『あんぱん』脚本・中園ミホ×アンパンマン声優・戸田恵子「やなせさんを作ったのは奥さまだと書いているうちに気がついた」「アンパンマンの声優はやなせ先生の指名でした」

2025年5月30日(金)12時30分 婦人公論.jp


アニメ『それいけ!アンパンマン』の声優を務める戸田恵子さん(右)とドラマ『あんぱん』の脚本を手がける中園ミホさん(左)(撮影:清水朝子)

この春スタートしたNHK連続テレビ小説『あんぱん』のモデル、絵本作家のやなせたかしさん。戦争や家族との死別など、多くの困難にあっても絶望せず、個性的なキャラクターを通じて子どもたちに伝えたかったメッセージとは。アニメ声優を務める戸田さん、ドラマの脚本を手がける中園さんが、その人柄について語ります(構成:内山靖子 撮影:清水朝子)

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やなせさんとの不思議なご縁


戸田 『あんぱん』、毎日楽しみに拝見しています。「やなせ先生が朝ドラになる!」って、アニメの『それいけ!アンパンマン』に携わっている私たちも、すごく期待しているんですよ。

中園 アンパンマンの分身のような戸田さんにそう言っていただけると嬉しいです。

戸田 今回はなぜ、やなせご夫妻の人生を朝ドラで描こうと思われたんですか?

中園 実は私、子どもの頃から、やなせさんとは不思議なご縁があるんです。10歳のときに大好きだった父が亡くなって悲しみのどん底に沈んでいたときに、母が『愛する歌』という詩集を買ってきてくれて。

戸田 先生が47歳のときに初めて出版された詩集ですね。

中園 ええ、その中に「たったひとりで生まれてきて/たったひとりで死んでいく/人間なんてさみしいね/人間なんておかしいね」という詩が載っていて。その言葉を目にしたときにすごく救われて、やなせさんにお手紙を書いたんです。そうしたら数日後、お返事が届いて。15歳くらいまで文通していました。

戸田 いかにも、やなせ先生らしいお話ですね。先生はどんなことでも「明日にしよう」とは考えない。「いつかはない」と、おっしゃって、その時々で自分ができることに120%の力を注いでいらっしゃいましたから。


「10歳のときに大好きだった父が亡くなって悲しみのどん底に沈んでいたときに、母が『愛する歌』という詩集を買ってきてくれて」(中園さん)

中園 私がお手紙を送ると、すぐにお返事をくださって。なのに、本当に失礼な話なんですが、思春期の頃に、私から文通をフェードアウトしてしまった。そこで交流が途絶えたのですが、19歳のとき代々木の交差点を渡ろうとしたら、向こうからやなせさんが歩いていらして。

戸田 なんという偶然!

中園 ホントに。で、「中園ミホです」と声をかけたら、「え?」って一瞬驚かれたけど、「これから出版パーティに行くので一緒に行きませんか?」って連れていってくださった。でも、その頃、母ががんを患って家で寝ていたので早めに帰らなきゃならなくて。そうお伝えしたら「今すぐ、お母さんと話したいです」と、やなせさんが公衆電話から母に励ましの電話をかけてくださったの。

戸田 そのお話も先生らしい。「人生はよろこばせごっこ」というのが口癖で。イヤなことがあって私がヘコんでいたときも、「困ったり、苦しいときこそ、人がよろこぶことをやりなさい」と励ましてくださいました。

中園 もうひとつ偶然があって。今回の脚本を書くために、先生からいただいた手紙を探していたら、私が6歳のときに描いてもらった似顔絵が出てきたの。その色紙に「やなせたかし」のサインがあったんですよ。

戸田 え〜、それはどうして?


やなせたかし(漫画家、詩人、絵本作家)
1919年高知県生まれ。東京高等工芸学校工芸図案科(現・千葉大学工学部)卒業。戦後、高知新聞社に入社。上京後はデザイナー、舞台美術、漫画家、詩人などマルチに活動。名曲「手のひらを太陽に」の作詞も手掛けた。73年、雑誌『詩とメルヘン』(サンリオ)を創刊し、同年に絵本『あんぱんまん』(フレーベル館)を発表。晩年は病と闘いながら亡くなるまで創作活動を続けた。2013年、94歳で永眠(写真提供:やなせスタジオ)

中園 当時、デパートの屋上に、漫画家さんたちが似顔絵を描いてくれるコーナーがあって、母が姉と私を連れていってくれたんですね。係の人が振り分けて、たまたま私が当たったのがやなせさんだったようで。

戸田 そのときからご縁があったんですね。中園さんが脚本家になられたことを、先生はご存じだったのですか?

中園 多分、知らなかったと思います。私、本当にズボラで(笑)。子育てをしながら連ドラの脚本を書くだけで精一杯ということもありましたけど、「ものを書く仕事につきました」と連絡すればよかったな。でも最近、しきりとやなせさんのことを思い出すようになりました。

戸田 何かきっかけが?

中園 ここ数年、世界で戦争が起きているでしょう。やなせさんも第二次世界大戦の際に戦地に赴き、そのときの想いが作品にも色濃く反映されている。「今の世の中を見て、やなせさんだったらどう思うだろう?」って。それで、今回、朝ドラの仕事の話をいただいたときに、やなせさんと奥さまの人生をモデルにしたいと思ったんですよ。

戦争体験から生まれたヒーロー


戸田 私が先生に初めてお目にかかったのは30歳のときでした。テレビアニメの声優を選ぶのに、私のデモテープを聞いた先生が「戸田さんの声でいきましょう」と、アンパンマン役に指名してくださって。初回の収録にスタジオにいらっしゃったんですね。

中園 「こういう感じで」など、アドバイスがあったのですか?

戸田 いっさいありません。ただ、「アンパンマンはカッコ悪いヒーローです」と。自分の顔をちぎって誰かにあげるとへなちょこになる。それまで私が声のお仕事をしてきたアニメのヒーローとはかなり違いました。

中園 アンパンマンは弟さんをモデルにしたと、やなせさんはおっしゃっていましたね。

戸田 ええ、22歳の若さで戦死した千尋さん。「あんなに才能がある弟が亡くなって、なぜ僕が生き残っちゃったんだ」って。

中園 千尋さんの存在は朝ドラでも大きく扱っています。「なんのために生まれて、なにをして生きるのか」という「アンパンマンのマーチ」の歌詞は、戦争で弟さんを亡くした体験から生まれたのではないでしょうか。

戸田 「正義は逆転する」という言葉も、よくおっしゃっていました。これも、先生が戦争を体験されたからだと思うのですが、「自分が信じていた正義なんて簡単にひっくり返されちゃう」って。でも、唯一ひっくり返らない正義は何かといえば、お腹をすかせて困っている人がいたら一切れのパンを届けること。空腹を満たしてあげられるのが一番のヒーローなのだと、常々おっしゃっていましたね。

中園 そう言えば、文通していたときに「物価高ですが、お米など困っていませんか?」と書いてあったことがありました。うちが母子家庭だったので、心配してくださったのでしょう。

戸田 なんて優しい。

中園 それがやなせさんの本質であり、アンパンマンの神髄なんですね。そんなやなせさんが遺した言葉にどっぷり浸りながら『あんぱん』のセリフを書いていると、私自身もどんどん元気になってくるんです。「日本が経済的に弱くなったから、もうダメだ」なんて弱音を吐いていちゃいけないのだと。苦しい状況でも、今、生きていること自体が素晴らしいのだから。

戸田 がんや心筋梗塞、膵臓炎などいくつもの病気を経験されて、晩年は入退院を繰り返していらっしゃいましたけど、そんな状況でも「人生はよろこばせごっこ」だと。

94歳で亡くなる半年前に、新神戸にできたアンパンマンミュージアムのオープニングにご一緒したとき、目や耳が不自由になられ、足元もおぼつかない様子でした。それでも子どもたちには元気な姿を見せたいと思われたのか、「杖は置いて歩いていくよ」とおっしゃって。私と腕を組み、「司会の人の声が聞こえないので、テープカットするときは僕の肩を叩いてね」と。

最後の最後まで、ご自分の持てる力で精一杯頑張り抜く。そんな先生の姿を思い出すたびに胸が熱くなるんです。

中園 実は、そんなやなせさんを作ったのは奥さまの暢さんなのだと、脚本を書いているうちに気がつきました。やなせさんの生い立ちはかなり複雑で、大切な人との別れや切ないエピソードも数知れず。でも暢さんと結婚してから、人生は明るく楽しいほうへ向かっていくんです。

戸田 奥さまは表の場には出てこない方で。一度だけお目にかかりましたけど、ご挨拶程度のお話しかできませんでした。

中園 資料に残る暢さんのエピソードは5つくらい。でも、そのどれもが私好みの「気の強いタイプの女性」なの。先に東京に出ていた暢さんを追いかけて、やなせさんが上京したり、雑誌の記者時代、広告費を払わない店主にバッグを投げつけたりとか。

ドキンちゃんのモデルが暢さんだというのも知られた話で、朝ドラによくある、夫を支えるタイプの妻じゃない。走るのもとっても速かったと聞いたので、夫をグングン引っ張って人生を切り開いていくヒロインを描こうと思っています。

戸田 素敵!

<後編につづく>

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