれた劇場にするためでもある。


120キロ離れたトリシュールの自宅からアタパディに通いながら、ふたりは公演や演出の仕事で収入が入るたびに、生活費を除いた分を工事費に充てた。コスト削減のため、建築資材の手配も業者に依頼せずに自分たちでおこなう。


仕事の依頼はそれまでに築いた実績を元に、各地から声がかかった。一つひとつ時間をかけて取り組む新作の創作は、多くても年に1、2本が限度だ。その他に、過去につくった作品の再演を各地でおこなう。報酬はプロジェクトごとにさまざまだが、やりたいと思えるかどうかや縁を大切にしているという。


気長に工事を進めていた2015年、青天の霹靂(へきれき)が——。


トリシュールの借家の大家から「庭の手入れを怠った」という理由で突如退去を命じられたのだ。しかたなく、ふたりはアタパディでの暮らしを前倒ししてスタート。とはいえ劇場兼自宅の工事はいまだ基礎工事すら終わっていなかった。


写真提供=鶴留さん
サヒヤンデ劇場の建設の様子。左にあるのがツリーハウスだ - 写真提供=鶴留さん

そこで、地元の先住民族に手伝ってもらいながら、ココナッツの葉を屋根にしたバンブーツリーハウスを敷地内に建てて住み始めた。


バンブーツリーハウスは、かつて先住民族が住居としてつくっていたもので、現在ではヤギ小屋として利用している人が多い。サトコさんたちが住み始めると「ヤギがいるのかと思って近づいたら人間が住んでいた」と地元の人たちに珍しがられたという。


幸い電気は通っていたけれど水道はなく、敷地の裏にある小川から水を汲んで使う毎日。まともな道もなかった。


■読み書きしない先住民族に受け入れられる


ある日ツリーハウスで昼寝をしていると、血みどろのネズミを絞めつけた巨大なパイソン(ニシキヘビ)が布団の上に落ちてきた。


写真提供=鶴留さん
先住民族の人たちの手を借りて作ったバンブーツリーハウス - 写真提供=鶴留さん

「これは……」とさすがに言葉を失ったサトコさん。この頃には、ツリーハウスの「ツリー」が伸びて「ハウス」の部分が歪んでしまっていたという事情も重なり、工事中の劇場に住まいを移すことに決めた。


まだ壁はなかったものの屋根はあったので、ツリーハウスより幾分かマシだった。地元の人たちの助けを借りて小川の水を引き、道も整備した。


写真提供=鶴留さん
まだ壁がなかったサヒヤンデ劇場 - 写真提供=鶴留さん

実際に暮らし始めてみると、先住民族が入植者に搾取され、飲料水を得ることすらできない現状を知った。そこでふたりは、先住民族の人々も飲料水が手に入るように動き出す。


「なんでもそうだと思うんですけど、演劇も含めて文化は人間の暮らしの一部でもあるから、政治的な事も無視することはできないんです」


■「よそ者」だからこそできたこと


「いったいどうやって?」という問いの答えは、驚くほど簡単だ。


「言葉を持つっていうのはすごく力のあることなんですよ。言葉を読み書きしない先住民族の人たちは今の社会制度の中ではどうしても立場が弱い。私たちは言葉をつかって行政と交渉しただけなんです」


サトコさんによると、ケーララ州では無償で学校教育が保証されているが、先住民族の人たちは家庭で読み書きをする慣習がないため、学んでも定着しない人が多いという。


筆者撮影
言語や民族を超えた観客が集まったサヒヤンデ劇場の野外劇場 - 筆者撮影

ふたりは“演劇をやりにきたよそ者”という、利害関係のないフラットな立場を利用して交渉に臨み、先住民族の飲料水を獲得した。


地元のどんな立場の人たちとも良い関係を築くことは、サトコさんらが劇場を運営していく上で最も大切にしているポイントだ。飲料水プロジェクトを経て、徐々に民族や立場を超えた人々から信頼されるようになっていった。


■たくさんの人に助けられて完成した自宅兼劇場


ほとんど屋外のような状態で住み始め、少しずつ劇場をつくりながら10年。


デザインを形にするための建築エンジニアは、バイク事故で重症を負ったシャンカルさんを病院まで運んでくれた命の恩人だ。窓やドアをつくるのは、近所の人にも手伝ってもらった。


写真提供=鶴留さん
工事途中のサヒヤンデ劇場 - 写真提供=鶴留さん

劇場の照明機材は、公演に行くたびに「使わなくなった中古の照明機材を譲ってほしい」とよびかけて集めた。その結果、ドイツやノルウェー、京都など、世界各地からさまざまな機材が集まっている。


8年ほど前、災害級の大雨が降り続き、建物スレスレの場所で土砂崩れが起こったこともある。「ゴゴゴゴ……」というものすごい音に「逃げるしかない」と観念して山を下り、3日間ほど降り続いた雨がやんでから戻ると、劇場の中は大量の泥であふれていた。この時も、知り合いや近所の人の手を借りて泥をかきだし、生活を持ち直したという。


「ご縁があってたくさんの人に助けられて実現したとしか言いようがないんです。この劇場が一つの作品だな、と思います」


サトコさんはしみじみと語る。


■演劇を無料で上演しつづける


アタパディには、料金を払って演劇を見に来る文化はない。1年に数回不定期で地域に向けて上演する演劇は、すべて無料だ。自分たちで企画制作をおこなうこともあれば、アーティストを呼んで上演することもある。


文化事業の助成金などを受けながら、劇場の維持管理費や設備費は、滞在制作に訪れるアーティストや劇団に貸し出したレンタル料で賄う。


「10ルピー(≒17円)でもお金をとることで地元の人が見に来なくなってしまうんだったら、お金は取りたくないと思っています。そもそも私たちは、日々の暮らしのなかで地元の人とのいろんなやり取りを通じて生活が成り立っています。苗や収穫物を分けてもらったり、家に蛇が出た時には捕獲を助けてもらったり、お金ではないものをたくさん受け取っているんです。それを私たちは演劇というかたちでお返ししたいと考えています」


このためサヒヤンデ劇場には、特権階級の人もそうでない人も、同じように観劇にやってくる。


インドの身分制度「カースト」は、1950年にそれに基づく差別が禁止されたものの、その影響は根強く、階級が違う者同士が空間を共にする機会は普通、ほとんどない。まして先住民族の人たちはカーストの中にすらカウントされない、いわば周縁の人だ。


身分や宗教を超えて多様な人々が共に観劇するサヒヤンデ劇場の光景は、とてもめずらしい。


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演劇を見に来た人たちが、開演前に劇場の裏庭で談笑する様子 - 筆者撮影

「ここで演劇をやって良かったと思うのが、考えや階級が違う他者同士が一同に集まり、肩を並べて時間と場所を共有することを可能にする、ということです。その体験が、対話や発見を生み出すきかっけになり得ると感じています」


■「誰に頼まれたわけでもなく、住みたくて住んでいる」


それでもサトコさんは「そんなきれいごとでいいのかな」と自問する。


「何か新しい流れを生み出すきっかけがあるといいな、ぐらいで、大層なことはしていないんです。誰かに頼まれたわけではなく、自分が住みたくて住んでいるわけだし、暮らしがあっての演劇なので、この場所で居心地のいい生活を送るっていうこともとても大事なんですよ」


写真提供=鶴留さん
写真左=収穫したカシューナッツ/写真右=コショウを栽培するサトコさん - 写真提供=鶴留さん

毎朝起きると、サトコさんはまず2時間ほどヨガと瞑想(めいそう)をしてからオートミールとナッツの朝ご飯を食べる。午前中はできるだけ野良仕事をしたり掃除をしたりと体を動かし、午後は仕事のメールをしたり本を読んだり。敷地内でスパイスを栽培し、コロナ禍以降は、養蜂も始めた。


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劇場でいただいた豆カレーはさらっとしていてたくさん食べられる - 筆者撮影

■自分のペースで暮らせる幸せ


シャンカルさんはベジタリアンのため、食事は基本豆カレーだ。飽きることはないのだろうか。


「豆の種類もいろいろあるし、例えばマンゴーの季節にはマンゴーのカレーをつくったり、収穫したココナッツでココナッツベースにしたり。もともと魚が好きなので、たまに魚が食べたくなると、山を下って食堂から魚料理を買ってきて食べたりもします」


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劇場の入口にある野生のいちじく - 筆者撮影
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日本のいちじくと形は似ているが、酸味があって桃のような香りがした - 筆者撮影

アタパディは年間を通して25〜30度前後と暖かい場所だ。敷地内にはコーヒーの木が実をつけ、野生のいちじくやジャックフルーツがたわわに実っていた。日本に帰国するときに、蕎麦の乾麺やめんつゆを買ってきて、時々食べることもあるのだという。


「小さいころから自分のペースで理解したり考えたりしたい気持ちが強かったんです。この場所にいると、それが許される感じがありますよね」


もちろん、公演や演劇制作の仕事が入ると、生活は一変する。アーティストの宿泊を受け入れ、チームを調整したり、衣装を準備したりと大忙しだ。


シャンカルさんは演出家、サトコさんは制作者として仕事をして生活費を稼ぎながら、ゆくゆくはスパイスの栽培や養蜂が継続的な劇場運営につながれば、という構想もある。


■観る人が一つになれる舞台を目指す


2月はじめ、日本の地方劇場である「犀の角」と共同制作した舞台『羽衣』がサヒヤンデ劇場で上演された。ないと天に帰れないという羽衣を地上に忘れた天女。その天女を好きになってしまった漁師が、羽衣を隠してしまう——という日本の『羽衣伝説』をもとにした舞台である。


筆者撮影
2025年1月、日印共同制作『羽衣』の稽古風景(中央左、後ろ向きがサトコさん) - 筆者撮影

日印の劇場は、両者と関わりのあるダンサーの山田せつ子さんを通じて2020年に出会い、観客が一体となれる舞台を目指してきた。


上演の日に劇場を訪れると、開始時刻が近づくにつれて地元の人が集まり、庭で振る舞われるチャイを片手にそれぞれ談笑していた。真っ赤なドレスを着た女の子、ポマードで髪をなでつけて誇らしげにする男の子。インドの伝統衣装・サリーを美しく着こなす母娘や、ドーティと呼ばれるスカートをはいた先住民族らしい男性もいた。


筆者撮影
オシャレをして観劇にやってくる地元の人たち - 筆者撮影

ポイン、ポインポイン……。


舞台が始まると、イダッキャというインドの打楽器のユーモラスな音が聞こえてきた。漁師役のインド人俳優・カピラ・ヴェヌさんはケーララの古典舞踊の踊り手でもある。天女に扮(ふん)した日本人俳優・美加理さんの動きは、歌舞伎や相撲を思わせた。インド人の歌い手・ビンドゥマリニさんの透き通る歌声は伸びやかに響き渡り、遠くで獣の声と混じり合った。


■「わからなさ」があるから、わかり合おうとする


上演した3日間で訪れた観客はおよそ230人。8割は地元の人だ。インド人同士でもそれぞれ異なる言語を母語とする創作メンバーと、日本人。小さな子どもからお年寄りまで、私を含めたさまざまな背景の制作陣と観客が、文化的、政治的な差異を超えて、目の前の舞台に釘付けになった。


撮影=AJ Joji
屋外劇場にあつまった観客 - 撮影=AJ Joji

公演が終わって数日後のことだ。早朝に物音がして起きると、台所に先住民族の男性が突っ立っていたという。サトコさんが驚いていると、男性は「(公演が)最高だったよ」とおみやげを手渡してくれたそうだ。


「先住民族の人の言葉がわかるんですか?」と尋ねると、「込み入った話はわからないんですけどね」と前置きして続ける。


「言葉がわからないところにずっと身を置いていると、なんとなく分かるようになるんです。お互いにどうにか分かり合おうとしてるところもあると思います」


わからなさが前提にあることで、わかり合おうと努力する。距離があるからこそ生まれるその姿勢に、サトコさんは魅力を感じているのだろう。


■自分と異なる存在に助けられて生きている


日本でシャンカルさんに出会ってからおよそ25年。中年にさしかかった今、サトコさんはシャンカルさんとの距離感についても見つめ直しているという。


「シャンカルと共に歩んできた演劇人生について考えると、これは『誰の』夢なんだろう、とドキッとすることがあります。でも劇場を拠点とする暮らしの中で、シャンカルという存在をきっかけとして、自分の生き方を模索してきたのだと考えられるようになりました」


他者との関係性をはかることで、サトコさんは自分の存在を確かめているのかもしれない。眼の前で起こることを誰のフィルターでもなく、自分のフィルターを通して見たいのだ。


撮影=AJ Joji
「この人と時間を共にしたい」を追いかけて共に演劇の道を歩んできたふたり - 撮影=AJ Joji

インタビューの最後に、幼い頃、「いい風がふいたらそれを逃さないように」と母に言われたことを教えてくれた。その言葉どおり、サトコさんは縁や出会いを大切にして、インドの山奥にたどりついた。


「生まれ育ったところではない土地で暮らす経験や、自分と違う人たちとの関係性が、自分自身を開き、柔軟にしてくれます。自分と異なる存在から持ち込まれるあらゆることに助けられているんです」


その生きざまはまるで、鶴留聡子という演劇作品をつくっているかのようだ。


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ざこうじ るい
フリーライター
1984年長野県生まれ。東京大学医学部健康科学看護学科卒業後、約10年間専業主婦。地方スタートアップ企業にて取材ディレクション・広報に携わった後、2023年よりフリーライター。WEBメディアでの企画執筆の他、広報・レポート記事や企業哲学を表現するフィクションも定期的に執筆。数字やデータだけでは語りきれない人間の生き様や豊かさを描くことで、誰もが社会的に健康でいられる社会を目指す。タイ・インド移住を経て、現在は長野県在住。重度心身障害児含む4児の母。
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(フリーライター ざこうじ るい)

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