大河ドラマ 『べらぼう』時代の実際の庶民生活「1日2食から3食へ」文化が開花した“秘密”
2025年4月20日(日)18時0分 週刊女性PRIME
花魁の瀬川(小芝風花)も本を読むのが好きだった(番組公式インスタより)
日本のポップカルチャーの礎を築き、時にお上に目をつけられても面白さを追求し続けてきた“蔦重”こと蔦屋重三郎の波瀾万丈の生涯を描いた、現在放送中の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(NHK)。
バランスのとれた大河ドラマ『べらぼう』
今年、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。今、ノリにノっている横浜流星演じる蔦重と、花魁(おいらん)・瀬川(小芝風花)の切ない恋の道行きに心奪われた視聴者も続出している。
しかしその一方で、吉原を舞台にしているだけに過激な性描写に疑問を呈する声も上がっている。
「花魁道中など、華やかな吉原を描きながらも、病に感染して命を落とす女郎たちの悲惨な末路もしっかり描いている。そういった意味では、バランスのとれた大河ドラマではないでしょうか」
そう語るのは、歴史評論家の香原斗志(かはら とし)さん。
さらに今まで大河ドラマでは描かれたことのない宝暦・天明文化を題材に選んだことにも、先見の明を感じるという。
「これまで大河ドラマで描かれてきた江戸時代は、神君・家康公から8代将軍・吉宗まで。そこから100年間は描かれることなく幕末・維新の動乱を取り上げてきました。
今回描かれている宝暦・天明は吉宗の後に権力を握った田沼意次(渡辺謙)が権勢を誇った時代。年貢に頼るだけでなく、経済政策を中心に幕府の財政を立て直そうとする姿が描かれています。そんな時代だからこそ、庶民文化が花開きました」(香原さん、以下同)
商人が台頭し経済的にも右肩上がりのこの時代になると、江戸に暮らす町人たちの生活にも余裕が生まれる。
当時の庶民の生活を振り返ってみよう。
「元禄時代(1688年〜)のころから、1日2食から3食の食生活になりました。貧しい農村ではヒエやアワを食べていましたが、江戸の町人の家では3食白米を食べていたことは、意外と知られていません。
白米のご飯にみそ汁、野菜の煮物や香のもの、たまに焼き魚が食卓を彩っていました。前の時代に比べて、豊かになりましたが、タンパク質や脂質不足は否めません。だから、蔦重のように脚気(かっけ)などで亡くなる人が多かったんです」
江戸時代の人気のグルメといえば、にぎり鮨(ずし)、うなぎのかば焼き、どじょう鍋に天ぷら、おでんあたりがすぐ浮かんでくる。
今「江戸前」といえば「にぎり鮨」と相場は決まっているが、当時の「江戸前」は何といっても「うなぎ」。
隅田川、神田川、深川でとれたものを「江戸前のうなぎ」と呼んでいたのである。
しかしこうした河川が埋め立てられ、大正時代になると「江戸前」は東京湾でとれる魚で握る「にぎり鮨」に取って代わられる。「うなぎ屋」にしては悔しい限りだろう。
さらに煮魚や芋の煮っころがしで飯も食べさせれば、酒も飲ませる。そんな居酒屋も当時は繁盛していた。
酒屋によっては量り売りの酒を、簡単な肴(さかな)で飲ませていた。樽(たる)や長床几(しょうぎ)に酒食をおいて飲む、今でいう「角打ち」スタイルの店もあちこちで見かけるようになった。
「吉原」に危機
そんな中、幕府公認の遊里「吉原」にも危機が訪れる。
幕府非公認、つまり“もぐり”の色街「岡場所」が品川、新宿、板橋、千住の江戸四宿のほか深川などで発展。最盛期には200か所近くもあったというから「吉原」にとっては、目の上のたんこぶに違いない。
しかも「吉原」に比べて遊興費が安く堅苦しさもないことから「吉原」がいくら訴え、摘発されてもなくなることはなかった。
ライバルは、色街ばかりではない。天明期にかけては浮世小路の百川(ももかわ)、佐柄木(さえき)町の山藤(さんとう)、向島の葛西太郎、中洲の四季庵など贅(ぜい)をこらした美食でもてなす料理茶屋も登場。
それまで宴会といえば吉原と相場が決まっていたが、その牙城すら崩されつつあった。そんな時代に生まれたのが、“蔦重”こと蔦屋重三郎なのである。
プロデューサーとしての蔦重の力
江戸・吉原に生まれた蔦重は、吉原の大門に至る五十間道(ごじっけんみち)にある茶屋「蔦屋」の軒先で、貸本屋を始める。20歳過ぎのことである。
やがて書店兼貸本屋『耕書堂』を開店。吉原のガイドブック『吉原細見』をヒットさせ、自信を持って吉原の錦絵本『青楼美人合姿鏡』で勝負に出る。ところが値が張るために一向に売れず、多額の借金を背負ってしまう。
しかし、そんなことでへこたれる蔦重ではなかった。借金のカタに吉原の8月の催しを任された蔦重は、一計を案じる。
「歌舞伎のまね事をする『俄(にわか)』に当代一の美声とうたわれた浄瑠璃の太夫・富本午之助を招くことに成功すると、吉原の俄を題材にした『明月余情』を刊行。
さらに2代目・富本豊前大夫に襲名した午之助の許しを得て直伝本を売り出すと、これがまた大ヒット。浄瑠璃語り“江戸一”とうたわれたスーパースターの心をいったいどうやってつかんだのか。蔦重のプロデューサーとしての手腕は見事としか言いようがありません」
安永4年(1775年)から始まった『吉原俄』はやがて大正時代まで続く一大イベントとなる。
そのイベントを成功に導き、浄瑠璃界の大名跡の襲名披露を実現させた蔦重は、出版界の垣根を越えメディアミックスを成し遂げたメディア王ともいえる存在だったに違いない。
庶民文化が開花した秘密とは──?
しかし蔦重の快進撃は、いよいよここからが本番である。
吉原で確固たる地位を築いた蔦重は30代で老舗の版元が軒を並べる日本橋・通油(とおりあぶら)町に店を構える。
すると青年向けの娯楽本で黄色い表紙をつけて売り出される「黄表紙」や、遊女と客の駆け引きを描写して野暮(やぼ)な客を笑い飛ばす「洒落本」、天明期には黄金期を迎える「狂歌本」を次々に出版。
朋誠堂喜三二(尾美としのり)や恋川春町、山東京伝、大田南畝たち流行作家を吉原に誘い、宴を催してヒット作を生み出していく手法は蔦重ならではのもの。
特に不世出の浮世絵師・喜多川歌麿(染谷将太)を食客として住まわせ、花鳥画を合わせた『百千鳥狂歌合』『画本虫撰(えほんむしえらみ)』。さらに数々の美人画を世に送り出し、宝暦・天明の時代に一大ムーブメントを巻き起こす。
しかも役者絵で知られる謎の絵師・東洲斎写楽まで世に出したのだから、驚くばかりではないか。
こうした一連の浮世絵版画ブームの誕生にはある秘密が隠されている。
それは、この時代に生まれた多色刷りの浮世絵版画「錦絵」の登場である。
「浮世絵木版画は最初、墨一色の墨刷りから始まり、次第に虹を中心に彩色した紅絵(べにえ)や墨の面に漆(うるし)のような光沢をもたせた漆絵が登場します。さらに日進月歩。7、8色以上の豊富な色を重ねた多色刷りの錦絵へと発展していきました。
ヨーロッパの色彩学が発展したのは19世紀。世界的に見ても、日本の美術が独自の進化を遂げていたことがわかります」
「錦絵」は当時、大名から庶民に至るまで幅広い人気を誇り、江戸の名物として諸国への土産としてもてはやされ、歌舞伎の役者絵、力士を描いた相撲絵などさまざまな「錦絵」が地本問屋(今でいう書店)や絵草紙屋の店頭に並び、飛ぶように売れていたという。
この「錦絵」が海を渡って、モネたち印象派やゴッホなどに影響を与える。このことを見ても「宝暦・天明文化」がいかにレベルが高かったか、おわかりいただけるだろう。
こうした世界に誇れる文化を生み出すには、もうひとつ忘れてはならない秘密がある。
「それは当時の日本の識字率の高さ。江戸時代の武士階級の男子はほぼ全員教育を受けており、識字率は90%以上といわれています。町民たちも寺子屋に通う子どもたちが増え、それに伴って当時の日本の識字率は、世界一といっても過言ではありません。
これほど識字率が高くなければ、蔦重がポップカルチャーを牽引(けんいん)するメディア王になることもなかったでしょう」
しかし右肩上がりの「宝暦〜天明」の時代も10代将軍・家治が亡くなり、権勢を誇っていた田沼意次が失脚すると輝きを失う。
その後の蔦重はいったいどうなるのか。今後も大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』を見守っていきたい。
取材・文/島 右近