九重親方「小5で高校生を」「やくざからスカウト」SNSに流れる<武勇伝>の真相とは…合氣道家・藤平信一がハラスメントと厳しさの根本的違いを問う

2024年3月28日(木)12時30分 婦人公論.jp


厳しさとハラスメントの根本的な違いとはーー(写真提供:Photo AC)

どんな仕事もスポーツも勝って成果を上げるためには、妥協せず自分を追い込むほどの厳しさが欠かせません。一方でハラスメントを恐れるあまり、「ぶれなさ」「必死さ」を次の世代にうまく伝えられないリーダーが増えているのではないでしょうか。国内外の経営者が師事する「心身統一合氣道会」会長藤平信一氏のもとにも、指導者の悩みが多く寄せられています。厳しさとハラスメントの根本的な違いは何なのか?多くのリーダーを見てきた藤平氏が、九重親方(元大関・千代大海)との対話をもとに語ります。

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一流の厳しい師匠の下で育った方から学ぶこと


私の著書に登場する工藤公康さん、九重親方(元大関・千代大海)、そして私、藤平信一の3人には、さまざまな共通点があります。
その一つが、とても厳しい指導者の下で育ったということです。
このような話をすると、私たちの世代より上の方には興味を持ってもらえるのですが、若い世代はとたんに意気消沈してしまいます。「厳しいのは悪」という風潮があるからです。
しかし、あえてこのような話をするのには、理由があります。それは、厳しいことは本当に悪なのか、ということを検証する必要があると思うからです。
ひと口に「厳しい」と言っても、そこにはさまざまな厳しさがあります。目的も方法論も違います。もちろん、許してはいけない厳しさもあるでしょう。体罰や暴言などとは、明確に区別されるべきです。しかし、それらをすべて十把ひとからげにして「厳しいのは悪」と断じる現代の風潮は、逆に乱暴なような気もするのです。
厳しいとは何なのか? 何のために厳しくするのか? 厳しさの結果、何を得て、何を失うのか? そうした大局的な観点から検証してみる必要があると思ったからこそ、一冊の本にまとめたのです。

厳しさに頼らない育成方法とは


幸いにも、工藤さんも九重さんも、その検証には格好の存在だと言えます。
理由は二つあります。一つは、厳しく指導された結果、いわゆる“レジェンド”と呼ばれるまでになった方だから。もう一つは、指導者としては、厳しさに頼らない育成法を模索しているからです。


『活の入れ方』(著:工藤公康・九重龍二・藤平信一/幻冬舎)

プロ野球も相撲も、甘さが命取りになる世界です。気を抜いて活躍できるほど甘くはありません。自分を厳しく追い込んで、初めて成立する世界なのです。
いまは厳しい指導をすれば「パワハラだ」と言われ、正しさを押し付けようとすれば「モラハラだ」と言われるようになりました。でも、伝えなければならないことはあるはずなのです。
そこで、厳しさの神髄を身に刻んで知りながら、いっぽうで、それに頼らない育成もしているお二人と話しながら「厳しさは悪なのか」という検証を深めてみたいと考えました。
まずは、九重さんに、どのように厳しい世界で育ったのかを、ご自身の口で語っていただこうと思います。

イメージ的に、相撲界は「汗まみれ」「泥まみれ」で鍛えられている印象がありますが、中でも九重部屋の稽古の厳しさは、よく知られています。そこは本当に悪しき世界なのでしょうか。

ツッパリ大関と呼ばれた、九重親方


九重親方 :「相撲界が他のプロスポーツと根本的に違うのは『**部屋』という制度に表れています。チームではなく部屋ですから、稽古場から生活の場まで、すべてにおいて厳しいんです。
しかも、師匠は九重(元横綱・千代の富士)ですから。あの顔を思い出してみてくださいよ。あの目でグッと睨まれたら、普通の人なら縮み上がるかもしれません。その師匠の目が、部屋には常にあるわけですから、それは厳しいに決まっています。
ご存じの方もいると思いますが、現役時代、俺は『ツッパリ大関』と呼ばれていました。相撲のスタイルが突き相撲だったためですが、入門前に“やんちゃ”をしていたことも影響しているのでしょう。

SNSにはいろいろな“武勇伝”が出てくると、弟子から聞きました。
『小学校5年で体重が100キロあり、家の前にタバコを捨てた高校生に怒り、投げ飛ばした』とか『中学では街の不良を片っ端からぶっ飛ばし“大分の龍二”という名が九州全域に轟(とどろ)いていた』とか『中学卒業後はとび職に就き、九州一の暴走族を率いて、やくざからもスカウトされた』などと書かれているそうですが、まあ、おおむね本当のことです。」(以上、九重親方)

柵のない状態でライオンと遭遇したような恐ろしさ


九重親方の話は続きます。
九重親方:「かなりやばいやつも相手にしていたし、修羅場も潜り抜けてきたけど、師匠に会った瞬間『あ、この人には殺される』と思いましたね。眼だけで殺されそう(笑)。いままで見てきた“その筋”の人たちとはまったく違うオーラがあったんです。
たとえるなら、柵のない状態でライオンと遭遇したような。師匠は当時、現役を引退して1年ほどでしたから、体もごつくて、目つきも鋭い。『やっぱりすごいな、千代の富士は』と圧倒されましたね。
で、俺の目を見て『あんちゃん、何しに来たの?』と聞くんです。『相撲界に入りたいです』と言うと、『どうして?』と聞かれ『親孝行がしたい』と答えました。その瞬間、眉間のしわがスッとゆるんで、ニコーッと笑う。
『この子は頑張れそうだね』と言われたその言葉の響きが優しくて、もう一瞬で心をつかまれました。


師匠に会った瞬間『あ、この人には殺される』と思いました(写真提供:Photo AC)

でも、次に出た言葉が『まずは、その頭をどうにかして来い!』でした。俺的には不良の礼儀で、金髪に剃り込みのリーゼントをバシッと決めて、挨拶をしたつもりだったのですが、まさかのNG。なので、いったん大分に帰って頭を丸め、翌日にもう一度、挨拶に出向いたんです。すると、師匠は『剃ることはないだろ!』と叱りながら、うれしそうな顔をしてましたね。
その瞬間、『よし! この人の下で、俺は生まれ変わろう。いままでの自分は死んだ。これからは新しい自分になるんだ』と、肚(はら)が決まったんです」(以上、九重親方)

それはハラスメントか? 愛なのか?


九重親方の言う「眼だけで殺されそう」というのは、とんでもない厳しさですよね。
「頭をどうにかして来い」と言われて、頭を剃って来るのも、いまこれを学校でやったら、大問題になりそうです。でも、九重さんの話からは、ハラスメントのにおいは微塵も感じられません。
なぜか? おそらく「この人の下で、俺は生まれ変わるんだ」という言葉が示す通り、主体が自分にあるからだと思います。
ところが、暴力や暴言は、これとは正反対です。主体が指導する側にあるのです。体や精神を痛めつけることで、相手を自分の意のままにコントロールしようとする。つまり、主体は指導者にあると言えます。
この“主体性がどこにあるか? ”ということは、「厳しさは悪か?」を検証するうえで、とても重要なポイントになると思うのです。
見出しにある「ハラスメントか? 愛なのか?」への答えは、簡単に言えるものではありません。

ですが、やはり厳しさの中に「相手をコントロールしよう」という意図が隠れていれば、受け手は「パワハラだ」と感じるし、「相手を成長させよう」という想いがあり、それが伝わるなら「愛だ」と感じるのではないか、と思うのです。

※本稿は『活の入れ方』(幻冬舎)の一部を再編集したものです

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