日本製鉄によるUSスチール買収を阻止した米国 「安保上も有益」であるはずのM&Aがかなわなかった真の理由とは?
2025年5月22日(木)4時0分 JBpress
トランプ政権の不透明な関税策、ロシアによるウクライナ侵攻、米国による対中半導体規制、台湾有事リスク、欧州の気候変動規制──。地政学・経済安全保障に関するリスクが拡大・深刻化する中、企業の事業活動が危ぶまれるケースが年々増えている。こうしたリスクによるビジネスへの悪影響を最小限に抑えるべく、企業はどのように向き合い、備えるべきか。本稿では『ビジネスと地政学・経済安全保障』(羽生田慶介著/日経BP)から内容の一部を抜粋・再編集。国家間の政治力がぶつかり合う現代の国際経済社会において、ビジネスパーソンが押さえておくべき地政学・経済安全保障リスクと対応策を考える。
2025年1月、米大統領令によって禁じられた日本製鉄のUSスチール買収。対米外国投資委員会(CFIUS)でも意見が割れたという本件の背景にあった、米政府の狙いとは?
※本記事は、2025年1月時点の情報に基づいています。
10大リスク_M&Aの阻害
安全保障を理由にしたM&A不承認
クロスボーダーの企業買収(M&A)では、関係する国の当局による独占禁止法上の審査・承認が大きな課題だ。近年では、これに加えて安全保障上の理由から、当局の承認が得られない事例や、審査長期化により企業側が断念する事例が増えている。
日本では、2019年の外為法改正により、「国の安全等を損なうおそれがある投資に適切に対応していく」ため、外国投資家による「指定業種」に属する上場会社について株式取得時の事前届け出の対象が、従来の10%から1%に引き下げられた。
また、役員就任や「指定業種」事業の譲渡・廃止を株主総会に提案するなど、外国投資家による経営に影響を及ぼす行為についても事前届け出の対象とされた。加えて、安全保障の観点から、サイバーセキュリティーに関連する情報処理・情報サービス業種が「指定業種」に追加された。
「指定業種」とは、「国の安全を損ない、公の秩序の維持を妨げ、又は公衆の安全の保護に支障を来すことになるおそれがある対内直接投資等に係る業種」などで、インフラ関連に加え、「半導体製造装置等の製造業」や「工作機械・産業用ロボット製造業等」などが指定されている。
財務省の「本邦上場会社の外為法における対内直接投資等事前届け出該当性リスト」には約2000社が「指定業種」の事業を営む企業として掲載されている。最近では、セブン&アイ・ホールディングスが「指定業種」に該当していることが、同社に対するカナダのコンビニエンスストア大手アリマンタシォン・クシュタールによる買収提案の際に話題となった。
米国では、第1期トランプ政権下で対米外国投資委員会(CFIUS)が、安全保障上の理由から、外国企業による米企業の買収を阻止する例がみられたが、いずれも中国に対する警戒感に根差すものだった(図表5・4)。
2017年のキャニオン・ブリッジ・キャピタル・パートナーズによる米半導体メーカー、ラティス・セミコンダクターの買収は、キャニオン・ブリッジと中国政府の関係が安全保障上のリスクをもたらすと判断され、大統領令によって禁じられた。また、2018年のシンガポール半導体大手ブロードコムによる米半導体メーカー、クアルコムの買収も禁じられた。
これは、ブロードコムがクアルコムを買収すると、米国の5G技術の研究開発に支障が生じ、競合するファーウェイなどの中国企業が技術的優位に立ち、米国の安全保障に重大なリスクをもたらすとCFIUSが判断したためだった。
2020年には、中国企業に対して過去に買収した米企業の売却を命じる大統領令が発せられた。中国の情報システム企業、北京中長石基信息技術は2018年に同業の米ステインタッチを買収したが、中国企業がステインタッチの保有する顧客データや個人情報にアクセスできることは安全保障上のリスクであるとして、トランプ大統領は北京中長石基信息技術にステインタッチを120日以内に売却するよう命じた。
その後、ステインタッチは米ホテル運営大手MCRデベロップメントに売却された。
こうした動きは米国に限ったことではない。2024年6月には、オーストラリア財務省が中国系投資ファンドなどに対し、レアアース開発会社ノーザン・ミネラルズの株式を60日以内に売却するよう命じている。
同命令は、この措置は外国投資審査委員会(FIRB)の勧告に基づく国益保護のためのものだと述べている。買収側に中国系企業・投資家がいる場合は、米国に限らず、当局の許可が得られないリスクに注意が必要だ。
中国当局の対応が、米企業による外国企業買収を断念させた例もある。2016年にクアルコムは蘭NXPセミコンダクターズの買収計画を発表したが、中国当局の承認が得られず、これを断念した。また、米アプライドマテリアルズによる半導体製造装置メーカー、KOKUSAI ELECTRICの買収も、期限までに中国当局の承認を得られなかったことから、断念に至った。
インテルがイスラエルの半導体受託製造会社タワーセミコンダクターの買収を断念したのも、中国当局の承認が得られなかったためだと報じられている。いずれも、ハードルとなったのは中国の独禁当局による審査長期化だったが、その背景には米中対立があったとみられている。
■ 米当局が承認しない意外な理由
これらの例は、いずれも半導体関連技術や個人情報といった安全保障と密接に関係する領域で生じたものだが、一見、安全保障とは関係しそうもない企業買収が禁じられた例もある。
日本の建築材料・住宅設備機器メーカー、LIXILは、2017年8月に伊建築事業子会社を同業の中国・廣田控股集團に譲渡することを決定した。しかし、CFIUSがこれを承認せず、2018年11月に譲渡契約解除を発表した。安全保障の観点から審査するCFIUSが建材・建築事業を営む企業の中国企業による買収をなぜ阻止したのか、具体的な理由は明らかにされていない。
被買収企業がアップル本社や米政府関連施設の建物の内外装を手掛けているため、同社が施工する建物の設計情報の流出や、盗聴設備が仕掛けられて重要情報が中国企業の手に渡ることを懸念したのではないかと推測されている。
日本製鉄によるUSスチールの買収を米国が禁じたことは、日米両国だけでなく、世界の注目を集めた。同盟国・日本の企業によるこの買収提案は、米鉄鋼業の技術力・競争力の向上につながるため、米国の安全保障上も有益だと評価され、被買収側の経営陣や株主、多くの従業員も支持していた。
しかし、米大統領選で激戦州での労働組合票の行方が重要となる中で、全米鉄鋼労働組合(USW)がこの買収に反対したため、共和党のトランプ候補(当時)は買収阻止の姿勢を明らかにし、バイデン政権も慎重な対応をとっていた。
そのため、選挙が終われば、政治的な配慮が不要となり、米政府も本件を承認するだろうとの期待があった。しかし、2025年1月にバイデン大統領(当時)は、日本製鉄によるUSスチールの買収を禁じ、両社が買収に関連する取引を「完全かつ永久に」断念するのに必要な措置をとるよう命じた。
本件は、国家安全保障の観点から、CFIUSが審査していた。米議会からは、日本製鉄と中国政府との関係に関する誤った情報に基づく懸念が示されたこともあったが、バイデン大統領は禁止命令でこの点を問題視していない。問題とされたのは、国家の根幹に関わる鉄鋼の国内生産が、外国企業の管理下に置かれることは国家安全保障を脅かすということだった。
この決定に対しては、米国内からも強い反発があった。バイデン大統領の決定は、外国企業による対米投資をためらわせ、むしろ米製造業と米国の国家安全保障を脅かす、同盟国・日本との関係を損なうという声が上がった。
石破茂首相も、なぜ安全保障上の懸念があるのかの説明を米側に求め、バイデン大統領に直接「日本のみならず、米国の経済界からも強い懸念の声が上がっている。懸念の払拭を強く求める」と伝えた。報道によれば、CFIUSの審査でも意見が割れ、判断は大統領に委ねられた。
大統領の命令で米企業の買収が阻止された案件で、買収企業が中国資本でないのは、ブロードコムによるクアルコム買収と本件だけだが、前述のように、ブロードコムのケースは背景に中国企業との技術競争があり、CFIUSが買収阻止を大統領に勧告していた。今回のケースは、中国と無関係であり、大統領が自ら判断したという点で、極めて異例だ。
このように、安全保障上問題ないと思われる案件でも、米当局が懸念を示したり、政治的要因に左右されたりすることがある。中国企業が関係する場合は特に注意が必要だが、自国優先・保護主義的政策が広がりを見せる中では、同志国間の投資案件でも油断できない。
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筆者:羽生田 慶介