本郷和人 時には陰嚢を強打され、アレを口に押し込まれ…殺人も見逃された?『べらぼう』脚本家があのタイムスリップドラマでも描いていた<江戸の牢屋の凄惨さ>
2025年5月8日(木)15時0分 婦人公論.jp
別の入牢者から「きめ板」と呼ばれる厚板で打ち据えられる受刑者(『司法制度沿革図譜』より「舊江戸傳馬町牢獄内晝之圖 舊江戸傳馬町牢獄夜中の圖」,朝鮮総督府法務局,1937. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1281840
日本のメディア産業、ポップカルチャーの礎を築き、時にお上に目を付けられても面白さを追求し続けた人物“蔦重”こと蔦屋重三郎の生涯を描く大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。ドラマが展開していく中、江戸時代の暮らしや社会について、あらためて関心が集まっています。一方、歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生がドラマをもとに深く解説するのが本連載。今回は「江戸の牢屋事情その2」について。この連載を読めばドラマがさらに楽しくなること間違いなし!
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なぜか江戸の牢屋事情に詳しい知人
ぼくの友人に、日本史にも時代劇にもさほど興味がない女性がいるのですが、なぜか江戸時代の牢屋について、しっかりとしたイメージを持っていました。
不思議に思って尋ねてみたところ、どうやら大沢たかおさん主演のドラマ『JIN -仁-』(2011年)の影響のようです。
『JIN -仁-』といえば、『べらぼう』と同じ脚本家・森下佳子さんが手掛けて大ヒットした作品ですよね。
主人公の医者、南方仁が幕末にタイムスリップする、というストーリーなのですが、ドラマ内で仁は無実の罪で捕らえられてしまいます。そしてその中で、当時の牢屋の様子が描かれているんです。
このドラマはいまサブスクリプションサービスなどを通じて手軽に楽しめるようで、大沢ファンの彼女は、何度も見返している。そのうちに牢のイメージも脳内に取得できたよう。
机に向かわずに自然と学べるなんて、ドラマの力は偉大だなあ…。
<牢内役人>は受刑者から選ばれる
あらためて、今回も『べらぼう』で平賀源内が命を落とした<江戸の牢屋>について解説をしたいと思います。
まず、当時の牢には12名の牢内役人が置かれていました。
本郷先生のロングセラー!『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)
この役人は牢屋に入っている受刑者から選ばれます。
牢内役人の筆頭、名主(なぬし。牢名主とも)は牢屋奉行の石出帯刀(役職と名前を世襲する)と町奉行所担当与力によって選ばれました。
なお、犯罪者を警察や司法の末端として取り込むというやり方は、平安時代から見ることができます。
牢内ではリンチが横行
このように牢内には、犯罪者の自治組織があった。でもそれは、けっしてクリーンなものではありませんでした。
まず牢内では弱い立場の受刑者らへのリンチが横行したようです。
というのも、牢の収容者の総数は、江戸時代後期には300人から400人、多いときは700人から900人に達した、といいます。
入牢者の増加は、受刑者の牢内生活の息苦しさに直結します。そのために「作造り」という殺人まで行われました。
これは人員削減を目的としていて、入牢者の恨みを買っている者(元岡っ引きや目明かし)、いびきがうるさい者、病気をもっている者、牢外からの付け届けがない者などが標的にされました。
作造りの際には、きめ板と呼ばれる厚板で打ち据えるほか、首を絞める、濡れ手ぬぐいを顔に押し当てる、等々の方法が用いられました。
時には陰嚢を強打する(想像するだに地獄です)、大量の大小便を食べさせる(からだ中に吹き出物ができて死に至る、という説明を読んだことがあります)など、言語に絶する手段が採られることもあったようです。
「作造り」という咎めのない殺人も…
江戸時代に人を殺せば間違いなく死刑ですが、牢の中での出来事については、役人たちも見て見ぬ振り。
作造りの場合も「病気で死にました」と届け出れば、咎めはありませんでした。
牢内には、脱出を阻止するために窓がなく、通風や採光は望めません。
汲み取り式のトイレから大小便の悪臭が立ち込める空間に多数の収容者を閉じ込められるのですから、そもそも内部の環境はこの上なく劣悪だったことでしょう。
結果として、牢内での死者はきわめて多く、たとえば弘化元年(1844年)正月から12月までの死亡者は626人もいたそうです。
現在の中央区日本橋小伝馬町にあったとされる「伝馬町牢屋敷」で獄死したとされる源内も、入獄からおよそ1か月、罪状が決まる前に亡くなってしまいました。
現代まで引き継がれている「切り放ち」
胸が悪くなるような話ばかりしましたので、最後に少し明るくなる(?)話をご紹介しましょう。
江戸市中で10万人超の犠牲者を出したといわれる明暦の大火(明暦3年・1657年〉に際し、石出帯刀(諱は吉深)は収監者を火から救うため、独断で「切り放ち」(期間限定の囚人の解放)を行いました。
彼は収監者に対し「火から逃げられたら、必ずここに戻ってくるように。そうすれば死罪の者も含め、私の命に替えて必ずその行動に報いよう。だが、もしこの機に乗じて逃げるなら、地の果てまで追い、その者のみならず一族郎党全てを成敗する」と伝え、猛火が迫る中で数百人余りの「切り放ち」を実施しました。
収監者たちは涙を流して帯刀に感謝し、約束通り全員が牢に戻ってきたといいます。
帯刀は「罪人といえど約束を守ったのは天晴れである。このような振る舞いはほめられるべきである」と評価し、老中に死罪も含めた罪一等の減刑を嘆願。幕府も収監者全員の減刑を実行する事となったそうです。
この処置はこれ以後江戸期を通じて「切り放ち後に戻ってきた者には罪一等減刑、戻らぬ者は死罪(後に「減刑無し」に緩和された)」とする制度として慣例化されました。また明治になると明文化され、現代まで引き継がれているそうです。
実際に関東大震災や太平洋戦争の空襲の時に、受刑者を「切り放ち」した記録が残っています。
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