和田アキ子さんが『徹子の部屋』に登場 「デビュー当時はいじめを受けた日もあった。願いが一つ叶うなら、両親にありがとうと伝えたい」

2024年4月30日(火)11時0分 婦人公論.jp


(撮影◎本社 奥西義和)

4月30日の『徹子の部屋』和田アキ子さんが登場。今年デビュー56年目、大きなホールでの全国ツアー引退を発表した。昨年は満身創痍でツアーに挑んだが、スタジオでは手術翌日のリハビリ映像を見ながら当時の頑張りを聞く。一番の理解者は夫だったそう。ツアー初日の朝、テーブルにあった夫からの手紙を徹子さんが代読すると和田の目に涙が…。ツアーの前に意気込みや半生を語ったインタビューを再配信します。
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来る10月、NHKホールを皮切りに芸能生活55周年を記念してラストホールツアーをスタートする和田アキ子さん。なぜ今回、「ホールツアー」を最後とするのか、デビュー時の破天荒な思い出やご家族とのことを振り返りながら、語っていただきました。(構成◎岡宗真由子 撮影◎本社 奥西義和)

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声さえ出ていれば、80まで歌い続けたい


なぜ今回のホールツアーが“ラスト”ですかと聞かれれば、「満身創痍だから」としか言いようがないですね(笑)。まず左足は股関節を痛めてしまい、右足も膝を痛めています。右目も網膜色素上皮裂孔って言って、視界が欠けた状態なんです。

でも、記念すべき55周年のコンサートでしょ?満身創痍だけど、生半可なステージにはしたくないんです。去年はどうしても体力的に無理だろうって思いましたが、やっぱり55周年の間にやろう!って決意しました。お越しいただいた以上は、「元気をもらった」と感じてほしいですから、今はツアーに向けてボイトレとリハビリを頑張っています。

おっぱいが垂れて、お腹がぽっこり出て、お尻がぺたんこになっても、声が出る限りはステージに立ちたいと、10代の頃からずっと言ってきました。海外には、杖をついてステージに立っている歌手の方はいっぱいいらっしゃいます。だけど、杖をつかずにホールのステージに立ちたいと今のところは思っています。歌も、ホールでしか歌えない歌というのがいくつかあるんです。衣装も、ホールで「魅せる」ために、他のライブやテレビとは全く違うものをいつも着ていますからね。

昔、見るも勉強、聴くも勉強ということでクラシックコンサート行った時に、マイクを持ってないし、ピンマイクもつけてないなと気づいたんです。なのになんでこんなに声が届くんだろう、これはすごいことだって感動しました。クラシック歌手にできるなら私にもできるはずだって思って、『今あなたにうたいたい』を“オフマイク”にして歌うことにしたんです。

でも後から、足元に集音マイクがあったって知りました。なんだ、しんどいことしてるのは私だけなんだって驚きましたよ(笑)。それに、ソプラノのような高音のほうが大きな音は出しやすくて、低い音でホールの後ろの座席まで届かせるのは結構大変なんです。ホールで歌う曲には他の曲の5、6曲分のエネルギーを使ってしまう曲があるんですが、今回のツアーで歌えるものなら歌いたいですね。

私、ファンクラブはないんですが、いつも来てくれる昔からのファンがいるんですよ。いつも“あの子たち”と呼んでいるので、そう呼ばせてもらうと、あの子たちには前の座席には座ってほしくないんです。ツアーの前には私の曲をおさらいしてくれているそうで、私よりちゃんと曲の歌詞が頭に入ってるんです。だから、私が歌詞を間違えたりすると、焦った顔で「あ!」とか言うんですよ。そんなことされると、こっちがますます焦るじゃないですか。私、「緊張しい」なので、最初の1、2曲目とか特に間違えやすいからプレッシャーで…(笑)。私が55周年ということは、あの子たちも相当な年齢ですからね。わざわざ会場まで来てくれるのも大変なんですから、尚更良いもの見せたいって思うんです。


いつも来てくれる昔からのファンの子たち。その年齢を考えると会場まで来るのも大変なのだから尚更良いものを見せたい思うと語る和田さん(撮影◎本社 奥西義和)

堀威夫さんから「君で勝負したい」と




デビューしたのは18歳の時ですね。ジャズ喫茶で歌っていた私に、ホリプロの大阪支社長が目をつけて、ほどなく創業者の堀威夫さんから「君で勝負したい」と言われました。それで、大阪から右も左もわからない東京にやってきました。当時の芸能界に、私のような低音ボイスで背の高い女性歌手は他にいなかったから、奇異な目でも見られたし、当時はよくイジメられましたね。

ある女性歌手からは、「男と一緒の楽屋にしてほしくない」とか言われたりしましたね。メイク用品を全部テーブルから落とされていたり、私物に落書きされたり、今では考えられないような陰湿なイジメを受けていました。悔しかったけど、自分が芸能界を長く続けられたら、こういう先輩には絶対ならないようにしようと思いました。実際、私をイジメてきた人たちはみんな芸能界で生き残ってないですね(笑)。意地悪なんてするもんじゃないですよ。

お給料も安かったので、生活するのも大変でした。マネージャーにご馳走してもらったり、車で送ってもらったりを頼みこんでいました。でも中にはケチでいけずな人もいてね、「お前なんか絶対売れないから」って言ってパン一つ奢ってくれなかった人もいました。だから私が営業で稼げるようになってきた時に仕返ししてやろうと思って、彼が管理していた地方営業の売上金がパンパンに入ったアタッシュケースを、帰りの食事処で隠してやったんです。そしたら警察を呼ばれて、現場検証が始まっちゃったんです。指紋取ったりしだしたもんだから、私も言い出すきっかけを失っちゃいました。(笑)

すっかりしょげ返った彼が私に、「もう帰っていて良いですよ」って言うから、「座布団の下に隠してある」って教えてあげたんです。そしたら彼、泣いてしまいました(笑)私も警察に怒られたし、あれは流石にやりすぎでしたね。(笑)

デビュー曲の『星空の孤独』は売れなかったんですけど、2枚目に出した『どしゃぶりの雨の中で』という曲がヒットして、クラブ巡りもしました。でも持ち歌がほとんどないから、洋楽の『Blue Suede Shoes』や『Kansas City』とかを歌うしかなかったんです。ところが、お客様が「日本語の歌を歌え!」なんて野次を飛ばしてくるんですよ。司会者もいなかったから、自分で「看板ちゃんと見て入ってこい!バカヤロー!」って追い返してましたね。昔は本当に苦労しました。(笑)

あの頃は、日々悔しくて泣いた夜もあったけど、誰にも弱音なんか吐けずにいましたね。家族もいろいろ大変だったので、私が心配をかけるわけにはいかなかったんです。初月給をいただいた時から、実家にはずっと仕送りをしていました。私は学校を出られなかったけれど、弟たちは大学を出て、運転免許もちゃんと取ってほしかったですからね。

兄妹は4人いますけど、私が唯一の娘でした。親は女の子らしい子がよかったんでしょうけど、あいにくでしたね(笑)。父は本当に厳しかったです。でも、今となってはいいんです。願いが一つ叶うなら、両親に会って「産んでくれてありがとう」って伝えたいですね。

マネージャーにも感謝ですね。コンサートまで体力をつけるために、一緒に目黒川沿いのウォーキングに付き合ってくれていますから。前はよく料理をすると、それをマネージャーやスタッフにご馳走していたのですが、今は目が悪くて包丁が上手く使えないんです。でもこの前はスライサーを使ったりして、椎茸の煮物とか錦糸卵とか、結構豪勢な具材の素麺を振る舞いました。素麺も具材次第でちょっと贅沢になりますからね。

料理をするのは仕事と全然違う頭を使うから、息抜きになるんです。人にご馳走するのは大好きですね。不良のアッコだったからこそ、お世話になった人には絶対にお返しできる人間でありたいって思うんです。頭の片隅でいつも「アコ、“和田アキ子”を大事にせなあかんで、人を裏切ったらあかんよ、ちゃんとせなあかんよ」っていつも自分に言っています。こう見えて新聞に載るような悪いことは一度もしなかったですからね。(笑)

私の元気の秘訣は、馬鹿のままでいることですね。みんなのことを、自分より賢いと思って、自分が馬鹿だと思ってると何でも聞けるし、いつまでも自然体でいられます。歌でもそうですね。だからこそ、歌の上手い人を見ると、たとえ若い人でも「うま過ぎる!」って嫉妬して、負けたくない!と自分に腹が立ってくるんです。

長い間、芸能界にいていろんなことを見てきましたけど、歌うときは緊張するし、気持ちは55年前とあんまり変わってない私です(笑)。ぜひ、全国のホールでお会いしましょう!

婦人公論.jp

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