Mr.マリックさん×LUNAさんが親子で『徹子の部屋』に出演。家族の仲を語る「やる気をなくした娘を変えた〈テレポーテーション〉」

2024年3月5日(火)11時0分 婦人公論.jp


超魔術師のMr.マリックさん(右)と、その娘でミュージシャンのLUNAさん(左)(撮影:木村直軌)

2024年3月5日放送の『徹子の部屋』にMr.マリックさんとLUNAさんが親子で出演。LUNAさんが子どもの頃、多忙だったMr.マリックさんとの関係や、現在の家族仲について語ります。仕事に夢中で子どもとの会話もなかった父。《普通》とは違う家庭環境のなか、次第に学校へ行かなくなった娘──。距離のあったマリックさん親子の関係は、LUNAさんが「やりたいことを見つけた」ときから、大きく変わってきたといいます。そんな2人が親子で対談した『婦人公論』2019年4月23日号の記事を配信します(構成=福永妙子 撮影=木村直軌)

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「マリックの娘」とからかわれた小学生時代


LUNA(以下「娘」) こんなふうにパパと話すようになるなんて、昔は考えられなかったよね。私が物心ついたときにはすでに、パパは〈超魔術師・Mr.マリック〉として大忙し。夜は私が寝たあとに帰ってくるし、たまに一緒に家にいることがあっても、仕事部屋にこもってたし。会話するヒマがなかったというか。

マリック(以下「父」) マジックの研究と練習に一所懸命だったんだよ。

娘 自分の家がよそとは違うと気づいたのは中学生のとき。友だちの家に泊まりに行くと、お父さんも一緒にごはん食べながら話をしてる。「えっ、お父さんとしゃべるんだ」「ギャグとか言い合うんだ」って、すごくショックだったのを覚えてる。

父 最近では、親子でテレビに出たり、こうして雑誌で話したりする機会も増えたけど、どう?

娘 今はどうってことないけど、10年くらい前、「マリックの娘」としてマスコミに取り上げられるようになったときは本当にイヤだった。

父 ヒップホップのシンガーソングライターとして活動しながら、僕の娘だっていうことは、長いあいだ隠していたんだよね。

娘 それなのに、ある音楽イベントで主催者が話題づくりのためか公表しちゃった。そうしたら取材が殺到。テレビ出演のオファーも来るようになって……。

友だちや歌の世界の先輩に相談したら、「おまえはおまえだし、いいじゃん」「それでヒップホップを広めていければいい。そういうことができる人はなかなかいないよ」と言われて、まあいいか、と。

父 僕はLUNAがテレビに出てるのを見るのは嬉しい。ああ、頑張ってるなあと思って。でも、LUNAは子どもの頃、僕の仕事の内容を、よくわかっていなかったよね。

娘 そもそも《超魔術》って何だろうって。マジシャンというと、ナポレオンズとか、演芸場のイメージだったし。テレビに出ているパパの姿はあえて見ないようにしていたので、学校でクラスメートに言われて知る、という感じ。

給食の時間になると、何人もが「昨日マリックがこうやってた」と、私の前でスプーンを曲げようとする。給食がある限り、スプーン曲げの話が続くのかとウンザリ。給食の時間が苦痛でいつも早食いしてた。(笑)

父 僕は僕で、親子の会話がないながらも、この子の関心を引くには、自分が仕事をしている世界を見せるしかないと思ってね。LUNAが好きな芸能人と仕事で一緒だったり、同じスタジオにいるときは、LUNAを呼んだりしたけど……。中学に上がったとたん、まったく興味を示さなくなった。風貌も「どうしたの」というくらいに変わって……。

娘 ヤマンバのメイクね。

父 あげく卒業まで1年という中学2年の終わりに、学校から「強制退学」の知らせがきた。

退学を告げられはじめて娘と向き合う


娘 小学校は地元の公立だったけど、中学は私立の女子校。そこで私は校則を破りまくってた。やたら規律が厳しいんだもの。授業を中断して、先生が生徒のカバンをあさって抜き打ちの持ち物検査。化粧ポーチとか、全部取られちゃう。そういうのに反抗したい気持ちもあって、学校に行かず、渋谷センター街にしょっちゅうたむろしてた。

父 ある日、「ご両親揃って来てください」と学校に呼び出された。タクシーの中でママから「退学になる」と聞かされ、どうしてそんなことにとびっくりしたよ。

学校では、先生方がずらり並んでいて。「事情を聞きたいので娘を呼んでください」「担任の先生とも話がしたい」と言っても聞き入れてもらえず、「決定したことですから」の一点張り。そうしてLUNAは、中学という義務教育の途中で放り出された。

娘 はじめてパパが学校に来たのがそのときだったんだよね。《Mr.マリック》のままの衣装で来たのには驚いたけど。

父 映画の『ランボー3』を観た直後だったからね。大事な人を救出するため、ひとり敵地に乗り込むランボーの心境そのままで、ならば僕の勝負服であるこの格好で行こうと。

娘 学校中がザワついてた。(笑)

父 その後、公立の中学に転校したけど、LUNAはまったくやる気をなくしていたね。

娘 今度は共学だったから男の子がいて、小学校時代みたいに「マリックの娘だよ」って、またからかわれた。そういうのが面倒くさいのもあって、仲良くなった女の子たちと公園にたまったりしてた。

父 中学を卒業しても、何をするでもなく、引きこもりというのか、ずっとうちにいる。

娘 お小遣い稼ぎにバイトはいろいろしたけどどれも長続きせず、そもそも高卒じゃないと雇えないと言われたり。

父 中卒だと働き口を見つけるのも難しい。親として、いちばんどうしていいかわからなかったのがこのときだった。毎日、ブラブラしているし、そのうち、同じように学校に行かない子が集まって、LUNAの部屋がたまり場のようになった。夜中の2時、3時まで騒いでいるし。

娘 何をするわけでもないんだけど。ヒップホップに興味を持ち始めてたから音楽を聴いたり、クラブにもよく出入りしてたよね。当時はヒップホップの英語の歌詞の意味はわからないんだけど、包み隠さず自分を出し、何かを発信しようというパッションみたいなものが、自分にはすごく伝わってきた。

父 今の状況を変えるためには、テレポーテーションさせるみたいに一気に環境を変えないとダメだと考えた。岐阜の実家にはおふくろが一人で住んでいるし、素朴な環境のなかで自分を見つめ直すのもいいかと思って、「行ってきたら」と言ったんだよね。そしたら、すごく泣いて。

娘 「だって、ヒップホップがない。無理〜!」(笑)

父 好きなことがあるならそれをやらせるのもいいかと、今度は関東圏にある全寮制の好きなことを1日中やってもよいという学校を見つけてきた。「ヒップホップをずっと聴いたり歌ったりできるよ」と勧めたけど、また「わぁ〜っ!」と泣く。

娘 「東京じゃない〜無理〜」(笑)

父 親としてはなすすべがなく、ほとほと困り果てた。このままずっと働かないで家にいさせていいのか。親に依存しているわけだし。そんなとき、たまたまいいボイストレーナーの先生との出会いがあって。

娘 その先生から、私の大好きなアーティストさんがニューヨークの「アポロ・シアター」で歌っていると聞いて、「自分もニューヨークに行きたい!」と。

父 はじめて娘が自分の意思で「こうしたい」と言った。今の環境から抜け出すチャンスだから、僕は「よし、行け!」と送り出したんだよ。


「今考えると、パパは人生のポイント、ポイントで私を導いてくれたんだね。父親と子どもの関係って、それだけでもいいんじゃないかな」(LUNAさん)

ニューヨークへ渡り大きな夢を見つけた


娘 ニューヨークに行ったのが19歳のとき。英語はまったく話せなかった。ハーレムにあるシェアハウスで3ヵ月を過ごすあいだ、アポロ・シアターの「アマチュアナイト」に出場したり……。

父 4位に入賞したんだよね。

娘 そう。でもそこではじめて、アジア人だという理由で人種差別を受けたり、貧困で苦しむスラム街から抜け出すために、自分よりもっとつらい環境で音楽を頑張ってる人たちを間近で見たり。とにかく人生観が変わるような貴重な経験をした。

父 たった一人で飛び込んでいったからね。好きなものを見つけたことから、すべてが始まっている。

娘 「マリックの娘」というのがなくなって、LUNAとしての自分を出せるのもすごくよかった。

父 帰国したとき、「どうだった?」と聞くと、それまでいつも目をそらしていた子が、僕の顔をまっすぐ見て、ニコッと笑いながら「面白かった」と。ああ、大人になって帰ってきたんだなと嬉しかった。

娘 自分のなかで何か芯が通ったというか。それまでは、この先どうしたらいいのかわからないという同じ悩みを抱える仲間とつるむことで、不安はいっとき解消されてた。

だけど、18、19歳となるにつれ、みんなが大学や就職と将来に向け進み出すなか、自分はまだ何も進んでいない不安を抱えて……。それが、音楽という大きな夢を見つけて変わった。

父 好きなことを見つけ、追求したいと思うと人間は変わるね。

娘 記憶に残る最初の音楽との出会いはというと、5歳くらいの頃、パパが素晴らしいから見なさいと買ってきてくれた、「We Are The World」のミュージック・ビデオね。

父 マイケル・ジャクソンやスティービー・ワンダーを真似て、歌ってたよ。

娘 ブラックミュージックやヒップホップへの興味も、元をたどればそこにあるのかも。

やりたいことをして笑い声が聞ければいい


父 ヒップホップのアーティストとして活動するうちに、僕の娘であることが知られるようになった。二世ということでテレビのオファーもくるようになって、フジテレビの『笑っていいとも!』に出演。

ところが、生放送が終わったあと、わんわん泣いて帰ってきたね。化粧もすっかりとれちゃってて。プロデューサーさんに、挨拶ができないことだとか、めちゃくちゃ怒られたって。

娘 いじめられたと思ってた。

父 よく知っているプロデューサーさんだから電話で聞いてみると、「この業界のことをキツく指導しておきました」と。あえて、ガツンとやってくれたのがよかった。テレビの世界は面白おかしくやっているように見えるけど、みんなで真剣につくっているということを伝えてくれた。

娘 そのおかげで、今ではパパのこともすごくよくわかるようになった。マジックと音楽は違うジャンルだけど、私もアルバムを制作したり、ライブのステージ演出も考える。エンターテイナーとして、自分がつくったもので人を楽しませる点では同じ。

その大変さがわかるから、「そりゃ、寝るヒマだってないよな」とパパが忙しくしていた頃のことも理解できるようになって。私は曲をつくっているときは悶々としちゃうから、「ああ、だからパパもしゃべらなかったんだ」とかね。

父 新しいものをつくる大変さ、生みの苦しみを、少しはわかりあえるようになったかもしれないね。

娘 好きなことをやるっていう点でパパと私は似てるよね。5歳年上のお兄ちゃんは、私とは違って、真面目で、温厚で、堅実な仕事について、3人の子どもをもつよき家庭人。

父 同じ環境で、同じものを食べて育ったのに、どうしてこんなに違うのか。マジックよりも不思議だね。息子一家は、毎日、必ず家族5人揃って食事をすることが習慣だし。

娘 パパを反面教師にして。(笑)

父 「こういうことを僕もやらなきゃいけなかったんだろうな」と、息子や孫を見ていて思う。今、あらためて人生を教えられているような。

娘 それにしても、孫の前では昔の近づきがたいパパはどこかに行っちゃうよね。「じいじ」と言われながら、3人に突撃されて、頭をバンバン叩かれている姿なんて、どうしよう、見ていいのかなって……。(笑)

父 孫は子どもとは別なんだよ。

娘 たしかに私が子どもの頃、親子の接触は密ではなかったけれど、「あれはダメ、これはダメ」とすべて拒否するのでなく、自由にさせてもらったところは本当にありがたかった。

ママは「やりたいことが見つからないから、みんな学校に行くのよ」と言っていたけど、パパは「やりたいことがあれば、やれ」と。まあ、やりたいことを見つけてやるのって、実際には難しいんだけど。

父 僕自身が、やりたいことをやってきたからね。

娘 今考えると、パパは人生のポイント、ポイントで私を導いてくれたんだね。父親と子どもの関係って、それだけでもいいんじゃないかな。

父 子どもが自分の選んだ道を進み、笑い声を聞かせてくれるのなら、何をやってもいいと僕は思う。好きなことで食べていくのは大変だけどね。

あと、父としての願いがあるとすれば、結婚してもらいたい。普通の女の子としての幸せをつかんでほしい。

娘 それは、人生でいちばん難しい。最大の課題です。(笑)

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