相川七瀬「3児の母として、歌手も続けながら大学進学。私が勉強をする理由」

2024年3月18日(月)12時40分 婦人公論.jp


「自分はダメだ」で終わるのではなく、「自分はダメだから頑張るんだ」って素直に思うことができてよかったです(写真提供:相川七瀬さん 以下すべて)

歌手としての活動を続けながら、3児の母でもある相川七瀬さん。子育ての傍ら受験勉強に励み、45歳で國學院大學神道文化学部に合格、さらに2024年4月からは同大学大学院に進学します。歌手・母親・学生と三足の草鞋を履く相川さんに、今までの人生の歩みと共に、活動の原動力を伺いました(構成◎丸山あかね)

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死に物狂いで卒論を書いて


國學院大學神道文化学部を卒業し、4月から大学院へ進学します。大学では日本の文化や神道について学びました。卒論のテーマは「変わりゆく地縁の中での新しい祭りの意義」。現代の、特に都心では地縁が薄くなっていて、神社も氏子がいなくなってきている。

そもそもどこが自分の暮らす地域の氏神様なのかさえ知らない人が増えています。地方は地方で若者が故郷を離れてしまい祭りをしようとしても人手が足りない。80代の人たちが中心となって行い、70代は若手といわれているというのが現状です。そんな中でどうやって伝統的な祭りを継承していけるのか? といったことについての論文をまとめました。

卒論は冗談ではなく、ホントに頭がパンクするかと思いました(笑)。書き始めたのは8月だったのですが、どんどん内容に納得できなくなってきて、11月に違う観点から書き直すことにしたんです。なので、12月は追い込みで本当にしんどかった。途中で先生に見せたら赤字だらけで戻ってきたりもして、とにかく提出する直前までパニック状態でした。

コンプレックスを味方に


國學院大學に入ったのは45歳の時でしたが、実は大学へ行くまでの前段階があって、私は高校卒業認定を取得することからはじめました。最初に神道を学びたいと周囲の人に打ち明けたとき、今までの社会の経験を活かして、最初から大学院に入学すればいいという意見がほとんどでした。確かにそういうやり方もあるなと思いましたが、自分的には不安でした。基礎が足りないことは自分が一番よくわかっていたので。

もう一つ、私は高校を中退しているというコンプレックスを抱えていました。私は幼い頃から歌手になりたくて、中学の時に受けたオーディションで織田哲郎さんと出会いました。20歳で上京するまでは、アルバイトをしながらボーカルトレーニングなどをする日々でしたが、1995年に発表したデビュー曲「夢見る少女じゃいられない」がヒットし、その後も曲に恵まれ、たくさんの方々に支えられて今日まで来ました。ですので歌手人生においては感謝しかありません。

でも一人の人間としては置き去りにしてきたものがあると思っていました。しかもその想いは年を重ねるごとに深くなっていき、結婚しても、お母さんになってからもずっとずっと、いつか高校を卒業したいと考えていました。その一方でどうせダメだ、今更ムリだと思っている自分もいて……。そんな私の背中を押してくれたのが神道に対する興味でした。学びのテーマをみつけ、やっとその時が来たと感じました。せっかくの機会だから、みんなが高校で学んでいるはずのことを知らないから理解できないのだというようなことだけは避けたかった。だから卒業認定試験を受けることからはじめるというのは遠回りのようでいて、一番の早道なのではないかと思いました。

そうと決めたらコンプレックスは大きな味方になってくれました。30年ぶりに教科書を開いた時は戸惑いに溢れていましたが、わからないものはわからない。これは独学では無理だと潔く認めて家庭教師を頼むことにしました。「自分はダメだ」で終わるのではなく、「最初からできる人はいないんだから、今から一から学ぶんだ」って素直に思うことができてよかったです。


相川さんが学年1位になった時

今の頑張りは未来の自分を助けてくれる


頑張ることが未来の自分の助けになると考えてもいました。これは過去から学んでいたことでもありました。デビュー当時は周囲の方々に助けていただいていましたが、やがて自立を求められます。自分で曲を作るようになってからは孤独な作業の連続でしたし、責任の重さに逃げ出したくなることもありました。

それでもなんとか踏ん張って、今日まで歌ってこれた。苦しくても逃げずに頑張った若き日の自分に「ありがとう」と言いたいなと思います。だって今の自分があるのは、過去の自分が頑張ってくれたから。だとしたら50歳を間近に控えた今の自分が頑張って学んでおけば、60代の自分もまた輝けるのではないかと思って楽しみで。それが私の今の原動力だといえるかもしれません。

本音を言えば、学びなおす当初は年齢的にどうなんだろう? という気持ちもありました。英語検定を受けに行った時も、若い人たちの中に保護者が一人みたいな感じで居心地の悪さを感じていました。ところが試験会場に入ったら、準一級の面接の椅子に70代くらいの白髪のご婦人が座って一所懸命に単語帳を捲って予習されていた。その姿が、意欲がみなぎっていてカッコよかったんですよ。その瞬間に年齢的なコンプレックスなんて存在しないんだ、勉強適齢期は人それぞれなんだ、私は私で良いんだと思うようになりました。

学び始めてから思ったのは人生経験が武器になるということです。たとえば神話の授業では、若いクラスメイト達は昔話を聞いているような感じで、面白いと感じているようでしたが、私にとっては答え合わせのような感覚でした。どの場所が出て来ても自分が「行ったことがある」場所であり、風景が目に浮かぶんですよ。そこへ先生の解説が加わると、また違った観点から神話を受け止め、なるほど〜と面白くなる。大人になって学ぶということは、経験を活かせるというベネフィットがあるのだと発見しました。

もちろん暗記力とか集中力では若い人に勝てません。でもコツコツ頑張るというのが本当に大切なことだと思います。ある時、成績発表の時に、「1/200」と記してあったので、これはなんだと不安になって教務課へ聞きに行きました。すると対応してくれた職員の方が「凄いですね、学部で一位になったんですよ」って。私はちょっと信じられなくてポカンとしてしまったのですが、努力が認められたんだと思うと、最高に嬉しかったです。

導かれるように学び始めた


そもそも、なぜ私が神道文化学部を受験しようと思ったのかですが、私の実家は、祖父が神社の氏子総代を務めたりしていて、幼い頃から神社やお祭りが身近な存在だったという理由があります。でも神道について本格的に学びたいと考えるようになったのは30代後半になってから。2012年の8月に長崎県の対馬で開催された音楽イベントに参加した際、美しく風に揺れる赤い稲穂に出会って、人生が変わったんです。

古代米「赤米」は稲作のルーツと言われていて、その神事は国や県の無形民俗文化財に指定されています。私は何百年のあいだ地域の人々が赤米神事によって神々と結ばれていることを知り、自然に対する畏敬の念を重んじる伝統文化が脈々と続いていることに感銘を受けました。ところが後継者不足が深刻で、対馬では赤米を耕作している人が一人しかいないと聞いて「えっ? だったら赤米神事も途絶えてしまいますよね!?」って。同時に自分にできることはないかと思い、個人的に手伝い始めました。でもその時はこれほど長く赤米に関わってライフワークになるとは想像もしていませんでした。人生って、縁って不思議だなって思いますね。

赤米神事を伝承しているのは、長崎県の対馬市の他に岡山県総社市、鹿児島県南種子町だということで、その年の10月に鹿児島へ行き、11月に岡山へ行って稲刈りなどに参加しつつ現状を学びました。それぞれの地域で「赤米神事を未来につなげたいですね」と伝えていたところ、「赤米親善大使」に任命され、2014年には2市1町の交流協定が結ばれる運びに。そこから専門家を交えて論議する「赤米サミット」の開催や「赤米子ども交流会」へとつながっていきます。16年からスタートした赤米支援チャリティーコンサート「赤米フェスタ」は、コロナで中止した年もありましたが復活し、今年も開催予定です。

私が赤米に関わるようになって12年になります。当初は強い思いに任せて活動をしていたのですが、やがて知識不足という壁にぶち当たってしまいました。赤米神事は知れば知るほど奥が深くて……。よそ者の私が「こうすればいいんじゃないか?」と思うことがあっても、そうは簡単にいかないことがある。それぞれの地域にはそれぞれの文化があり、言語化できないプライドもある。そこを深く理解しなければ先へは進めないことに気づき、さらに神事の源流を知る必要があると考えるようになり、自ずと神道を祭りを学びたいという気持ちが生まれました。


岡山県総社市で赤米の稲刈りを行う相川さん(相川七瀬さんのInstagram「@nanasecat」より)

<後編>へ続く

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