へその緒がついた赤ちゃんを抱いて現われた…「予期せぬ妊娠」の女性に赤ちゃんポスト生みの母がかけた言葉
2025年5月5日(月)8時15分 プレジデント社
民泊「由来House」 田尻由貴子さん - 撮影=プレジデントオンライン編集部
■「赤ちゃんポスト」の生みの母に会いに熊本へ
「先日も、ゆりかごに預けられたお子さんが関東から、私を訪ねてくれました。高校に合格した今のタイミングに、生んでくれたお母さんのことを知りたいと、育てのご両親と一緒に来られたのです」
撮影=プレジデントオンライン編集部
民泊「由来House」 田尻由貴子さん - 撮影=プレジデントオンライン編集部
熊本市郊外の静かな住宅地の一角、お会いして、あたたかい陽だまりのような笑顔に優しく包み込まれるのを感じた。田尻由貴子さん、75歳。熊本市にある慈恵病院で、2015年まで看護部長を務め、現在も相談業務や女性のためのシェアハウス運営など、女性たちに寄り添う活動を精力的に行っている。
慈恵病院と言えば、母親が育てることができない赤ちゃんを匿名で預けることができる、いわゆる「赤ちゃんポスト」を設置・運用している病院だ。その名も、「こうのとりのゆりかご」。
2007年に運用を開始し、全国にはなかなか広がらなかったものの、2025年3月31日、ついに全国二つ目の「赤ちゃんポスト」が、東京・墨田区、錦糸町駅近くの賛育会病院で午後1時に開始され、注目が集まっている。
田尻さんは看護部長として、当時の院長である蓮田太二医師と共に、「こうのとりのゆりかご」創設に関わった人物だ。スタートから8年間、退職するまで「ゆりかご」に関わってきた。
■「なぜ、育てられなかったのか」
「今回、訪ねてきた子の場合、預けられた時の母子手帳がありました。母子手帳を見れば、お母さんが愛情を持って産んだことが、子供にもわかります。ちゃんと、健診に行っていた履歴が残っていますから。ゆりかごに預けられた子は、母子手帳がない例も多いんです」
だから田尻さんは、彼にこう話した。ゆったりと穏やかな、あたたかな声で。
「臨月は、1週間ごとに健診に行っているね。お母さん、産まれる時まで、あなたのことを大事に守ってくれたんだよ」
その後、慈恵病院にある教会へと移動して、そこでも話をしたという。
「赤ちゃんを育てられないとゆりかごに訪れたお母さんと、ここで祈るの。産んだ赤ちゃんが、幸せになることを。そして、お母さん自身も、これから、どうか前向きに生きていけるようにって……」
彼は「ゆりかご」に預けられた後、子どもを望む夫婦と特別養子縁組が行われ、実子として愛情深く育てられている。その両親は彼に、自分たちの実の子どもではないという「真実告知」を行い、一緒にルーツをめぐる旅をしているのだと伝えてくれた。
「彼は慈恵病院に保存してあった、ゆりかごに預けられた時の写真を受け取ると、何か、スーッと吹っ切れた様子で、お母さんと笑いあっていました。いい親子関係だと思いました」
■子の「出自を知る権利」がいかに重要か
たとえ育ての親のことが大好きでも、子どもは自分のルーツを知りたいと希求する。これは、子どもにとって重要な「出自を知る権利」なのだ。
「子どもはみんな、実の親のことを知りたいもの。なんで、育てられなかったのかを知りたいんですね。だから私は、私のもとを訪ねてきてくれた子には、当時の記憶や手元にあるものから『どうしても育てられないから、お母さんがあなたへの最後の愛情で、ゆりかごに預けに来たんだよ』ということを、しっかりと伝えるようにしています。出自を知ることは、自分の人生の土台にかかわること。命を守るのと同じくらい、この権利が守られるのは重要なことなんです」
■「産後うつ」の予防の「妊娠葛藤相談」が始まりに
「ゆりかご」は、命を繋ぐシンボル——、それは、今も変わらぬ、田尻さんの強い思いだ。
「ゆりかご」に関わることとなったきっかけは、慈恵病院の前理事長・蓮田太二医師から「産後うつ」に取り組んでほしいと、慈恵病院に誘われたことに始まる。熊本県北部の町で3人の子を育てながら保健師をしていた田尻さんは、50歳の時に、看護部長として慈恵病院に赴任した。
「予防するには、妊娠中からきっちり関わっていかないとと思い、まずは妊婦さんから病院への相談体制を確立しました。そのときに『生命尊重センター』が行っている妊娠葛藤相談も、引き受けるようになったんです」
「生命尊重センター」とは、1982年にマザーテレサが来日した際に「日本は美しい国だが、中絶が多く、心の貧しい国だ」と呼びかけたことを契機に発足された団体。“いのちは授かりもの”“お腹の赤ちゃんも社会の大切なメンバー”を訴え、啓発活動を全国で展開している。そのセンターの活動のひとつに、出産を困難に感じる女性たちからの相談を受ける「妊娠葛藤相談」があった。
2004年、その「生命尊重センター」からの声かけで、田尻さんは慈恵病院 理事長の蓮田医師と共に、ドイツの「ベビークラッペ」(赤ちゃんポスト)を視察することになる。
■すべて「実子として養子縁組が行われる」ドイツの国をあげた仕組み
「ベビークラッペ」とは、匿名で赤ちゃんを預けるドイツのシステムだ。
保育園や病院などの壁に扉が備え付けられていて、その扉をあけると、中に温められたベッドが置かれている。ベッドには運営から母親宛の手紙が置かれており、母親はそれを受け取って、ベッドに赤ちゃんを寝かせて扉を閉めると、再び開けることはできない。赤ちゃんが預けられると、警備会社のブザーが鳴り、警備員が駆け付けて赤ちゃんを確認するという流れだ。
その後赤ちゃんは、施設スタッフの手によって病院の小児科で診察を受け、異常がなければ里親のもとで8週間育てられる。この8週間の間に、新聞で赤ちゃんを預けた母親へのメッセージが届けられ、それを読み「やっぱり自分で育てたい」と引き取りにくる母親が少なくないという。
8週間以内に親が名乗りでなければ、日本のように児童施設に預けられるわけではなく、すべて実子として養子縁組が行われる。重症の障害がある場合を除き、障害のある赤ちゃんは、普通の赤ちゃんの数倍の養子希望があるという。障害のある赤ちゃんを育てる場合には、専門家によるサポートも充実しているという。
このような「国全体で小さな命を守り、愛情をもって家族のもとで育てていく」仕組みが、ドイツにはあるのだ。
写真=iStock.com/digicomphoto
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■1週間に1人の赤ちゃんが遺棄されていた
「その国全体を巻き込んだ『すべての子供が家庭で育つ』仕組みに、蓮田先生も私も感銘を受けたものの、視察した当初は、日本にすぐに必要だとは思っていませんでした。でも帰国後、熊本県で立て続けに3件、赤ちゃん遺棄事件が起きたんです」
それは18歳の少女が産み落としてすぐの赤ちゃんを殺して庭に埋める、21歳の学生が赤ちゃんを汲み取り式トイレに産み落として窒息死させ6年の実刑判決を受けるなど、「なぜ社会で未然に防げなかったのか」「相談できる人が身近に一人もいなかったのか」と当事者への支援の薄さに疑問を投げかけたくなる、どれも痛ましいものだった。
「さらに、1週間に1人の赤ちゃんが遺棄されているというデータが出たこともあって、私と蓮田先生で、『日本にも、ドイツのベビークラッペを作ろう』という話になりました。そんな2人でした診察室での会話で私は覚悟を決めました」
■軽はずみに増やすべきではない
2006年11月、慈恵病院は「こうのとりのゆりかご」設置計画を公表。潮谷義子知事(当時)が合意し、幸山政史市長(当時)も2007年4月5日に設置許可を出し、5月10日、日本初の「赤ちゃんポスト」が運用開始となった。
「潮谷知事は『生命尊重センター』のメンバーでしたし、幸山市長にも『命が救われるのであれば、許可しないわけにはいかない』と言っていただきました。ただ、わたし含め、許可いただいた皆様も、この取り組みは蓮田先生だからできるのであって、誰でも軽はずみにやるべきではないという慎重な考えでした」
とはいえ、熊本県に一つの設置となると遠方の母親は子供を産み落としたばかりの大変な状態の体を引きずって、熊本県を訪ねることになる。母子の安全を考えると、他県への設置を進めていくことは必要不可欠なことだった。田尻さんは蓮田医師と一緒に厚労省に理解を求め、国会議員にその意義を説明するなど駆け回った。
しかし最終的には、基本、国は関与しないということになったという。
■批判が殺到する中、最初に預けられたのは……
設置を公表した日から、慈恵病院には賛否の電話やメールが押し寄せ、厳しい批判にもさらされた。しかし、田尻さんの「やるしかない」という思いに揺らぎはなかった。
「預けに来るのは、未婚・若年妊娠、貧困、暴力や強姦、不倫などの方です。どんな理由であれ、命が繋がることが第一なので、お母さんのことは責めません。責めても、何も解決しないわけですから」
最初にゆりかごに預けられたのは、予想もしなかった3歳男児だったという。
「まさか、3歳児が座っているとは思いもしませんでした。今でも、そのときの男の子の表情を忘れることはありません。本当に、キョトンとしていました」
■今も忘れられない訪問者
最初の1年間で、17人の子が預けられた。県内からはゼロで他の九州地方から3人、中国地方2人、中部地方2人、関東地方2人、不明が8人で、遠方から自分のリスクを顧みず、産後の身体を引きずるように、母親たちはさまざまな交通機関で慈恵病院を目指した。
赤ちゃんに、お乳をあげながら。育てられない赤ちゃんの命をなんとか、守ろうと。そうでなければ、遺棄するしかないわけだから。
「今でも忘れられないのは、夜、私が電話当番をしていたら、『ゆりかごに預けたいんだけれど、場所がわかりません』と電話があって、正面玄関でその女性とお会いして、私がお預かりしたんです。へその緒がついたままの赤ちゃんと胎盤を」
まさに、産んだ直後だった。女性は、胎盤まで持ってやってきた。話を聞くと、女性の気持ちは揺れていた。離婚して子どもと実家に身を寄せる身で、これ以上、母親に迷惑はかけられないと予期せぬ妊娠に悩んでいた。
「じゃあ、私が一緒にお母さんに話しに行ってあげるって、実家まで行ったんです。お母さんは怒って『育てるのは無理だ』と。泣く泣く、特別養子縁組に出しました。共に悩んで。今でも思い出します。彼女、どうしているのかと」
■「秘密は守ります」
このエピソードから、ゆりかごは「預ける」だけの場でなく、「相談」を重視するという方針を当初から採っていたことがわかる。田尻さんは走り去ろうとしている母親に、なるべく声をかけるようにしてきた。扉のインターフォンの横には、こう書かれている。
赤ちゃんを預けようとしているお母さんへ
秘密は守ります。赤ちゃんの幸せのために、扉を開ける前に、チャイムを鳴らしてご相談ください
扉を開けると、慈恵病院からの手紙が置いてあり、その手紙を受け取ってはじめて、赤ちゃんを預ける場所の扉が開くという仕組みだ。この手紙は、「ゆりかご」と母親を繋ぐ唯一のものとなる。そこには、預けようとしている母親へのメッセージが記されている。
「預けてくれて、本当にありがとう。この子の幸せのために、特別養子縁組という制度があります。そのためには、親の承諾が必要なので、連絡してくださいね」
写真=iStock.com/Wirestock
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匿名で預けたわけだが、病院に連絡してくる母親がほとんどだった。遺留品が残される場合は調査をし、病院と児童相談所の努力のおかげで、実親を辿れないのは170人中、31人。「ゆりかご」では、子どもの「出自を知る権利」の重要さから、自分のルーツを辿れるような形を重視した運営を行なってきた。
■「戸籍」だけは入れてほしい理由
「多くの方は『妊娠なんか親に言えない、親にバレたら死ぬ』と、相談の最初は匿名です。ですが諦めず、しっかり関わって寄り添うなかで、『赤ちゃんのために、戸籍だけは入れてあげようね』と話していくのが、私のスタンスでした。それは、出産した場所でできるんです。ですから、私は一緒に市役所について行って、戸籍に入れるところまで支援していました」
実親が戸籍に残れば、子供の「出自を知る権利」は守られることとなる。
「ただ本来は、ゆりかごの取り組みは、個人病院単体が担うことではなく、ドイツのように国が担うべきことだと私は思っています。『出自を知る権利』を守るためにも、母親が残した個人情報を、国が管理し永久保存しないといけない。それは、今慈恵病院で取り入れられている、母親が自身の身元を当局に開示されることなく行う出産『内密出産』にも言えることです」と、現場を離れた今も、田尻さんは小さな命を、そして子供の権利を守るために国へ訴えかけている。
■「愛されないと、愛することはわからない」
ドイツの「ベビークラッペ」に預けられた子供のその後については先述した通りだが、「ゆりかご」の場合はどうなのかも聞いた。
赤ちゃんがゆりかごに預けられると、ナースセンターと新生児室のブザーが鳴り、スタッフが2人で駆けつける。医師が赤ちゃんを診断し、警察署と児童相談所、熊本市に連絡すると、警察は「棄児」として熊本市に申告、熊本市がその子の戸籍を作る。児童相談所は、「要保護児童」として保護し、施設や里親などに繋いでいくこととなる。
「私も蓮田先生もなるべく、特別養子縁組がいいという考えでした。佛教大学の社会福祉学科で福祉を学んでいたときに児童養護施設での実習を経験したのですが、私、たまらなかった。ほとんどの子が、愛着障害でしたから。愛着障害の子は愛されたことがないから、愛することがわからないんです」
「愛着」とは、赤ちゃんと母親など養育者との間に築かれる信頼の絆のこと。人間の土台というべきもので、愛着を得た赤ちゃんは、心に「安全基地」を持って成長することができる。逆に、それを得ることのできなかった子は「愛着障害」をもつこととなり、その後の人生を生きにくさを抱えながら成長するしかない。
写真=iStock.com/west
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■「相談」で救える命がある
2007年から2024年度まで、「ゆりかご」には計179人の子が預けられた。最も多かったのは2008年度の25人で、20年度の4人が最少と減少傾向にあるのは、全国に窓口が増え、相談につながるケースが増えているからと見られている。
「私は退職までの8年間で、約1万件近い相談を受けました。その結果、母親が自分で育てるとなった事例が326、特別養子縁組が235、乳児院が38、相談で救われた命が599人います」
相談は本人だけでなく、家族からも多いという。例えば、次のような例があった。
■カラオケボックスでレイプされ「もう死にたい」と話した女の子
「はい、SOS電話相談、田尻です」
「娘が困ったことになってしまって、助けてください」
興奮している母親の電話によると、専門学校生の娘がゆきずりの高校生とカラオケボックスに行き、性行為を強要されて妊娠した。すでに、24週になっているという。
「犯されたんです。訴えてやる! 真面目ないい子なんです。助けてください」
興奮状態の母親より、娘と話したほうがいいと田尻さんは判断。丁寧に相槌を打って聞いてくれる声に落ち着いたのか、娘さんに電話を代わってくれた。
「初めまして。よろしくお願いします」
心細そうな声で、娘さんは挨拶してくれた。
「大変だったわねー。でも、安心してー。お母さんも私も、あなたの味方よ。一緒にどうしたらいいか、考えましょうね」
「中絶は、もうできないと言われました。でも、そんな人の子どもを産むなんて、私、絶対にできない。もう死にたい」
「死んじゃいたいって思うのも、仕方がないわよねー」
一呼吸おいて、こう伝えた。
「特別養子縁組っていうのがあるのよー」
こうして田尻さんは彼女が住む地域の相談窓口を紹介。何度か電話で話し合った結果、地域の窓口に任せる形にできたという。
その他のケースでは、恋人がいながら、会社の上司と性行為を行い妊娠したと話す30代の女性も特別養子縁組という手段をとった。
「私は彼と別れません。だから、他の人の赤ちゃんができたことは絶対に隠し通したい」
誰にとっても守り切らなければならない優先事項があることを、田尻さんは知っている。彼女の場合、それは彼に出産を隠し通すことだった。
■責められるのも、産むのも「女性」
未婚や若年で望まない妊娠をしたら、家族や周囲に責められ、社会に責められ、そして何より自分を女性たちは責める——。しかし、「ゆりかご」では誰も責めない。むしろ産んだ後、女性が前向きにその後の人生を生きていくことを願っている。
「産んでくれてありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう。こんな社会になったらいいなと思いますね」
撮影=プレジデントオンライン編集部
望まない妊娠をしたとしても、あたたかく受け止め、優しく包み込める社会になりたい。田尻さんが一番に望んでいるのは、全国に設置された「相談窓口」で、しっかりと相談しながら安心して子供を産める“相談出産”が広がること。「ゆりかご」が不要となる社会だ。
(後編につづく)
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黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)
ノンフィクション作家
福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待——その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)、『母と娘。それでも生きることにした』(集英社インターナショナル)などがある。
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(ノンフィクション作家 黒川 祥子)