隈研吾氏が手がけた公共施設が「腐って」いく…異常事態に建築関係者が「やはり」と驚かなかった理由
2025年4月21日(月)17時15分 プレジデント社
隈研吾が設計した栃木県那珂川町にある那珂川町馬頭広重美術館(画像=Woranol Sattayavinij/ CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)
■世間を騒がせた「腐る建築」とは
しばらく前のことだが、「腐る建築」というワードがSNS上で話題になり、TVニュースを賑わす事態になった。普段の日常なら生鮮食品などの腐敗で耳にする「腐る」という言葉と、鉄やコンクリートで建てられる強固なイメージのある「建築」という言葉の、互いに似つかわしくない言葉の取り合わせは、多くの人々に衝撃を与えた。
それは、本当に建物の屋根や壁が腐ってこぼれ落ちている映像が流されていたからである。その姿は、まるで住民のいなくなった村や閉鎖された鉱山に放置された廃屋の老朽化のような光景で、これがまだ20年ほどしか経過していないという事実。それが公共の美術館で、実際に栃木県那珂川町にある「那珂川町馬頭広重美術館」だという事実にも皆、驚かされた。
隈研吾が設計した栃木県那珂川町にある那珂川町馬頭広重美術館(画像=Woranol Sattayavinij/ CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)
我が国の高度成長期、昭和の時代に全国に数多く建てられた美術館、博物館で、築後40から50年が経過し、扉の枠や窓の一部、外壁の金具などが錆びたり劣化して、補修されたものを見たことがあっても、およそ20年ほどというまだまだ短期間で、屋根の材料が腐って崩れ落ちている公共建築など見たこともなかったからである。
■業界関係者の反応は全然違った
仮にも公共の施設で、有名な建築家の手による美術館で、なぜこんなことになっているのか、なぜそれを放置しているのか、そのこと自体になにか現代の日本を象徴するような不可解な出来事として、多くの人が不吉な印象をもったであろうことは疑いの余地もないだろう。
しかしながら、筆者を含む多くの建築関係者は、報道で紹介された那珂川町馬頭広重美術館については、「やはりそうなったか……」、「できたときは綺麗だったのに……」、「隈さんだしな……」という、半ば諦めた感じ、醒めた反応であった。
このような事態に至ってしまった著名な建築家による建築作品の姿、いくつかの建築賞も受賞した建築作品の今の有り様に驚くだけでなく、この建築の今後の取り扱いについても複雑な印象をもったのである。
■素材自体に問題があったわけではない
特に筆者の場合は、長く建築や公共施設の話題で、テレビやラジオ、新聞雑誌等でコメンテーターや解説員を務めていたこともあって、この事件ではすぐにテレビのニュース番組やインターネットの情報サイトなど、多くのメディアより解説コメントを求められることになった。その度におおむね以下のような発言をしてある。
「外部使用には向かない種類の木材を、耐候性の考慮なく使用したのではないか?」
「雨の多い日本の気候では、風雨に対する伝統的な木材の使用方法というものがあるが、そこをあえて、現代的なデザインの見え方を優先したのではないか?」
ほぼそのように答えていた。
というのも、建物の外側に木を使えば当然に腐るというものでもなく、我が国の伝統建築においては、数百年、千年という風雪に耐えている木造建築は数多く存在するからだ。我が国がおかれた地理的状況、東アジアのモンスーン気候、高温多雨という、菌類が繁殖しやすい気候環境の中でありながら、これまで建築の外部にも内部にも構造材や仕上げ材として、様々な種類の木材を使い続けてきている長い伝統がある。
我が国の建築文化においては、風雨に対する多様な建築の対抗手法、様々な木材に対する取り合いの工夫や、維持管理の技術や習慣も存在しているからである。
そのため、木材が短期間で腐ってしまうという場合に、それすなわち木材という素材に問題があるというわけではなく、その使用方法や工法、そこで採用したデザイン手法に問題があると考えるのが妥当だ。
■設計者・隈研吾氏はリスクを承知していた
今回、腐る建築として話題になった「馬頭広重美術館」の完成時に、その設計者である建築家の隈研吾氏が、建材メーカーが開いた建築専門家向けの講演会で以下のように述べていた記録が残っている。
「……建築基準法に、屋根は不燃材でつくることと書いてあって、燃える木では屋根はつくれない。もうひとつは、木を屋根の上に置いたら腐るのではないかという、ふたつの疑問をもたれたでしょう。……」(2000年東西アスファルト事業協同組合講演会、2025年2月28日閲覧)
いわく、“燃える木材で屋根はつくれないはずで”、“屋根の上に木材を置いたら腐る”、完成の時点で、図らずも今回の事態を予見していたかのように、何もかも承知の上に構想したものだったというわけである。
写真=時事通信フォト
秋の園遊会に出席した建築家の隈研吾氏(=2024年10月30日、東京・赤坂御苑) - 写真=時事通信フォト
■「腐らない耐久性」を確保したはずが…
その後に続いて、通常の木材使用の常識や、法律制限を、どうにかして超えたか、なんとかかわしたかして、あの建物は建てられたと図らずも吐露している。
「……初めて建築で燃えなくて腐らない木を使った屋根というのができたんです。処理の仕方は、遠赤外線の処理で木の導管の中を薬剤が浸透しやすいようにして、そこにホウ酸塩とリン酸塩を注入し、中で結晶化させるという方法ですので、ほとんど見た目は無塗装に見えます。建築センターから不燃相当という認定をもらってやっと実現したのがこの屋根です。……」(前に同じ)
つまりその方法とは氏によれば、木の保護に関して新素材の手法を用いて不燃塗料を使用し、そのことにより木が燃えないだけでなく、腐らない耐久性を確保しているかのように発言しているのだ。
しかしながら実際にそのときに使用された技術とは、林野庁出身で宇都宮大学農学部教授であった安藤實氏が研究していた木の不燃技術、難燃技術のことであって、スギ材を燻煙乾燥したうえホウ酸やリン酸等の不燃薬剤を注入し、難燃性を確保したというものである。必ずしも風雨に対し不朽性を確保するものではなかったのである。
■なぜ実験段階の新素材を採用したのか
結局、町ではこの腐朽してしまった建築の屋根材の補修交換工事の予算をクラウドファンディングにより集めようとしている。しかしながら、実際の補修工事に見合うであろう金額、数千万円以上、場合によっては3億円はかかるであろう工事費には到底満たない状況であり、今もって改修の目処は立っていない。
設計者の隈研吾氏はニュースのインタビューに答えて、「保護塗料の性能が低かった」と述べたようだが、前述のように保護塗料の性能に不足があることは承知のうえだったのではないかと、多くの建築関係者は認識している。
そのため、今後は公共施設の計画において、まだ実験段階の新素材の採用を、そのリスクの説明なく実行したのか? という意味で、建築家倫理の議論に移っていく可能性もある事件なのである。
一方、ここまでの顛末を知ると、なぜ、そこまでして腐る恐れの高い木材を使用したのか? という疑問が生じることだろう。同時に、そのような批判や心配があることを承知のうえで、多くの建築家やデザイナーが、隈研吾氏のこの「結果、腐ってしまった木」の建築表現を評価してきたのか、ということにもだ。
■築数百年の神社に感動する理由
その理由とは、我が国における特徴的な建築への針葉樹の活用方法と、長い間に培われた木材加工技術やそれにともなう木の文化が背景にある。
白木(しらき)をそのまま外部に使用すると、紫外線により木の成分であるリグニンが褐色に変化し、さらに灰色から墨色に退色していく。
その変化を容認しているからこそ、全国の景勝地や観光地に赴いたときに、ちょうど再建されたり新築されたばかりの神社よりも、数十年、数百年を、自然の中で経過した枯れた雰囲気の神社に、我々は風雪に耐えてきた歴史に想いを馳せ、好ましい印象を感じている。
木部だけでなく、屋根の銅板が茶色から緑青(ろくしょう)に変わり、瓦にも苔むしてきて初めて、社殿としての風格や荘厳さが現れ始めてくるその経年変化を良しとしてきたのである。
■日本人が愛する白木の香り、木目、木肌
だからこそ、まれにしかない木造大型建築の新築時における柱や梁の、白木の初々しさや清廉さにも大きな魅力を感じるわけである。仕上げを施す前の白木の建築の骨組みの姿は、神社仏閣だけの話ではなく、一般の木造住宅における上棟式の晴れがましさや、漂う木の香り、綺麗な木目と木肌の潔さ、など、誰もがそのほんの一瞬垣間見させる木造建築の木理(もくり)の美しさに共感できるのである。
写真=iStock.com/laughingmango
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/laughingmango
その感性は、建築の構造材としての木の魅力だけでなく、木材が山の中で切り倒され、運ばれ、製材される加工工程の中で生じる様々な木部の素材利用にも通じている。剥がした木の皮は檜皮葺(ひわだぶき)などの手法で屋根や塀に使われ、切り落とした枝の端材や細径材からは、様々な工芸品、玩具、土産物、まな板や升や椀、割り箸などにまで加工されていく。
特筆すべきは、木を薄く剥いてかつて紙の代わりに仏教の経典の記録に用いられた経木などは、お弁当箱にしたり、食品を包むことにすら使われてきたことからも明らかなように、ま新しい木の素材感を好んで生活の中に取り入れていることだ。
■使い捨てではない資源循環的な仕組み
同時に、そうした白木の切ったまま削ったままの質感は一瞬のものでもあり、良い意味での日本文化におけるすぐに消え去るもの、儚いものに対する無常観という美意識、そのうえで何事をも新品を好むという性向にも繋がっている。
森山高至『ファスト化する日本建築』(扶桑社新書)
その一方で骨董や古びたものに対する愛着、侘びさびといった懐かしさや郷愁の情といった感性もあり、変化の中で物を残す活かすという、単純な使い捨てではない資源循環的な社会制度や仕組みも醸成されてきたのである(一時期は資源循環の制度説明が足らず、割り箸が欧米のミュージシャンなどから使い捨て文化と批判されたこともあったが、林業における間伐材や端材の利活用という意味では、環境的にも評価され得る慣習といえるだろう)。
毎年、付け替えられる古い日本家屋の簾(すだれ)や葦簀(よしず)などのように、夏前の風物詩として刷新される生活のための品々、真夏にだけ存在し、段々と木材や竹の色が変わり、シーズン後には撤去されていく海の家や、京都の夏の風物詩である鴨川の川床、正月の注連飾(しめかざ)りや酒蔵の杉玉と同じように、それらは季節に合わせて、自然から授かる素材を活かしながら作られた様々な設(しつら)えが、毎年新しく刷新されるときの潔さなのである。
■「白木を使った名建築」が無残な姿に
そのため、筆者は、「なぜ、(隈研吾氏は)ここまで木を使っているのでしょうか?」という質問については、「日本人はおしなべて白木が好きだからでしょう。その方が多くの人々の共感を生む。事実、この馬頭広重美術館でも完成時の評価は非常に高かったと聞きます」と答えている。
実際に隈研吾氏設計のこの建築が出来上がったばかりの頃は、その細い白木の角材を表面に塗膜(とまく)のない無塗装(表面的に白木を削ったばかりのように見せて)で使用したことは、格子や簾のごとくに美しいと、大いに評価され、伝統的な日本の木の文化を現代に蘇らせた新しい事例として、名建築のごとくに語られたものである。
そのような好印象が脆くも根底から崩れ去ってしまったのが今回の「腐る建築」事件であり、短期に木が傷み、腐朽してしまったまま放置されたその無惨な姿は、完成して数年間の間に受けた多くの賛辞、人々の賞賛や感動を、かえって大きく踏みにじる結果になってしまったのである。
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森山 高至(もりやま・たかし)
建築エコノミスト
1級建築士。1965年生まれ。岡山県井原市出身。岡山県立井原高から早大理工学部建築学科に進学し、88年に卒業。斎藤裕建築研究所を経て、91年にアルス・ノヴァを設立し、代表に就任。04年に早大政治経済学部大学院経済学修士課程を修了。長崎県の大村市協定強建替え基本計画策定など、公共建設物のコンサルティングに携わるほか、マンガの原作などの仕事も手掛ける。主な著書に『「非常識な建築業界 「どや建築」という病』がある。
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(建築エコノミスト 森山 高至)