真田幸村の「真田丸」とは何か 大河ドラマ放送前に知っておきたい「真田丸」
2015年12月28日(月)14時10分 BIGLOBEニュース編集部
2016年の大河ドラマ『真田丸』が1月10日から放送される。三谷幸喜が脚本を手掛け、「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と称えられた武将・真田幸村(信繁)を堺雅人が演じることで放送前から大きな話題となっている。しかし、真田幸村は知っていても、「真田丸」とは何なのか詳しく知らない人も多いだろう。この記事では、大河ドラマのタイトルにもなっている「真田丸」について解説する。
■「真田丸」とは
関ヶ原の戦いで勝利し江戸幕府を開いた徳川家康が、対立していた豊臣家を滅ぼすため、慶長19年(1614年)に「大阪の陣」起こした。「真田丸」は、この戦において豊臣方の幸村が築いた大阪城の出城のこと。大阪城の南方、平野口に築かれた「真田丸」は、城という言葉から想像するものとは異なり、土塁や柵、堀で区画された半円形の曲輪(くるわ)のような姿だった。その大きさは、東西180メートルほどだったという。
■「真田丸」築城の目的と結果
大阪の陣で籠城策を採ることとなった豊臣方。幸村は、大坂城を防御するうえで弱点となるのは平坦な台地続きとなっている南方であると見抜き、「真田丸」を築いて指揮を執った。大阪冬の陣では、挑発に乗って攻勢を開始した徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢を打ち破ることに成功した。最終的に大阪冬の陣は両軍が和議を結ぶ形で終結、「真田丸」は和議の条件によって破壊されてしまう。
■どうして幸村は「真田丸」を築けたのか
真田家は関ヶ原の戦いの際、父・真田昌幸の居城、上田城で徳川秀忠を退けた。幸村は、大軍を寡兵で撃退した上田城での戦いの経験を生かし、「真田丸」の形状を半円形に築いたと言われている。
■「真田丸」の現在
「真田丸」の跡地には三光神社が建立されており、そこには「真田丸」と大坂城を結んでいたとされる「真田の抜け穴」跡がある。現在入り口は真田の六文銭を掲げた鉄の扉で閉ざされているが、1年に1日だけ、真田祭りの日(例年11月第一日曜日)に開放される。
「真田丸」のほかにも、2016年は大河ドラマ「真田丸」が放送されるため、幸村関連のイベントが多く開催される。おすすめスポットやイベント情報は、「真田幸村ゆかりの地特集」で詳しく紹介しているので、実際に訪れて思いを馳せてみるのはいかがだろう。
真田丸復元ジオラマ
画像提供:天王寺 真田幸村博実行委員会
真田丸跡地「三光神社」
真田幸村(信繁)
上田市立博物館蔵