『スカイラインGT-R(BCNR33型/JGTC/1995年編)』伝説を引き継ぎ守ったR33【忘れがたき銘車たち】

2024年2月2日(金)14時25分 AUTOSPORT web

モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、1995年の全日本GT選手権を戦ったBCNR33型『ニッサン・スカイラインGT-R』です。


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  1990年に全日本ツーリングカー選手権(JTC)でデビュー以降、1993年のシリーズ終了まで29戦無敗という偉業を成し遂げた『ニッサン・スカイラインGT-R(BNR32型)』。これだけの強さを誇ったにも関わらず『R32 GT-R』は、JTCの終了とともに全日本級のビッグレースにおいて戦う場を失ってしまう危機に瀬していた。


 そんな中、1994年に前年より試験的にスタートしていた全日本GT選手権(JGTC)が本格的に始動。再び『GT-R』に活躍できる機会が与えられると同年、見事にGT1クラス(現・GT500クラス)のチャンピオンを獲得する。


 翌1995年はタイトル防衛を目指し、新たなマシンが投入されるに至った。その新たなマシンというのがBCNR33型『スカイラインGT-R』だ。


 『R32 GT-R』のJGTC仕様はグループAをベースとした4WD車や新規製作したFR仕様など、異なるスペックのマシンが混走していたが、『R33 GT-R』になってからはニスモがJGTC用に駆動方式をFRとしたニューマシンを開発し、ホシノレーシングやハセミモータースポーツといったニッサン系のチームに一括で供給する体制になった(4WD車を走らせたワイズスポーツなどの一部例外もある)。


 JGTC仕様の『R33 GT-R』のボディは基本、市販車と同じモノコックを使っているが、ロールケージをスペースフレームを作るように車内に張り巡らせたほか、前後のサブフレームをパイプで新たに作るなどして、R32時代のノウハウを活かし剛性を大幅に向上させていた。


 さらに、サスペンションは市販車のマルチリンクではなく、グループCカーなどで得たデータを基にしてダブルウイッシュボーンへと変更。アップライトにはグループCカーの『R92CP』用を改造して用いられもした。


 搭載されるエンジンは、『GT-R』の伝統である直6のRB26DETTであることに変わりはなかったが、1994年仕様と比較してエンジンマネージメントのシステムが、オーテックジャパンのチューンによって変更されていた。


 そんな『R33 GT-R』は1995年のJGTC第1戦鈴鹿サーキットでJGTCへとデビューする(このレースではニスモのJOMO R33のみ投入)。第2戦からホシノレーシングのカルソニック、ハセミモータースポーツのユニシアジェックスもR32からR33へとスイッチし、本格的に戦いをスタートさせた。


 すると第1戦鈴鹿におけるR32での勝利を含め、6戦中4度表彰台に上がったカルソニックの影山正彦がチャンピオンを獲得。1994年に獲得したタイトルを防衛しただけでなく、影山にとっては1993年の“プレシーズン”時代を含めて、JGTC3連覇を成し遂げたのだった。


 こうして首尾よくデビューイヤーチャンプとなった『R33 GT-R』だったが、翌1996年からは苦しい戦いを強いられることになっていく。

1995年の全日本GT選手権最終戦MINEサーキットを戦ったユニシアジェックススカイライン。長谷見昌弘がドライブした。
1995年の全日本GT選手権開幕戦を鈴木利男、飯田章のコンビで戦ったJOMO R33。
1995年の全日本GT選手権第3戦仙台ハイランドを戦ったジョンソン スカイライン。飯田章、鈴木利男がステアリングを握った。


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