試験に落ちる、病気で倒れる…望み通りではなくても、人生を楽しむ考え方。まずは役に立つ、役に立たない、という発想から自由になる

2024年4月5日(金)12時30分 婦人公論.jp


岸見先生「どんなことも楽しむためには真剣でないといけない」(写真提供:Photo AC)

文部科学省が発表した「21世紀出生児縦断調査(平成13年出生児)」によると、約6割が1ヵ月間で1冊も本を読まないそう。「自分の人生で経験できることには限りがあり、読書によって他者の人生を追体験することから学べることは多い」と語るのは、哲学者の岸見一郎先生。今回は、岸見先生が古今東西の本と珠玉の言葉を紹介します。岸見先生いわく、「どんなことも楽しむためには真剣でないといけない」そうで——。

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それだけでかまわない


三食をつましく作って食って、近所を散歩して俳句作って、あとは家にある本とCDを消化するだけの人生で別にいいのだが。
(天野健太郎「はじめに」『風景と自由 天野健太郎句文集』)

これは、台湾文学の翻訳者である天野健太郎の言葉である。

「つましく作って食って」、後は好きなことをする。「別にいい」のである。

そのような生き方をよしとしない人はいるかもしれないが働かないわけではない。贅沢しないで好きなことをして生きる。他にどんな人生を生きるというのか。

実際には天野はこれ「だけ」ではなく、翻訳者として多くの仕事をした。7年間に12作の翻訳を出版している。呉明益の『自転車泥棒』の翻訳が出版された5日後、天野は47歳で亡くなった。

旧約聖書の「コヘレトの言葉」には何事も、例えば、生まれるにも、死ぬにも「時」があって、人が苦労してみたところで何になろうとある。

たしかに、自分でいつどこでこの世に生まれるかを決めることはできないし、長生きしたいと思っても、いつどこでどのように死ぬかを決めるわけにはいかない。

喜び楽しんで一生を送る


聖書には続けてこう書いてある。

〈人間にとってもっとも幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだ〉

プラトンも、正しい生き方とは一種の遊びを楽しみながら生きることであるといっている(『法律』)。

とはいえ、生きることは苦しい。苦しいことも、悲しいことも一度も経験しないで生きることはできない。人生は決して順風満帆ではなく、行く手を阻むことは度々起こる。

一生懸命勉強しても試験に合格せず、願っていた学校に入学できないことがある。思いがけず病気で倒れることもある。

それでも、そんな人生を楽しんで生きることはできる。

わけもなく惹かれるもの


どんなことも楽しむためには真剣でないといけない。

しかし、自分が望んだ通りの人生を送れなくても、深刻になることはない。

〈誰でも、ふとしたときに、わけもわからないまま、なにかに惹かれてしまうことがあるらしい〉 (天野健太郎「あいまいな国境の歴史(抄)」前掲書所収)

わけもわからぬまま惹かれたものに夢中になれれば、何があっても深刻にならないで生きられる。わけもなく惹かれるものは趣味といわれるが、趣味といえるためには条件がある。

まず、役に立つ、立たないという発想から自由にならなければならない。どんなことでも役に立つかとか意味があるかとか問わないと気がすまない人がいる。


趣味に理由は必要ではない(写真提供:Photo AC)

趣味がなくても生きていける。役に立つか立たないかといえば、役に立たない。役に立つかどうかばかり考えていては、趣味に没頭することはできない。

次に、何か結果を出さないといけないという発想から抜け出すことである。

専門家といわれるくらい究めると面白くなるものだ。好きでたまらないので打ち込んだ結果、専門家のようになることはあるが、究めることを目標にすると、結果を出せなければ、たちまちつまらなくなる。

これだけの時間と労力をかける価値はないのではないかと思うようになるからである。

もっとも、それほど時間も労力もかけないうちに断念することがある。

定年後、これからは趣味に生きようと思って高価な一眼レフカメラを買ってみても、すぐに使わなくなることがある。

シャッターを押しさえすれば写真は撮れるものと思っていた人は、写真は思いの外難しいことにすぐに気づく。

写真の撮り方のような本を買って読むと、構図にさえ注意すればいい写真が撮れると思うかもしれないが、撮ってみたい被写体が目の前に現れた時、理論は吹き飛んでしまう。シャッターを切らなければチャンスを逸してしまう。

誰かにほめられなければ気がすまない人は、写真を撮っても誰からもほめられないのでがっかりすることになるかもしれない。人から認められなくても、写真を撮ること自体がおもしろいと思えなければ続かない。

趣味に理由は必要ではない。天野がいうように「わけもわからないまま」惹かれるものである。

どうでもよくなる


九鬼周造がこんなことを書いている。

作家の林芙美子が北京への旅の帰りに、九鬼のいる京都へ立ち寄った。林が何かの拍子に小唄が好きだといったので、小唄のレコードをかけて皆で聴くことになった。

〈「小唄を聴いているとなんにもどうでもかまわないという気になってしまう」〉 (「小唄のレコード」『九鬼周造随筆集』所収)

九鬼は林のこの言葉に「心の底から共鳴」し、こういった。

〈「私もほんとうにそのとおりに思う。こういうものを聴くとなにもどうでもよくなる」〉 (前掲書)

私は学生の頃、オーケストラでホルンを演奏していたので、他のことはどうでもよくなるという気になると林や九鬼がいったことの意味がよくわかる。

あの頃は勉強もしていたが、講義室に行く前に部活動室に直行していた。

〈私は端唄や小唄を聴いていると、自分に属して価値あるように思われていたあれだのこれだのを悉(ことごと)く失ってもいささかも惜しくないという気持になる。ただ情感の世界にだけ住みたいという気持になる〉 (前掲書)

ふと合理的に考え、計算してしまうと、こんなことをしていていいのかと思ってしまうと、生きる喜びは失せてしまう。

※本稿は、『悩める時の百冊百話-人生を救うあのセリフ、この思索』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

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