終戦直後の旧満州、避難生活を続ける弟たちのために6歳の兄は絵本を描いた……ちばてつやさん
2025年5月9日(金)15時15分 読売新聞
『あしたのジョー』(高森朝雄原作)『のたり松太郎』など、漫画史に輝く名作を生み出してきた漫画家のちばてつやさん(86)は、幼い頃から多くの書物に親しんできました。2歳で旧満州・奉天にいたころから、読書で様々な世界を飛び回ることができたそうです。触れてきた数多くの物語が、創作人生を支えました。
『イソップのお話』河野与一編訳(岩波少年文庫) 968円
本で覆われた壁
東京・練馬のプロダクションを訪ねると、矢吹丈の横顔が一面に描かれた壁がある。壁に見とれていると、やがて丈を背に「こんにちは」と、穏やかで優しい笑顔が現れた。昨年、漫画家として初の文化勲章を受章した。病気や体調不良などで休筆を挟んだ時期もあったが、現在も連載を持ち、読者に応えている。
漫画家のルーツには、物語の力が強烈にはたらいている。東京・築地で生まれ、幼少期を旧満州(現在の中国東北部)で、4人兄弟の長男として過ごした。父は印刷会社で働いており、一家は奉天(現・瀋陽)にあった高い塀に囲まれた社宅で暮らしていた。両親は読書好きで、家の中の壁という壁は、本で覆われていた。「子供向けの本は低い場所に、大人が読む本は高い場所にありました。本棚の前の椅子に座り、横にずらしながら移動して、端から読みふけったものです」。挿絵の入ったページをめくりながら、文字を覚え、絵への興味を養った。
終戦の日を境に、社宅は現地中国人から襲撃をうけるようになった。夜の影に隠れて社宅を出て、各地を転々とする生活が始まった。小さな手で持ち出せた本は、『イソップ物語』と『アンデルセン童話』の2冊だった。「本当はたくさん持って行きたかったんですけど、まだ0歳だった一番下の弟の、たくさんのおむつが必要だったので、ほかの荷物がそんなに持てなかったんです」
途中、一家は、ともに社宅を出てきた会社の仲間たちとはぐれてしまった。途方に暮れていた時、父の会社の部下で親しくしていた中国人の男性と偶然、再会できた。見つかれば自らも危険な状況で男性は、一家を自宅の屋根裏にかくまってくれた。「私の漫画の原点は、この屋根裏から始まったんです」
弟のため「絵本」
近所に自分たちの存在を知られて家主に迷惑をかけられない。兄弟たちは遊びたい盛りでも外に出られず、狭くて薄暗い屋根裏で、物音も立てないよう、息を潜めているしかなかった。
子供の遊び道具などなく、何度も読んだ2冊の本は、すでにぼろぼろで、子供たちは物語に飢えていた。見かねた母が「新しい絵本を作ってあげる」と、「イソップ」を参考に、絵を描き始めるのをのぞき込んだ。「ロバの絵がブタみたいに見えて、下手だなあと思ったんですよ」と笑う。母に代わって紙と鉛筆を手にとり、絵と、今までに読んだ本の内容から着想してお話をつくり、紙芝居のようにして聞かせると、弟たちが目を輝かせた。
「次はどうなるの?」。弟たちにせがまれ、一つ、また一つと、新しく作った。つまらないと、弟たちは寝てしまう。「弟たちを楽しませようと、一生懸命6歳の子供なりに考えました。それが良い練習になったのかな。今でも、これは小さい子が見て、わかってくれるだろうかと、あの頃の弟たちの目を意識しているような感覚がありますね」。やがて父が会社の仲間と合流するまで、屋根裏での生活は続いた。1946年、一家は会社の仲間とともに、引き揚げ船の出る港を目指して貨車に乗り、何十キロ・メートルも歩み続けた。
18年ぶり新刊
56年に貸本漫画の単行本作品でデビューしてから、来年で70年を迎える。日本漫画家協会会長を務める傍ら、ビッグコミック(小学館)で『ひねもすのたり日記』を連載中だ。少年時代や漫画家仲間との思い出、現在の日々などを、隔週4ページフルカラーで語っている。網膜