なぜ40年前のアップルは「世界最高のCM」を作れたのか…「商品が映っていないのに欲しくなる」驚きの仕掛け

2024年5月13日(月)8時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Patcharamai Vutipapornkul

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アップルが1984年に発売したパソコン「マッキントッシュ」のCMは、「世界最高のCM」と呼ばれている。コンサルタントの山口周さんは「CMには機能の説明はおろか、商品カットさえ映っていなかった。人々の心を動かしたのは、たった一つのメッセージだった」という——。

※本稿は、山口周『クリティカル・ビジネス・パラダイム 社会運動とビジネスの交わるところ』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。


写真=iStock.com/Patcharamai Vutipapornkul
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■日本人は他国に比べて権力に従いやすい?


オランダの心理学者、ヘールト・ホフステードはIBMからの委託に基づいて「目上の年長者に反論しにくい度合い」を調査し、これを数値化して権力格差指標=PDI(Power Distance Index)と定義しました。


ホフステードによれば、権力格差は「それぞれの社会において、権威を持たない立場にある人々が、既存の権威を受け入れ、それに従おうとする程度」と定義されます。


権力格差の小さい国では、人々のあいだの不平等は最小限度に抑えられる傾向にあり、権限分散の傾向が強く、部下は上司が意思決定を行う前に相談してくれることを期待し、特権やステータスシンボルは社会に受け入れられません。


一方、権力格差の大きい国では、人々のあいだに社会的不平等があることはむしろ望ましいと考えられており、権力弱者が支配者に依存する傾向が強く、組織や社会では中央集権化が進み、部下は上司に対して反論したり意見したりすることに気後れし、特権やステータスシンボルが身分や経済力を示すシンボルとして社会で機能します。


つまり言い換えれば、権力格差というのは「その社会がどれくらい権威に対して反抗的であるか」を指し示す指標なのです。


■権力格差は「主流になっている宗教」で分かれる


主要国の権力格差指標を確認してみましょう。日本の数値は54で平均より少し上、同じ東アジアの韓国、台湾、中国よりも低く、アジアの中では権力格差が比較的小さい国と言えます。一方権力格差の小さい国々は、デンマークやスウェーデンといった北欧諸国、スイス、ドイツ、オランダといった西ヨーロッパ諸国、そしてカナダ、アメリカが並びます。


以下の図表1を見て、ある興味深い傾向があることに気づいた人もいるでしょう。そうです、権力格差の高低は、おおむね「その国で主流となっている宗教」によってグルーピングできる傾向があるのです。


出所=『クリティカル・ビジネス・パラダイム

たとえばアジアを中心とした儒教国は全般に権力格差が高めであることがわかります。儒教という宗教は言うなれば「人間関係に関するルールの集合体」ですが、そのルールの筆頭に来るのが「年長者に逆らってはならない」という規範ですから、儒教の影響が強い国で権力格差が大きくなるのは当然だと言えます。


また、ローマ法王を頂点とした明確な位階制度を有するローマ・カトリックの影響が強い地域で権力格差が高くなる傾向があるのも、同様に理解できます。一方で、世界で最も権力格差の小さい国々を眺めてみると、これらの国々がことごとくプロテスタント諸国であることに気づかされます。


■ハイブランドがカトリック国で生まれやすい理由


この傾向は各国が強みとするビジネスの類型にも関わっています。たとえばトップクラスのラグジュアリーブランドの多くはフランスやイタリアといったカトリック国で発祥していますが、これはホフステードが指摘する「権力格差の高い国」に見られる傾向、すなわち「特権やステータスシンボルが身分や経済力を示すシンボルとして社会で機能する」という点とよく符合します。


逆に、ロックミュージックなど、若者を対象にした文化産業やコンピューター産業など、自由でフラットであることに大きな価値観をおく産業で存在感を放つ国の多くがプロテスタント諸国であることにも気がつくでしょう。


そもそもプロテスタントの語源となった「プロテスト」は、本来「反抗する」という意味です。では、誰に「反抗する」のか? 宗教改革の当時、世界で最も大きな権威を持っていたローマ・カトリック教会の首長であるローマ教皇です。


この運動の口火を切ったのはドイツの神学者、マルティン・ルターですが、彼のしたためた、いわゆる「箇条の質問」は、それ自体がローマ教皇に向けての、言うなれば「シャウト」だったわけで、あらためてすごいことをやったものだと思います。


■権力格差が小さい国ほど国際競争力が高い


国民性というものが宗教だけによって決まるとは考えられませんが、プロテスタントの影響の強い国々では全般に権力格差が小さい、つまり「権威に対して反抗的である人が多い」のは、プロテスタントの出自とその後に歩んできた歴史を踏まえれば腑に落ちます。


そして、さらに興味深いのは、この権力格差のスコアと、国別の国際競争力ランキングには一定の相関が見られるということです。


図表2は、縦軸に国別の国際競争力ランキングを、横軸に権力格差指標をとって国別のデータをプロットしたものです。一覧しておわかりいただけるように、グラフ全体に左上=権力格差が小さく、国際競争力ランキングは上位の国々から、右下=権力格差が大きく、国際競争力ランキングは下位の国々へと広がる傾向が見て取れます。


出所=『クリティカル・ビジネス・パラダイム

■「反抗は社会資源である」ことを忘れてはならない


デンマーク、スイス、オランダ、フィンランド、スウェーデン、ノルウェーといった国々は世界で最も権力格差の小さい国ですが、これらの国はことごとく国際競争力ランキングでも上位のポジションにある一方で、権力格差の高い国々が、全般に国際競争力で劣っている様相が見て取れます。


国際競争力ランキングは、経済力・政府の効率性・教育水準・インフラの整備状況等、様々な社会的指標の組み合わせで決まっており、その評価手法には、評価する主体の恣意的価値観が大きく反映されています。したがって、このランキングにおいて上位にあることが、万人にとって望ましい社会であることを意味すると断定するつもりはありません。


しかし、この指標が、現時点で考えられる「民主化・文明化の進んだ社会のあり方」についての一定の基準となり得ると考えるのであれば、このデータは、クリティカルであること、既存の権威やシステムに対して反抗的であることが、いかに社会の開発・発展にとって重要な要件であるかということを示唆しています。


批判的であること、反抗的であることを止めてしまった社会は停滞してしまう。もし、そうなのだとすれば、私たちにはあらためて「反抗は社会資源である」という命題を肝に銘じて、自らの態度や価値観を改めていくことが求められます。


■人類史上最も読まれた聖書と『共産党宣言』の共通点


批判的・反抗的であるということはまた、人を惹きつける要素ともなります。歴史的に大きな運動を生み出すことになったテキストの多くは、目の前に繰り広げられる光景に対する批判をテキストの主軸にしており、批判を乗り越えた先に実現すべきビジョンについては、あまり具体的なことを示していないということも、私たちはすでに知っています。


人類の歴史において、最も大きな運動を引き起こすことに成功したテキストといえば、何といってもキリスト教における聖書とマルクスによる著作、なかでも『共産党宣言』ということになりますが、両者には共通項があります。それは「運動の結果として最終的にやってくるのがどのような世界なのか? についてははっきり描写されていない」ということです。


写真=iStock.com/Daniel Tadevosyan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Daniel Tadevosyan

新約聖書においては、しばしば最後の審判を経てやってくる「神の国」についての言及がありますが、具体的にそれがどのような場所なのかについての説明はありません。ルカ福音書において、イエス自身は「神の国は、見える形では来ない」とした上で「神の国はあなたがたの間にあるものだ」と、今日で言うところの社会構成主義を先駆けるような表現で説明していますが、具体的なイメージが湧く記述ではありません。


■敵と戦うよりも、味方を受け入れるほうが難しい


これは『共産党宣言』においても同様に指摘できる傾向です。『共産党宣言』では、現状の社会に対する分析と既存の社会主義への批判があったのち、ある種、唐突に「万国の労働者よ、団結せよ」という宣言で閉じられており、団結してどんな社会を作るべきなのか? は具体的には示されていません。


マルクス自身は、『ドイツ・イデオロギー』の中で「共産主義とは未来にある何かではなく、現状を止揚する現実の運動だ」と言っていますが、この言葉にも先ほどのイエスの言葉と同様の印象を受けます。


しかし、逆にいえば、だからこそこれらのテキストは大きな運動を作ることができたのだ、と考えるべきなのかもしれません。最終的にやってくる世界がどのような世界なのか、そのビジョンの細部が明確になればなるほど、個々人が自分で考える理想的な社会のイメージとの違いもまた明確に意識化されることになります。この「細部の違い」は集団の求心力を弱め、社会運動の推進力を大きく減損させる原因にもなり得ます。


アリストテレス以来、多くの思想家や心理学者が鋭く指摘した通り、私たちは「敵との大きな差異には我慢ができるものの、味方との小さな差異には我慢がならない」からです。これは運動のモーメンタムについて考えたとき、憂慮しなければならないポイントです。


■なぜアップルのCMは「世界最高のCM」と言われたか


私たちは「強い肯定」よりも「強い否定」にこそ惹きつけられているのかもしれません。


確かに、これまで大きなインパクトを伴って世に登場してきたブランドや企業の多くは、「何かを強く肯定する」よりも、むしろ「何かを強く否定する」ことによって、そのブランドや企業のアイデンティティを鮮烈に社会に示してきた、という印象があります。


この論点について検討するために、広告関係者の多くが「史上最高のCM」と激賞して止まないアップルの初代マッキントッシュのCMを取り上げて考察してみましょう。


アップルが最初に制作した伝説のCM「1984」では、ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984』にインスパイアされたと思しき全体主義的なセレモニーを、乱入したハンマー投げの女性アスリートが破壊するというシーンが描かれたのち、最後に次のようなテロップが流れます。


On January 24th, Apple Computer will introduce Macintosh.
And you’ll see why 1984 won’t be like “1984”.


1月24日、アップルコンピューターはマッキントッシュを新発売します。
そしてあなたは、なぜ1984年が、あの“1984”のようにならないか、わかるでしょう。


■「全面的な否定」に徹底してフォーカスしている


アップルは当時、創業8年目のベンチャー企業でした。そのようなベンチャー企業が、社運をかけて開発したパーソナルコンピューターの新発売を告知するためのCMなのに、機能や性能の説明はおろか、商品カットさえ映っていないのです。


写真=iStock.com/Ekaterina79
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Ekaterina79

このCMでは


●マッキントッシュにどれだけ便利な機能が備わっているのか?
●マッキントッシュによってユーザーの能力はどのように拡張されるのか?
●マッキントッシュによってどのような社会がやってくるか?


といった点には、全く触れられていません。描かれているのはただ一つ、


●マッキントッシュによってどのような社会がやってこないか?


ということだけです。


CMの最後に流れるキャプションの最後の一行が、ビジョンを語る際にいつも用いられる「will be=になる」という肯定形ではなく、「won’t be=にならない」という否定形で閉じられているところに注意してください。


要するにこのCMは「我々の敵は誰か? 我々は何と戦うか」という一種のマニフェストであり、一言でいえば「宣戦布告」なのです。世界中の広告関係者が「史上最高のCM」と激賞するCMの内容が、実は何も肯定しておらず、逆に「全面的な否定」しか描いていない、ということは非常に示唆深いと思います。


■「神でないものは何か」回りくどい問いが有効な理由


このアプローチはキリスト教神学における否定神学のアプローチを思い起こさせます。否定神学では、神に関する知識や理解を「神とは何か?」という論点に基づく考察ではなく、「神とは何でないか?」という論点に基づく考察を通じて把握しようとします。



、山口周『クリティカル・ビジネス・パラダイム 社会運動とビジネスの交わるところ』(プレジデント社)

なぜ、このようなアプローチを取るのでしょう。神は人間の理解や能力を超えた存在であるため、神の全的な資質や能力を人間が把握し、記述することはそもそも不可能だ、というのが否定神学の前提となっています。つまり、全世界から「神でないもの」を削り取るための「意味の接線」を無数に引くことによって不可知な神の輪郭を彫琢する、というのが否定神学のアプローチなのです。


同様のアプローチが、社会構想においても有効なのかもしれません。


かつてトマス・モアを嚆矢として、ウィリアム・モリスや多くの論者によって「理想的な社会とはどのような社会か?」という問いに対する回答として、様々なユートピアのモデルが提案されたわけですが、これらの提案は今日、ほとんどかえりみられなくなってしまいました。


■社会を変えるのは「否定神学的な問い」かもしれない


一方で、ユートピア小説とは真逆の「理想的でない社とはどのような社会か」を描いたファンタジーであるディストピア小説の多くが、先述したジョージ・オーウェルの『1984』をはじめ、今日の社会においてもしばしば言及されていることを考えれば、私たちはアプローチを逆転させるべきなのかもしれません。


多くの人を参加させながら、参加した各人の持つ理想社会のイメージを多様に織り込んだしなやかで瑞々しい社会改革運動がもし可能であるのであれば、その運動は「理想社会とはどのような社会であるか?」という問いよりも、むしろ「理想社会とはどのような社会ではないのか」という否定神学的な問いによってこそ駆動されるのかもしれません。


もし、そうなのだとすれば、私たちにとって、現状の社会の有り様を批判的に眼差す「クリティカルな態度」こそが社会運動・社会構想に必要なものだということになります。


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山口 周(やまぐち・しゅう)
独立研究者・著述家/パブリックスピーカー
1970年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修了。電通、ボストン・コンサルティング・グループ等を経て現在は独立研究者・著述家・パブリックスピーカーとして活動。神奈川県葉山町在住。著書に『ニュータイプの時代』など多数。
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(独立研究者・著述家/パブリックスピーカー 山口 周)

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