ラストに抱いた“2つの違和感”とは…映画『教皇選挙』はなぜこれほどヒットしているのか?《興収10億円突破》
2025年5月30日(金)7時10分 文春オンライン
映画『教皇選挙』が興行収入10億円を突破した。日本では3月20日に公開となった同作は、公開直後から大きな話題を呼び、満席の回も続出。映画の舞台となる「教皇選挙(コンクラーベ)」が実際に行われたことでさらなる注目を集め、現在も全国205館で公開中、この後も30館以上での上映が控えているという。
コロナ以降は映画館へ足を運ぶ観客が減りつつあり、殊に洋画は公開作品数、興行収入の両面で苦戦することが多い。カトリックの儀式であるコンクラーベは、日本の観客にとっては身近に感じづらい題材でもある。その意味でも、本作の好調はまさしく“異例のヒット”と言えそうだ。
なぜこれほどヒットしているのか?
しかし実際に本作を劇場で見てみれば、ほとんどの観客はこの映画の大ヒットに、自然と納得するだろう。『教皇選挙』は、宗教を取り扱った難しい作品ではなく、濃厚なポリティカルサスペンスであり、強烈なキャラクター性をはらむ人物たちの群像劇であり、それらの映画的なスペクタクルを彩る美術は極めてゴージャスだ。
加えて、『教皇選挙』はそのほとんどが神秘のヴェールの向こう側に隠されたコンクラーベのプロセスを、綿密なリサーチによって再現した作品となっている。現実世界ではその全貌が隠された宗教的儀式を覗き見る快楽も、この映画にはある。
映画館だからこそできる体験と満足感を携えて、観客は家路につくことになる。だが筆者は、映画としての魅力に溢れる本作に、拭い去れないある違和感を覚えたのも事実だ。 (※本記事では映画の詳しい内容に触れています。未見の方はご注意ください)

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枢機卿たちの個性的なキャラクター
本作の最大の魅力は、何と言っても個性的なキャラクター描写にある。教皇は世界中の教会で信徒たちを導いてきた高位の聖職者=枢機卿の中から選挙によって選ばれる。出身や人種も異なれば、どんなキャリアを通じて枢機卿になったかはそれぞれの人物によってもかなり違う。
教皇の座を巡ってしのぎを削る枢機卿には、聖職者なのにひどく俗っぽく権力にこだわる保守的な者もいれば、教義を強硬に実践するがゆえに人種差別的な思想を持つ者もいる。そうかと思えば、過酷な任地で地道に努力して、広い視野を持った人物もいるものの、往々にしてそういった人物は出世欲が薄く、人に知られることがない。むしろ、保守的だが気のいい年かさの人物ほど親しみやすく人望を得やすかったりもする。
人間関係の機微や出世にまつわる“あるある”
こうした、日常生活にも大いにみられる人間関係の機微や出世にまつわる“あるある”が、『教皇選挙』にはちりばめられている。
本作の視点人物となるトマス・ローレンス枢機卿(演:レイフ・ファインズ)はそんな個性的な面々の中でもバランス感覚に優れる枢機卿として描かれるが、個性的で我が強い候補者の中にあっては右往左往するばかりだ。彼のまとう中間管理職的な悲哀は、劇場に足を運ぶ現役世代には大いに共感できる造形だろう。
『教皇選挙』は欧米では昨年の10月〜11月に公開されたが、当初から「キャラクター推し」のファンアートがSNS上では流行していたことも、本作のキャラクターの魅力の大きさを証明していると言えるだろう。
何よりも「話が分かりやすく、面白い」
また、そんな魅力的なキャラクターが織りなすコンクラーベの政治的駆け引きが、複雑ながらも非常にわかりやすく描かれている点も、本作が多くの人を引き付ける理由となっている。
映画が始まるとすぐに次期教皇として有力視される枢機卿のうち数名がしっかりと紹介され、それぞれの特徴や欠点がわかりやすく説明される。観客が枢機卿のキャラクターをある程度把握した時点で、最有力とされる枢機卿に関する事件が起こり、選挙の勢力図が二転三転する。コンクラーベに参加している枢機卿たちが「今、どんな論点について議論しているのか」「枢機卿にふさわしいのはどんな人物なのか」という議論点が常に明確なまま進行し、なおかつその議論が映画のテーマを徐々に明らかにしていく。
分かりやすさと娯楽性。そして、制作陣が描こうとするテーマが過不足なく整理されて展開していく脚本は 、『裏切りのサーカス』など優れたサスペンスを生み出した脚本家のピーター・ストローハンの手腕によるところが大きい。今年度のアカデミー賞で脚色賞を受賞したことからもわかるように、本作はまず何よりも「話が分かりやすく、面白い」映画なのだ。
映画としての基本的な面白さに加えて、『教皇選挙』には本作にしかない大きな魅力がある。システィーナ礼拝堂を完全再現したセットをはじめとしたゴージャスな背景美術と、その美術をビビッドに捉えたいくつものショットだ。
本作の指揮を執ったのは、2022年度アカデミー賞国際長編映画賞ほか4冠を達成した『西部戦線異状なし』で第一次世界大戦の過酷な戦場を仮借なく再現したエドワード・ベルガー監督だが、その巧みな絵作りは本作においても冴えわたっている。
ひとつひとつのシーンがまるで絵画のように印象深く、映画の物語に意味を持たせている。美しい美術とシャープで計算された撮影が組み合わさることで、ショット一つ一つに意味が付与され、観客はセリフの向こう側にある映画のメッセージを自然と読み取ることができる。
今日的なテーマである「透明化された女性たち」
そして、本作の優れた点は、それらの映画的な達成が映画のテーマを自然と納得させていく点だろう。ベルガー監督はこの映画の重要な要素として、「世界最古の家父長制、つまり伝統的に女性が参画できない政治制度を描いていること」と語っている。
枢機卿達の権力争いの一方で描かれるのは、教会を支えるシスターたちの働きであり、彼女たちの働きがいかに透明化されているかをこの映画はあらわにしていく。家父長制組織の欺瞞。そのテーマはカトリックやキリスト教、あるいは宗教全般になじみのない観客にとっても決して無関係ではないもので、遠い世界の出来事であったはずのコンクラーベは、映画を見終えた観客にとっては、今日的な、当事者としての問題をはらんだ出来事として胸に迫るのだ。
以上の要素を照らし合わせると、『教皇選挙』のヒットはある意味では必然だったとも言える。しかし、この映画としての美点、娯楽として完成された設計は、映画の結末を合わせて考えると、どこか居心地の悪い後味を残す。
高い完成度の一方で…筆者が覚えた“不安”とは
前述したように、この映画は(日本の)多くの観客には馴染みの薄い「カトリック」という題材を扱いながらも、多くの人が理解しやすいドラマ作り、絵作りをおこなっている。ゆえに、非常に共感を覚えやすい。
宗教を扱っている“のに”、わかりやすい映画になっている——。その点に、筆者は上映中、かすかな不安を覚えていた。
※以下、映画のネタバレを含みます。未見の方はご注意ください※
その不安は、クライマックスの展開において頂点に達する。劇中では複数の枢機卿が有力候補として躍り出るが、その誰もが俗っぽいスキャンダルを暴かれて脱落していく。
コンクラーベを通して中間管理職的な立ち回りに終始していたローレンスは自身の信仰と改めて向き直り、教皇となる決意を抱くものの、ダークホース的に現れた枢機卿ベニテス(演:カルロス・ディエス)が、最終的には教皇に選ばれる。柔軟な思想をもってその信仰を紛争地で実践していたベニテスは、伝統と教義に縛られて硬直化した教会組織に変化をもたらすのであろう、という予感がそこにはある。しかしベニテスは、最後の最後まである秘密を隠していた。
その秘密とは、彼がインターセックス(男性や女性に分類されない身体的特徴を持つ人のこと。医学的には性分化疾患と呼ばれる)であり、その体には生まれつき子宮と卵巣がある、ということ。前教皇はベニテスに摘出手術を勧めたが、ベニテスは自身の信仰——神が与えたもうた肉体に手術をする必要はない——に基づいて、その手術を直前で取りやめたという事実がクライマックスで初めて明かされる。女性の聖職者を禁止しているカトリック教会において、ベニテスは生まれ持った体のままで、新教皇となるのだ。
「衝撃の結末」と言って差し支えないこの展開だが、私は何とも言えない違和感を抱いた。その理由は、大きなものとして二点が挙げられる。
ラストに抱いた「2つの違和感」
まず一点、個人の身体的特徴であるインターセックスを、わかりやすく驚きのあるクライマックスのために利用しているように映る点だ。
修道士として幼いころから規律が厳しく世俗的な娯楽から切り離されて育ってきたベニテスは、盲腸の手術を受けるまでインターセックスである自覚がなかった。さらに、おそらく外見や性自認に関しては男性で、カトリック教会もベニテスを男性として扱い続けるだろう。その上でベニテスがインターセックスであることは最後の最後まで秘され続けるため、この映画では同様の身体的特徴を持つ人の困りごとはまるごと捨象されている。
もう一つの違和感は、ベニテスが自身の在り方を受容した論理にある。「ありのままでいい」というベニテスが採用した言説は、非キリスト教徒にも通じやすく共感を呼び、素朴な身体性に基づいたその論理は、どこか自己啓発的な響きを持つ。だが一方で、その理屈を是としてしまうと、個人の選択を結果的に否定してしまうことになりかねない。
“驚きのクライマックス”が優先されているのではないか?
実際にカトリックは、聖書の記述に基づいた教義によって同性愛者差別、トランスジェンダーの性別移行への忌避、堕胎の禁止など、さまざまな問題を抱えている。本作の大きなテーマである女性差別についても、聖書自体が「男性優位的な価値観に基づいたもの」という指摘がなされている。そのため現在は(本作で言うところのベニテスのような)進歩的な思想を持つ聖職者のもとで、古い教義をどのように解釈するかの議論もおこなわれている。
信仰や教義の在り方をいかに維持しながら現代に適応していくか、多様な信徒の在り方を肯定していくか。こうした課題が、属人的な思いや考え方では回収され得ないところに、家父長制組織や伝統宗教の難しさがあり、また盤石さもそこに由来するのだろう。しかし、本作が用意したラストは、そうした複雑な現状をあまりに単純化していたように見えた。
映画としてのクオリティと時代性がヒットを生んだ
この映画は、「伝統的な宗教観」や「教義」について議論、あるいは批判をしていたはずだった。だが、最終的に用意されたサプライズ的な結末が、カトリックもインターセックスも、この映画にとってはあくまで映画的な快楽のために用いられているに過ぎないのではないかという疑念を残す。クライマックスへの驚き、多くの観客から共感を得るための構造を優先したために、カトリックが有する本質的な欺瞞(それは現代社会に対する欺瞞とも接続する)から結局は逸れていってしまうのだ。
しかし同時に、宗教や性的少数者からはあくまで一定の距離を取って、大衆の共感を優先するこのバランス感覚こそが、大ヒットのもう一つの要因でもあるのだろう。現代における宗教の持つ意味、あるいは宗教への眼差しを可視化し、一流の娯楽作へと昇華させた『教皇選挙』。そのヒットは、映画としてのクオリティと時代性という両面から、必然であったのだ。
参考:「 第97回アカデミー賞脚色賞受賞『教皇選挙』監督エドワード・ベルガーにインタビュー カトリックの総本山を舞台にした政治スリラー 」(『エスクァイア日本版』2025年3月9日配信)
(山田 集佳)