<たった40年足らず>栄えて消えた北海道・昭和炭鉱。なぜ治安の悪い炭鉱町が多い中、統制が取れた平和的な暮らしが保たれていたのか

2024年3月8日(金)12時30分 婦人公論.jp


沼田町のさらに奥にあった昭和炭鉱の社宅の全景。手前の大きな建物は選炭場(写真:沼田町産業創出課)

インターネットなどを通じてあらゆる情報が整理された昨今、世界のどの場所でもクリック一つで見ることができるようになりつつあります。そのような中、「今なぜ異界の回復が必要か。生きることが過剰につまらないからです」(『ルポ日本異界地図』宮台真司インタビューより)と発信するのが編集プロダクション・風来堂です。今回、その風来堂が手掛けた『ルポ日本異界地図』から「昭和炭鉱」の記事を紹介します。

* * * * * * *

約40年で栄え、消えた炭鉱街


昭和炭鉱[北海道雨竜郡沼田町]

現人口をはるかに上回る人口密集地が山奥にあった

人口3000人前後の北海道雨竜(うりゅう)郡沼田(ぬまた)町。この町に、かつて現人口を上回る約4000人もの住民が住む街が存在したエリアがあった。そこだけでひとつの街として成立していたそのエリアこそ、沼田町の北部、昭和地区に開発された昭和炭鉱の炭鉱町だ。

1900年代半ばに石炭採掘で栄えた昭和炭鉱はピーク時に年間生産量約22万9000tと道内の炭鉱でも有数の生産量を誇った。

1894(明治27)年に移住した開拓民18戸をルーツとする沼田町は現在でも旭川(あさひかわ)から車で1時間以上を要する。冬場の年間累計降雪量は10mを超える豪雪地帯だ。そんな沼田町のなかでも市街地からさらに車で30分ほど北上しなくてはならない地域に昭和炭鉱は開発された。

開発当時、そこには木々が生い茂る原生林が広がっていた。真冬ともなれば雪に閉ざされる。そんな未開の地に築かれた街にもかかわらず、炭鉱周辺には炭鉱事業者や鉱員とその家族が暮らす街が築かれていたのだ。

危険な重労働と引き換えに高い給与を得ていた鉱員は羽振りがよく、沼田市街からやってきて昭和地区炭鉱町で店を開いた商人たちにも多くの利益をもたらした。炭鉱が沼田町の経済を支えていたのである。

ところが、1960年代のエネルギー革命で風向きが変わる。国内エネルギー需要のメインが石炭から石油に転換し、昭和炭鉱も全国の炭鉱と同じく、閉山の憂き目に遭う。鉱員や住民は炭鉱から去り、賑わいを見せた炭鉱町も、みるみるうちに人がいなくなった。

沼田市街と炭鉱を結んでいた鉄道も閉山とともに廃線となり、もぬけの殻となった炭鉱は森のなかに取り残されてしまったのである。

炭鉱業者が買い取った御料林を建設隊が泥に埋もれながら開発


昭和炭鉱の権利を得た事業者は工業用から一般暖房用まで石炭の販路が広く、工業界が不況に陥ったとしても影響を小さく抑えられる堅実な経営方針が特徴だった。この企業体制が炭鉱町の形成にも反映される。昭和地区は周囲の炭鉱町とは異なる計画的で健全な街として発展していくのだ。

昭和炭鉱開発前の昭和地区は御料林(ごりょうりん)、つまり皇室所有の森だった。それが払い下げられ、炭鉱事業者が開発したのが始まりだ。


『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』(編著:風来堂、著:宮台真司・生駒明・橋本明・深笛義也・渡辺拓也/清談社Publico)

開発の開始は1929(昭和4)年だ。現地に送り込まれた建設隊は原生林を伐採し、腰まで埋まるほどの泥をかき分けながら開発作業を進めたという。

開発が始まる6年前の1923(大正12)年に沼田町幌新(ほろしん)地区ではヒグマに襲われて4人が命を落とし、3人が重傷を負うという凄惨な事件が発生していた。それ以外にも小学生が山道で殺害されたり、畑の草取りをしていた女の子が襲われて重傷を負ったりと、当時、人がヒグマに襲われる事件が多発していた。

昭和炭鉱は幌新のほぼ真北に位置していたため、建設隊はいつ出没するかわからないヒグマにおびえながらの作業だった。

過酷な環境下で炭鉱建設と街づくりが並行して行われていった。建物の建築材料を生産する製材工場、発電所、選炭場、数十戸の住宅などが建ち、昭和炭鉱が操業を始めたのは開発の開始から1年後の1930(昭和5)年のことだった。

道内有数の石炭産出地として町内には次々に炭鉱が誕生


昭和炭鉱があった沼田町は空知(そらち)地域に属する。九州と並んで石炭の一大産地だった北海道だが、なかでも空知地域は道内の石炭生産の約70%を占めた。昭和炭鉱はそんな空知地域でも優良な石炭を産出する炭鉱のひとつだった。

昭和炭鉱の周辺には浅野(あさの)炭鉱、太刀別(たちべつ)炭鉱も開発され、それぞれ別の炭鉱事業者が事業主だった。まともな交通手段が石炭運搬のために敷設された留萠(るもい)鉄道のみという、通常の炭鉱と比べても圧倒的にアクセス方法が限られた大変な山奥に炭鉱が三つも開発され、石炭で栄える街が一気に形成されていったのだ。


昭和炭鉱周辺MAP<『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』より>

炭鉱操業と同時期に石炭や人を運搬する留萠鉄道が開通する。市街地があった国鉄留萌本線の恵比島(えびしま)駅から昭和炭鉱があった昭和地区をつなぐ全長17.6kmの留萠鉄道は昭和炭鉱の石炭はもちろん、沿線で操業していた炭鉱の石炭運搬にも重要な役割を果たす。石炭はさらに留萌港まで運ばれ、船で北海道から運び出されていた。

このような出炭経路が整っていることも追い風となり、採掘開始から順調に生産を増やしていった。この時点で昭和地区はすでに居住者が1000人に迫り、小さいながらも街としての姿が整っていた。

山奥の炭鉱町という閉鎖された空間だったが、街の玄関口である昭和駅のホームから一歩外に出れば、事業者の社屋までの道路はコンクリート舗装。まだ砂利道が当たり前だった時代に、だ。炭鉱事業者の資金が潤沢だったことも関係しているだろう。

4000人の暮らしを支えた 充実した住環境とインフラ


昭和炭鉱がある昭和地区の炭鉱町の人口が約4000人を記録したのは石炭生産が最盛期を迎えた1954(昭和29)年だ。事業主の炭鉱事業者社員約850人のほか、鉱員やその家族などが炭鉱町で暮らしていた。また、生活に必要な施設の職員も定住していた。

人口が増えれば、生活を豊かにするための施設も増える。最盛期を迎えた昭和地区の炭鉱町には炭鉱事業者社員住居が100戸以上、鉱員住居が450戸以上もあった。そのほかにもアパートも10棟ほど建っていた。

鉱員の住宅は1棟4〜6戸の長屋式で風呂、トイレは共同というケースがほとんどだったという。鉱員の住宅も社宅扱いが大半だった。そのため、たとえばガラスが割れたときでも費用や作業は会社負担となり、住人自らガラスを購入してつけ替えるといった作業は必要なかった。

鉱員の給与水準は高く、しかも水道光熱費は会社持ちのため、生活コストはさほどかからなかった。

計画的に設計された昭和地区の炭鉱町は住民の生活に必要なあらゆる施設も整っていた。小、中学校、沼田警察署の駐在所、町役場出張所兼公民館、郵便局、寺院、図書館、理髪店などなど。


昭和炭鉱事務所(写真:沼田町産業創出課)

沼田の市街地にはまだ開設されていなかった保育所も昭和地区では1954(昭和29)年に設置されていた。もちろん、病院もあった。炭鉱で働く鉱員は坑道の崩落や有毒ガスなどの危険と隣り合わせの労働環境。

さらに、怪我をしても昭和炭鉱ほどの山奥からでは病院がある街までのアクセスが難しい。そのため、病院には当時最新鋭の外科医療体制が整っていた。この昭和炭鉱病院は炭鉱町で最も立派な建物といわれていたほどだ。

スキー場に劇場やクラブまで 数々の娯楽施設も存在した


生活に必要な施設だけでなく、娯楽施設も多様だった。炭鉱事業者の社員向けには体育館や夜間照明つきのテニスコート、それにプールやスキー場まであった。スキー場にはなんとジャンプ台があり、沼田の住人のなかにはジャンプ競技で全日本の大会に出場した選手もいたという。

また、クラブも二つ設けられていた。ひとつは東京から来る社員や外来客向けの宿泊施設で、フランス料理のシェフが料理を振る舞うという豪華さだ。もうひとつのクラブは鉱員の娯楽用。麻雀(マージャン)や囲碁をしたり、飲酒をしたりという遊び場となっていた。

さらには、映画や演劇が鑑賞できる「信和(しんわ)会館」という劇場まで営業していたというから、施設の充実ぶりがうかがえる。劇場では演歌歌手のコンサートが開かれることもあったそうだ。

社員、鉱員の家族がファッションを楽しめるよう洋服店もあった。鉱員の夫人のなかには東京などの都市部で流行した服で着飾る者も少なくなかった。

治安面でも昭和炭鉱は平和だった。地区全体が炭鉱事業者の敷地だったことも外部からの部外者の侵入を防ぐ要因になっていた。万が一、見慣れない人間がいた場合は、危険性のある不審者と判断されれば街中に放送で知らせるシステム。

こうした街づくりの特徴と徹底した不審者監視が合わさって昭和地区の治安は良好に保たれていた。ちなみに、歓楽街があったほかの炭鉱町には派出所はあるにはあったが、決して治安はよくなかったようだ。

対して、昭和地区は統制が取れた平和的な暮らし。昭和地区は炭鉱事業者が合理的につくりあげた企業城下町だったのだ。

※本稿は、『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』(清談社Publico)の一部を再編集したものです。

婦人公論.jp

「炭鉱」をもっと詳しく

「炭鉱」のニュース

「炭鉱」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ