「銀座」でも「浅草」でも「新宿」でもない…『アド街ック天国』の初回放送が特集した「意外なおしゃれタウン」とは?
2025年5月20日(火)18時0分 文春オンライン
〈 「偽善っぽいチャリティは嫌い」歴代最低視聴率だった“24時間テレビ”をわずか1年で「V字回復」させた“立役者”《24時間マラソンとサライはこうして生まれた》 〉から続く
日本各地の街を特集する番組『出没!アド街ック天国』。当初は東京の街を紹介する名目で始まった。その初回で扱ったのは、銀座や浅草といった「ザ・東京」の街ではなかった。『 「深夜」の美学 『タモリ倶楽部』『アド街』演出家のモノづくりの流儀 』(菅原正豊、戸部田誠著、大和書房)から一部抜粋し、お届けする。本文中の太字部分は戸部田誠氏による記述、それ以外は菅原正豊氏の語り。(全3回の3回目/ 1回目を読む / 2回目を読む )

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菅原正豊の特徴のひとつとして多くの人が口を揃えて挙げるのが、「東京」=「都会的」センスだ。それを色濃く反映した番組のひとつが『出没!アド街ック天国』。1995年から現在に至るまで30年続く長寿番組だ。初代司会者は愛川欽也だった。
「おまっとさんでした! 地域密着系都市型エンターテインメント、『出没!アド街ック天国』。あなたの街の宣伝(本)部長、愛川欽也です」
そんな口上で始まっていたように、コンセプトは「街を宣伝する」こと。もともとの企画書は、「街をひとつの商品と見立てて紹介し、最後に1本その街のコマーシャルをつくる」というものだったという。だからタイトルに「アド」(advertisement)とつけられている。
毎回、東京のひとつの街を取り上げ、ランキング形式で紹介していく。もちろん観光スポットのような名所だけではなく、地元の人しか知らないような店がランクインするのが特徴だ。そして、番組開始からしばらくは、エンディングに愛川を中心に出演者たちが話し合い、街のキャッチコピーを考え、オリジナルのCMをつくるという構成だった。
「原宿」「六本木」よりも「町屋」「亀戸」が人気
『アド街ック天国』は、「テレビ東京のゴールデンタイムの番組をやらないか」と声をかけてもらって、企画を考えたんです。テレビ東京でやるなら、テレビ東京でしかできないものがいいと思った。それで、「東京」しか取り上げないという企画。「毎回東京のひとつの街だけを取り上げる番組」にしようと。これはテレビ東京ならではだって自信満々に提案したら、局の担当者が「うちは他にもネット局がありますよ……」って(笑)。
「東京だけって言ったって、銀座、浅草、渋谷、池袋……とか、10 回くらいやったらもう他にできないじゃないですか?」
「いやぁ、大丈夫ですよ!」
笑って応えるんだけど内心は何とかなるだろう……って。しばらくは東京以外の街はやらないコンセプトで地方はかたくなに拒んでいたのですが、ある時期からネット局もあるので、しょうがないなって少しずつ地方の街も扱うようになりました。そのうち段々と「溝の口」とか「平井」とかシブい街でもできるようになって、テレビって面白いなあと思いましたね。
「町屋」とか「亀戸」のような地味な街のほうが、「原宿」とか「六本木」とかより、いまは数字を獲りますからね。逆に狭くしていったほうが受けるんです。「浦和」だって北浦和、南浦和、東浦和、西浦和、武蔵浦和……って何回もできるようになってきた。
20年前の「町屋」回のある家で、野球のバッティングトレーニングをしている親子がいたんですよ。それが今シカゴ・カブスにいる鈴木誠也※の少年時代。永久保存版です。『アド街』にはこういう過去素材がいろいろ眠ってるんですよ。
※ 1994年生まれ。二松学舍大学附属高校卒業後、2013年に広島カープに入団。21年の東京オリンピックでは日本代表の4番を打った。22年、渡米しシカゴ・カブスに移籍。
銀座でも浅草でもない……アド街が「初回」に選んだ街
やっぱり再開発された街は近代的すぎちゃって……人情味があって歴史のある街の方が味わい深くて素敵ですね。初代司会者の愛川欽也さんも「街は人だ」って言っていましたけど、本当にそう思いますね。でもこの企画、よく通してくれたと思いますよ。東京しかやらない企画なんてあの時代、普通、通らないですよね。当時のテレビ東京の植村編成局長に感謝ですね。企画って誰が乗ってくれるか、ですからね。
1回目は「代官山」だったんです。「銀座」から始めるか、「浅草」から始めるかといったら、やっぱり僕たちは「代官山」から始めたい。『アド街』の1000回を記念するパーティのときに、テレ東の社長さんからも聞かれたんです。なんで「代官山」だったんですか?と。そのときは、こう答えました。
「テレビの番組は何から始めるかで、その番組の目指している方向性を示すことになるんです。銀座だとしたらメジャーな番組にしたい。浅草だともっと年齢層の高い大衆寄りの番組になる。代官山からっていうのは、シャレた番組にしたかったんです」
視聴率を獲りに行こうとすれば、「浅草」だったと思いますよ。でも少なくとも王道からは始めたくなかったんです。当時代官山は同潤会アパートがまだあって、ヒルサイドテラスとかもあって、若い才能が集まり出した頃。景山民夫や評論家の今野雄二なんかも住んでいた。街がオシャレに変わり始めた頃だったんです。この街これから来るぞという雰囲気があった。やっぱりそういう番組にしたかったんですよね。だから、番組ってどこから始めるかが大事なんです。
(菅原 正豊,戸部田 誠/Webオリジナル(外部転載))
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