1889年に高さ300mで世界一に…エッフェル塔を実現した「錬鉄」と「水圧式エレベーター」という最先端技術

2024年5月21日(火)7時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Mlenny

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フランス・パリのエッフェル塔(高さ300m)は、1889年の完成時、世界一高い建造物だった。人類が見たことのない高層建築を、どうやって実現したのか。国士舘大学名誉教授・国広ジョージさんの著書『教養としての西洋建築』(祥伝社)から紹介する——。
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■パリのシンボルになった鉄塔


工業化による大量生産へのアンチテーゼとしてモリスがアーツ・アンド・クラフツ運動に乗り出した頃、イギリスで始まった産業革命は次のステップに進んでいました。


18世紀後半の産業革命による経済発展は、多くの植民地を持つイギリスの「ひとり勝ち」状態でしたが、1860年代の後半になると、フランス、ドイツ、そして米国の工業力が向上。その頃から第一次世界大戦前までの期間は、「第二次産業革命」の時代と呼ばれます。鉄鋼業をはじめとする重化学工業で技術革新が進み、鉄道や蒸気船などの交通手段も発達しました。


西洋建築史の観点からすると、ここで初めて「米国」という非ヨーロッパの地域が表舞台に出てくるのが、この時期の大きな特徴です。これ以降の西洋建築史は米国を抜きには語れません。


しかし米国の話は後回しにして、まずはフランスに目を向けましょう。フランス革命100周年を記念して1889年に開催されたパリ万博のために、画期的な建造物がつくられました。いうまでもなく、いまやパリのシンボルとなったエッフェル塔です。


■300mのエッフェル塔を可能にした技術革新


それまで世界一高い建築物は、1884年に建てられた米国のワシントン記念塔(169メートル)でした。エッフェル塔はそれを100メートル以上も上回る300メートル。


コンペでは満場一致で選ばれ、講評では「金属産業の独創的傑作として出現しなければならない」というコメントが添えられました。まさに第二次産業革命を象徴する建築物であり、建築工学の面でも大きな前進といえます。


エッフェル塔は、「錬鉄(れんてつ)」と呼ばれる素材でつくられました。鉄は18世紀の第一次産業革命から大量生産ができるようになりましたが、当初は脆(もろ)い「鋳鉄(ちゅうてつ)」だったので、塔のような構造物には使えません。


頑丈な素材にするには、鉄に含まれる炭素を減らす必要があります。第二次産業革命では、その技術が発達しました。それによって錬鉄の大量生産が可能になり、鉄橋、ビルの鉄骨、鉄道のレールなどがつくれるようになります。


その後、より強靱な「鋼鉄(スチール)」の大量生産ができるようになり、錬鉄の時代は終わりましたが、その錬鉄時代を代表する建築物がエッフェル塔というわけです。


■建築の「用」を支えたエレベーター


また、300メートルもの塔を建てるには、それとは別の技術革新も必要でした。「エレベーター」です。これがなければよほど体力と根性のある人しか上まで行けず、建築に欠かせない「用・強・美」の「用」が成り立ちません。


ロープや滑車を使う人力エレベーターは、ギリシャ・ローマ時代から使われていました。19世紀初頭には、水圧を利用するエレベーターが登場します。エッフェル塔で採用されたのは、この水圧式エレベーターです。


しかし1853年のニューヨーク万博では、蒸気式エレベーターが発表されていました。その後も技術革新は続き、パリ万博と同じ1889年には米国のオーチス社が電動式エレベーターを開発。ニューヨークのビルに世界で初めて採用されています。


エッフェル塔に設置されたエレベーター(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

頑丈な素材やエレベーターのおかげで高い塔の建設が可能になったわけですが、当時の人々にとって地上300メートルという高さは恐怖心を抱かせるものだったでしょう。


■倒れるかもしれないと不安視されていた…


そのため、これを設計した土木技師ギュスターヴ・エッフェル(1832〜1923)はパリ万博が開催されているあいだ、ずっとエッフェル塔の最上階に設(しつら)えた事務所にいました。


設計した土木技師のギュスターヴ・エッフェル(写真=ナダール/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「これは絶対に倒れないから自分は安心してここにいるんだ」というメッセージを発したわけです。いまでもそこにはエッフェルの蝋(ろう)人形が置かれているので、ご覧になったことのある人も多いでしょう。


また、このパリ万博では、エッフェル塔のほかにもうひとつ、驚くべき構造の巨大建築物がつくられました。サイズは、高さ45メートル、長さ400メートル、幅115メートルの丸天井の広大な空間を柱なしでつくった「機械館(ラ・ギャレリー・デ・マシーン)」です。


設計はこの巨大な鉄とガラスの建築を実現し有名になったフェルディナン・デュテール(1845〜1906)です。


アーチが自立型なので柱なしで天井を支えられるわけですが、幅115メートルの両端から伸びる鉄骨を崩れないように真ん中で組むのは容易ではありません。専門的な説明は省きますが、荷重を分散させるためにさまざまな新しい工法が開発されました。


■パリ万博で紹介された「アメリカ」


ところで、このパリ万博のアメリカ館では、バッファロー・ビル一座による「ワイルド・ウェスト・ショー」が上演されました。


バッファロー・ビル(本名ウィリアム・フレデリック・コーディ)は、実際に騎兵隊斥候(せっこう)などもやったことのあるアメリカ西部の開拓者です。1883年から、カウボーイの曲馬(きょくば)やロデオ、当時はインディアンと呼ばれたアメリカ先住民と騎兵隊の戦いなどを見せる一座の座長として人気を博していました。


そこで上演されたのは決して「昔話」ではありません。白人入植者と先住民の戦いは1890年頃まで続いたので、1889年のパリ万博の時点では「いまのアメリカ」です。


現在は「先住民の土地を無理やり奪った白人はひどい」と思う人のほうが多いでしょうが、当時は「インディアン」をやっつける白人がヒーロー扱いされていました(僕の子ども時代でも米国のテレビでは西部劇が大人気でした)。


このパリ万博では、アフリカの先住民の暮らしぶりを見世物にする悪名高き「人間動物園」も設置されていましたから、当時の人種差別は現在とは比較にならないほどひどいものだったわけです。


ともあれ、19世紀後半の米国はまだそんな西部開拓時代でした。13歳で家族といっしょに渡米した僕が大学卒業まで過ごしたカリフォルニアが開拓されたのも、その頃です。


気球から見たフランス、パリの空撮(写真=Alphonse Liébert/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

■ゴールドラッシュによるサンフランシスコの発展


ゴールドラッシュ(1848〜1855)の前までのカリフォルニアは、荒れ果てた無法地帯でした。サンフランシスコの人口は、1846年の時点で200人程度。しかしゴールドラッシュによって「憧れの地」となり、1869年には最初のアメリカ大陸横断鉄道が開通したこともあって、1870年の時点ではそれが15万人にまで増えました。


人口が急増すれば、都市計画も進みます。ゴールドラッシュ前は東側のダウンタウンにしか人が住んでいませんでしたが、1860年代には市街地が西へ拡大。そこで、人々が集う大規模な公園として1871年につくられたのが、ゴールデン・ゲート・パークです。


当初、この公園の設計はニューヨークのセントラル・パークを手がけたフレデリック・ロー・オルムステッドに依頼されました。


公園の予定地は、太平洋沿岸のビーチフロントから市街地方向へのびる長方形の敷地で砂丘のような荒れ地。木を生い茂らせるのも大変だという環境でした。


そこで、オルムステッドは、カリフォルニアの土着植物を主体としたデザインを提案しましたが、市議会では反対の意見が過半数を超え、結局提案は却下されてしまいます。


代わって、登場したのが土木技師のウィリアム・ハモンド・ホールでした。彼が頑張って完成させたのが、セントラル・パークと同じような立派な公園でした。


当時、サンフランシスコは新興都市だったので、地元の人々は、やはり大都市ニューヨークに憧れていたのでしょう。この公園には僕もよく足を運んで、野生ウサギと遊んだりした記憶があります。


■ヴィクトリア様式の木造建築が生み出す街並み


そのゴールデン・ゲート・パークを中心に、サンフランシスコの街は碁盤の目状に区画整理され、住宅地として分譲されました。そこに建ち並んだのは、「ヴィクトリア様式」と呼ばれる木造住宅です。



国広ジョージ『教養としての西洋建築』(祥伝社)

ヴィクトリア女王(在位1837〜1901)統治下のイギリスで流行した建物や家具のデザインの様式をいうのですが、サンフランシスコは、アメリカの都市として最初にこのヴィクトリア様式の住宅を取り入れました。


1850年から1900年まで合計4万戸あまりの住宅が建てられました。地元の建築史家の研究によると、このヴィクトリア様式も総括的な呼び名で、細かく分類すると、イタリア調、クイーン・アン調、ゴシック・リバイバル調、リチャードソン調など、分類自体も建築史ファンには興味深い名称となっています。


これらの建築は、もちろん当時の地元建築家たちの設計によるものもありましたが、ほとんどが、工務店やデベロッパーが、「パターン・ブック」と呼ばれる建築のスタイルブックをもとに建てられました。


■1000万円程度だった住宅が、いまや8億円に…


色彩もバラエティーに富んでいて、現在のサンフランシスコにはこれら築120年以上(最古は築170年)の住宅が残されており、とても文化性の高い豊かな街並みを形成しています。やはり新興国の米国には、ヨーロッパの歴史や文化に対する憧れや敬意があったからでしょう。


ヴィクトリア様式の住宅は、リノベーションされていまでもサンフランシスコにたくさん残っています。余談ですが、僕が20代の頃、老朽化し放置されていたようなヴィクトリア様式の住宅を安く買った事務所の同僚がいました。


当時の買値は、日本円にすると1000万円程度だったでしょうか。それが現在は、8億円ぐらいになっています。僕も買っておけばよかった……と悔やんでも、もう遅い。


シリコンバレーというIT産業の一大拠点を持つサンフランシスコは、お金持ちにしか住めない街になってしまいました。


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国広 ジョージ(くにひろ・じょーじ)
建築家、国士舘大学名誉教授
1951年東京生まれの日系三世。三菱財閥本家で創設者岩崎彌太郎の玄孫。カリフォルニア大学バークレー校卒業。ハーバード大学Graduate School of Design修了。その後、サンフランシスコ、ロサンゼルスの設計事務所で修行した後、1982年にロサンゼルスにて、George Kunihiro Architectを設立。1998年に国士舘大学工学部助教授、2003年同教授、22年名誉教授に。2023年には、建築界の最上部組織てある国際建築家連合(UIA)においてアジア地区を代表する評議員に選出される。任期は2026年まで。京都美術工芸大学客員教授、清華大学客員教授(北京)、一級建築士事務所ティーライフ環境ラボ取締役会長、アメリカ建築家協会フェロー(FAIA)、日本建築家協会フェロー(FJIA)、国際建築家連合(UIA)評議員。専門は建築意匠論、アジアにおける近代文化遺産および現代建築の研究。近年の研究は「過疎化とコミュニティ再生」、「廃棄物0有機資源化」など。著書に『教養としての西洋建築』(祥伝社)がある。
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(建築家、国士舘大学名誉教授 国広 ジョージ)

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