【帝銀事件】父・平沢貞通亡き後も「冤罪」と闘い続け、力尽きた養子の生き様

2023年5月3日(水)6時0分 JBpress

(フォトグラファー:橋本 昇)

 去る3月13日、「袴田事件」の再審請求が認められた。

 1966年6月に静岡県清水市で味噌製造会社の専務宅が放火され、焼け跡から一家4人の殺害された遺体が見つかった強盗殺人・放火事件だ。2カ月後に従業員の袴田巌さん(当時30歳)が犯人とされ逮捕された。ちなみに袴田さんは元プロボクサーだった。

 袴田さんは自白により起訴され、公判では無実を訴えたが1980年に死刑が確定した。

 当初から捜査に疑問を持った人々によって再審請求が起こされたのは1981年のことだ。ボクシング関係者にも支援の輪が広がっていった。しかし、一度確定した判決を覆すのは容易なことではない。証拠集めなどの粘り強い努力と相当の時間を要するのだ。


家族にとっても終わりの見えぬ闘い

 この事件も、証拠捏造などの疑惑が認められ静岡地裁で再審開始が決定されたのは2014年、実に事件から48年後のことだった。だが、そこからまだ再審への道のりは遠かった。

 続く東京高裁で再審開始決定は取り消された。そして決定は最高裁に持ち込まれ、最高裁から東京高裁への差し戻しを経てようやく今回の再審開始確定という結果につながったのだ。

 実に事件から半世紀以上、死刑判決から40年以上という長い闘いだった。

 判決の日、袴田さんを支え続けた支援者たちの号泣する姿がその長い闘いの苦労を物語っていた。中でも袴田さん本人が体調を崩してから代理として闘ってきた姉・秀子さんの安堵した笑顔が印象的だった。

 人生の大半を冤罪との闘いに費やすのは本人だけではない。家族もまた終わりの見えない長い闘いを共に闘うのだ。

 袴田事件再審開始の報を聞いて思い出すのはひとりの青年のことだ。

 平沢武彦さん(享年54歳)は戦後の大きなミステリー事件といわれる「帝銀事件」の再審請求人で、この事件で犯人とされ死刑が確定したまま獄中で病死した平沢貞通死刑囚(享年95歳)の養子だ。


青酸化合物で12名を殺害、現金・小切手を奪取

「帝銀事件」とは1948年1月に帝国銀行椎名町支店(東京都豊島区)で起きた銀行強盗殺人事件だが、都の防疫部と名乗る男によって赤痢の予防薬と偽った青酸化合物を飲まされて12名が殺害され現金や小切手が奪われたという戦後の混乱期に社会を震撼させた事件だ。

 犯行の手口から旧陸軍関係者の事件への関与が疑われ、実際にその方面の捜査も行われていたが、事件から7カ月後に逮捕されたのは意外にも有名な画家の平沢貞通(当時56歳)だった。

 平沢は皇室に絵を献上したこともあるテンペラ画の巨匠だった。

 逮捕のきっかけは犯人が使った名刺の捜査上に平沢が浮上したことだが、その他にも次々と平沢を犯人とする情報が明らかになる。人相書きに酷似している、事件後被害総額とほぼ同額の預金をしている、家に青酸カリがあったと思われる等々……。これだけ辻褄が揃えば犯人とされても仕方がない。平沢の妻や子供も平沢が犯人ではと思ったという。

 平沢は1カ月後に自供を始めた。そして1955年に最高裁で死刑が確定する。


平沢支援に乗り出した作家・森川哲郎とその死

 作家の森川哲郎が「平沢貞通氏を救う会」を結成したのは1962年7月のことだ。平沢は獄中で無実を訴えていた。森川は獄中の平沢と文通する中で平沢の無実を確信するようになる。逮捕の決め手は本人の自供だが、その自供が何ともあやふやなのだ。その上、もともと平沢には虚言癖もあった。

 森川は署名集めなど精力的に平沢の支援を始める。その森川の長男が後に平沢の養子になる武彦さんだ。武彦さんは1959年生まれというから「平沢貞通氏を救う会」が結成された時は3歳ということになる。そして彼は父親の精力的な活動を目の当たりにしながら育っていく。

 帝銀事件が起きたのは私の生まれる前だが、「帝銀事件」と「平沢貞通」という言葉は子供の頃からしばしばマスコミに登場した記憶がある。

 1959年に松本清張が発表した「小説帝銀事件」ではGHQの関与に話がふくらみ、人々の興味をかきたてた。また、その小説をもとに1964年には熊井啓監督によって映画が制作された。青酸カリによる12人の殺害という事件の凄惨さと逮捕されたのが有名な画家という話は、いやが応でも巷の興味を煽る。

 そして当事者の平沢は無実を訴え続けた。その結果、彼は死刑を執行されることもなく、かといって再審請求が認められることもなく、その後の人生を獄中でひたすら絵を描いて過ごすことになる。

 そんな中で武彦さんが平沢の養子になったのは1981年のことだ。理由は高齢になった平沢に万が一のことがあったら再審請求を引継ぎたいという思いからだ。再審請求は本人が亡くなった場合は親族しか引継ぐことができないが、平沢の親族は縁を切っていたのだ。

 仙台の拘置所から八王子医療刑務所に移されていた平沢死刑囚がもう危ないようだ、という報が入ったのは1987年の2月の終わりのことだった。マスコミはこぞって刑務所の前で張り込んだ。そして無実を訴えながらも死刑囚として獄中で命を終える平沢の無言の出獄を一目記事にしようと待ち構えていた。

 私もその一人だった。その年は寒い冬が続いていたのか、八王子の刑務所の前の坂道にいつまでも雪がちらちらと舞っていた光景を思い出す。


獄中で酸素チューブを鼻に挿して眠る平沢貞通死刑囚

 武彦さんは毎日決まった時間に面会に訪れていた。彼が面会を終えて出てくると記者たちがワッと取り囲み平沢の様子を聞いてはメモを取るという毎日が続いていた。

「今日はぐっすりと眠っている父の顔を見ているだけでした」

「お父さんと呼びかけると時々こちらに顔を向けるような仕草はするのですが、意識が朦朧としているようです。だから面会といってもただ横にいるだけですが…」

 武彦さんは物静かで言葉も少ない。

 そんなある日、私は武彦さんにあるお願いをしてみた。

「お父さんの今のご様子をスケッチしてもらえませんか」

 彼は暫く考えた後に誠実そうな顔をこちらに向けて答えた。

「どれだけ描けるかわかりませんが、描いてみます。ビジネスホテルに泊まっているのでそこで仕上げましょう」

 その日、武彦さんはホテルの机の上で一所懸命にスケッチと格闘し病床の父親の絵を完成させた。

「父の平沢は肺炎でとても危ない状態です。鼻に酸素チューブが差し込まれた状態で目を瞑っています。ただ僕が訪ねて行くと僅かにこちらに顔を向けて少し微笑むように顔の深い皺を動かします。体はすっかり骨と皮だけになって、頬も深く落ち込んでいます。あの状態で生きていること自体が不思議な気もします。なんとか生きているうちに外の世界を見せてあげたかった…」

「なぜ養子になったんですか?」

「それは僕が父の無実を信じているからです。本当の家族からは見放されてしまった父の希望のひとかけらになれればという想いからです」

「獄中にいても、自分の無実を信じてくれる人間が確実に一人はいるんだと思えれば心強いんじゃないかと…」

 ぽつぽつと語る彼だが、内面からは静かにだが熱く確かに波打つ鼓動が聴こえてくるような気がした。


平沢を支え続けた武彦さんに訪れた「平沢貞通の死」

 それから約2カ月後の1987年5月10日、平沢貞通死刑囚は獄中で静かに95年の生涯を閉じた。

 平沢の死の数年後、私は武彦さんを訪ねた。

 高円寺の線路際のアパート。6畳一間の部屋には閉め切って澱んだような重い空気と匂いが漂っていた。そして部屋の中には平沢が獄中で描いた絵が所狭しと立てかけてあった。武彦さんは以前よりも更に寡黙になっていた。彼は再審請求人として平沢の死後も帝銀事件の再審請求を続けていたが、平沢の死で彼の何かが壊れてしまったようでもあった。

「お父さんの無実を信じて今も活動を続けておられるのですか?」という質問にも、僅かに顔を緩めただけで答は返ってこなかった。

 ただ一度、刑務所の面会に通った時の話になった時だけ彼の顔に表情が現れた。

「あの時は毎日疲れ果てていました。ああ、あの絵ですね! あれには苦労しましたよ。絵心なんて持ち合わせていないんですから。無茶振りですよね」

 そう言って彼は瞬間顔を崩した。その時、彼の心の奥には未だ養父である平沢との心の絆だけが住み着いているのだと感じた。


「冤罪」が狂わせた家族の人生

「平沢貞通氏を救う会」を立ち上げた武彦さんの実父の森川哲郎氏は1982年に病気で亡くなっている。後を継いだ形の武彦さんは孤独感も持ちながら養父である平沢との絆を深めていったのだろう。まだ20代の青年にとって、それはあまりにも重い選択だった。

 その後、武彦さんは体と心の病を患い、自殺未遂もあったという。

 そして2013年10月、自宅アパートでひっそりと亡くなっているのが発見された。

 その報を聞いた時、私の心の中を冷たい隙間風のような風が吹き抜けていった。

 なお、請求人死亡の為、19次再審請求審理は終了したが、2015年になって平沢元死刑囚の遺族によって第20次再審請求が申し立てられた。

 はたして帝銀事件のミステリーは解き明かされるのだろうか、それとも時間の流れの中で風化していくのか…。

 獄中から無実を訴え続けた平沢貞通はこう言っていたという。

「自分だけの事なら諦めることもできるが、妻や子供や孫たちが帝銀事件の犯人の家族として社会から迫害され続けていくのは我慢できない。命のある限り闘い、家族を救う」

 この平沢の思いは、そのまま、数多くある冤罪を疑われながらも解明されていない事件で犯人とされた者とその家族の切実な思いなのだ。

筆者:橋本 昇

JBpress

「養子」をもっと詳しく

タグ

「養子」のニュース

「養子」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ