フランスでもトルコでも日本でもない…世界中を旅した作家が「世界一うまいパン」と出会った意外な国
2024年12月26日(木)17時15分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Stieglitz
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■パンの消費量世界一・トルコのパンの味わい
パンの消費量世界一はトルコ。そう聞くとちょっと意外な気もするが、一番食べていそうなフランスと比べてもその差は歴然としており、一人あたりの消費量がトルコはフランスのなんと3倍近くあるそうだ。おまけに味もいいらしい。そう書かれた本を読んでからというもの、旅に出る前からトルコを訪れるのが楽しみだった。
「パンがうまい国」というのは、それだけで何か心躍るものがある。『アルプスの少女ハイジ』の世界に憧れたのは、あのアニメのパンの描写によるところも大きいのだ。少なくとも僕の中では。
そうして日本を出て6年目の秋、ヨーロッパを走り抜け、ついにトルコに入った。何もない荒野をしばらく走り、現れた小さな町に入っていくと、パン屋はすぐに見つかった。
町工場のような建物だ。近づいていくと甘い香りがした。店に入ると、バゲットをずんぐりむっくりにしたようなパンが並んでいる。値段は100トルコリラ(約17円)。この国ではパンのことを「エキメッキ」と呼ぶ。おもしろい響きだ。
おじさんに100トルコリラを渡し、エキメッキを受け取った。店の外に出てかぶりつくと皮がパリッと砕け、香ばしさがぶわっと広がった。味もバゲットに似ているが、胴が太い分、中はふわふわで、口当たりがしっとりしている。たしかにうまい。僕は鼻の穴を広げ、再び自転車にまたがり、町を出た。船上から見る大海原のように、茶色い大地がゆっくり流れていく。
■現地の鯖サンドの秘密
昼、大きめの町の食堂に入り、客たちが食べているトマトの煮込み料理を指して注文した。テーブルには半透明のプラスチック容器があり、一口大にカットされたパンがぎゅうぎゅう詰めに入っている。もしかして、とまわりを見ると、客たちは自由にパンをとって食べているのだ。やっぱりそうだ。パンはサービス、つまり食べ放題なのだ。
ぬは、ぬはははは。「パラダイスや……」一人興奮し、料理が運ばれてくると、煮込み料理の汁にパンをつけながら延々と食べ続け、なくなるとお代わりをもらった。
3日後、ヨーロッパの終点イスタンブールに着いた。目の前のボスポラス海峡を渡ると、アジアだ。ここでしばらく休養することにした。迷路のような下町をぶらついたり、街の人とだべったり、惰眠を貪ったりと、2週間ほどのんびりしたあと、町を出る前に一応やっておこうか、と観光もしてまわった。
ガラタ橋に行くと、船着き場に人だかりができ、みんなパンにかぶりついていた。係留された船から煙が上がり、甲板の上で魚の切り身が焼かれている。あぁ、これが有名な鯖サンドか。日本円で1個約130円。手渡されたパンを開けると、鯖の半身がでんとのっているだけだ。なんて武骨な。トッピングのトマトや玉ねぎを自分でのせ、かぶりつく。香ばしいパンがコクのある鯖を布団のように包み込んでいる。
鯖サンド(写真=Tomoaki INABA/CC BY-SA 2.0/flickr)
■パンがうまいからトルコがいい国になる
あれ? 想像と違うな。味のバランスがいい。なるほど、パンのうま味が濃いから鯖と調和するんだ。頭上のガラタ橋を見上げた。欄干から夥しい数の釣り竿が飛び出している。そっちに向かって階段を上っていく。橋の上に出ると、小鯵が次々に上がってキラキラ舞っていた。
欄干から飛び出した無数の釣竿が逆光に浮かび、櫛の歯のようなシルエットになっている。その竿の並びの向こうに、イスタンブールの旧市街が広がっていた。丘の上から海まで白い家がびっしりと斜面を覆っている。小山のような巨大なモスク(イスラム教の礼拝堂)からは、鉛筆に似た細長い塔が何本もシュッ、シュッ、と空を切るように立っていた。
太陽が西に傾き、丘を埋め尽くす白い家たちがオレンジ色に輝き始めた。一人のおじさんが鯖サンドを二つ持って橋の上にやってきて、釣りをしているおじさんに一つ渡し、並んで食べ始めた。海の香りにパンの芳香が混じる。カモメのキュウキュウという声が聞こえる。
筆者撮影
トルコ、イスタンブールのガラタ橋に集う釣り人たち - 筆者撮影
やっぱりパンの力は大きいな、としみじみ感じていた。パンがうまいという、ただそれだけのことでこんなに朗らかな気持ちになるのだから。
考えてみると、同じ主食でもご飯や麺だとこうはいかない気がする。焼きたての甘い香りと白い湯気、食事ごとに口にするそのパンを思うたびに平和な空気に包まれる。トルコの印象が特別いいのは、このパンに負うところも大きいように思えてならないのだ。
■ちっちゃなチョコ片だからいい
ただ、僕の中で一番はトルコのパンではない。比べるのはナンセンスで、不毛で、くだらないうえに、多様性の時代にけしからん、というお叱りを甘んじて受けつつ、それでもあえて個人的一番のパンを挙げるなら、モロッコのバゲットだ。
この国もフランスの保護領だったせいか、クロワッサンやパン・オ・ショコラがパン屋だけでなく、普通の商店にも並ぶぐらい生活に深く溶け込んでいた。パン・オ・ショコラは四角いデニッシュ生地のパンに、チョコの筋が二本入った、日本では「チョコデニッシュ」などと呼ばれているあれだ。フランスでも非常に人気がある。このパンが好きでモロッコでも毎朝のように食べていた。
ただモロッコのそれはかぶりついてもチョコが出ない。はずれを引いたかな、と思いながらかじっていくと、ようやく黒い欠片に行き当たる。チョコの筋というよりチョコチップだ。1個10円から20円という値段を考えると妥当かもしれないが、少々寂しい。
しかし、雑貨や衣類がゴチャゴチャと積まれた商店街の小路や、そこを行き交う民族衣装姿の人々を眺めながら、いかにも庶民的なパン・オ・ショコラを食べていると、ちっちゃなチョコ片がいじらしく感じられ、チョコのありがたみがいや増してくる。結果、モロッコのパン・オ・ショコラは記憶に刻まれる。
■バゲットなのにホットケーキの味わい
旅先で食べたものの印象は、街の空気も大きく関わっている。そんなモロッコで食べていたバゲットが、ときに「頬が落ちるとはこのことか!」と膝を叩きたくなるくらいうまかったのだ。
パン・オ・ショコラ同様、パン屋だけでなく普通の商店でも売られているのだが、その本当のうまさを知ったのは入国から数日たったある日、小さな田舎町でのことだった。
露店市を歩いていると、自転車でパンを売り歩いているおじさんがいた。本場フランスのものよりかなり細めのバゲットが自転車のカゴにぎっしり突き刺さっていて、遠目だと巨大な歯ブラシみたいだ。バゲットからは湯気が出ていた。焼きたてのようだ。
一つください。指を一本立てて頼むと、おじさんは10センチ四方くらいの小さな紙片をバゲットに巻いて自転車のカゴから抜き取り、渡してくれる。一応衛生に気を配ってパンを直に触らないようにしているらしい。
僕もその紙片ごしにパンをつかむ。紙を通してパンの熱が伝わってくる。半分に折る。パリッと音が鳴って湯気が上がる。かぶりつくと表面はバリバリと音をたてるが、中はもっちり、噛んでいると小麦の濃厚な甘味が浮き上がってくる。
何かの味に似ているな、と思った。あ、そっか。バッグからバターと蜂蜜を取り出し、バゲットの断面に塗ってかぶりつく。やっぱりそうだ、ホットケーキに似ているんだ。食べているととまらなくなり、リスのように頬を膨らませながら、あっという間にバゲット1本を平らげた。
■なぜパンの幸福は特別なのか
たまらずおじさんに歩み寄り、照れ笑いしながらもう一度指を一本立てる。おじさんも笑いながらバゲットを渡してくれる。バターを塗って蜂蜜を垂らし、かぶりつく。バリッと音が鳴って皮が散る。甘味がもくもく膨らんでくる。ダメだ、やっぱりとまらねえ!
筆者撮影
モロッコのマシュハドにあるジャマエルフナ市場 - 筆者撮影
「アラーイラハーイラッラー」
石焼き芋の売り声のような「アザーン」が突然モスクから鳴り始めた。礼拝を呼びかける肉声の放送だ。入国して最初に聞いたときはあまりの大音量に肝をつぶしたが、そのうちアラブという異世界にいることを実感させてくれる心地よいBGMになった。
石田ゆうすけ『世界の果てまで行って喰う』(新潮社)
アザーンで現実世界に引き戻され、まわりを見渡した。頭からすっぽりかぶる民族衣装を着た人々が、露店市に積まれた野菜の中を行き交っている。地面に頭をついて礼拝している人たちがいる。家やモスクが夕日を浴びて、黄金色に染まっていた。
パン売りのおじさんは僕と目が合うと、はにかむように微笑んだ。僕も笑いながら再び温かいパンをかじる。香ばしさと甘味が口内に広がり、顔のしまりがなくなっていく。午後の光のような、あふれる恍惚……。
パンの幸福が特別なものに思えるのは、酒と同じように、その土地の水と大地の実り、そして文化が結実したものを、体に取り込んでいるからだ——。
異国情緒がとりわけ強かった国モロッコで、焼きたてのパンをかじりながら、はっきりとそう感じたのだった。
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石田 ゆうすけ(いしだ・ゆうすけ)
旅行作家
1969年、和歌山県白浜町生まれ。東京在住。高校時代から自転車旅行を始め、26歳から世界一周へ。無帰国で7年半かけ、約9万5000km、87カ国を走る。帰国後、専業作家に。自転車、旅行、アウトドア雑誌等への連載ならびに寄稿のほか、国内外での食べ歩きの経験を活かし、食の記事も多数手がける。世界一周の旅を綴った『行かずに死ねるか! 世界9万5000km自転車ひとり旅』(幻冬舎文庫)など著書多数。全国の学校や企業で「夢」や「多様性理解」をテーマに講演も行う。
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(旅行作家 石田 ゆうすけ)