MotoGP:ヤマハOBキタさんの「知らなくてもいい話」/転がるタイヤ(前編)

2020年5月14日(木)18時23分 AUTOSPORT web

 レースで誰が勝ったか負けたかは瞬時に分かるこのご時世。でもレースの裏舞台、とりわけ技術的なことは機密性が高く、なかなか伝わってこない……。そんな二輪レースのウラ話やよもやま話を元ヤマハの『キタさん』こと北川成人さんが紹介します。なお、連載は不定期。あしからずご容赦ください。


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 人生にはターニングポイントが付き物だが、二輪レースの歴史の中でもいくつかターニングポイントがある。


 数あるその中からタイヤに注目して見るとなかなか興味深い事実が浮かび上がってくる。筆者が知る限りでは一つ目はスリックタイヤの登場、二つ目はラジアルタイヤの登場、そして三つ目はそれまでの競争原理が排除されたタイヤのモノポリー化である。


 スリックタイヤもラジアルタイヤも1970年代の初頭に四輪のF-1に投入されたことで脚光を浴びた技術。二輪にスリックタイヤが適用されたのは1974年からだった。


 そして二輪ロードレースにスリックタイヤが浸透してからおよそ10年後にラジアルタイヤが登場し、二輪用レーシングタイヤの性能はまた一段と向上。それに歩調を合わせるようにエンジン性能も年々向上していった。……いや違うな、エンジン性能の向上に対応するべくタイヤ性能の向上が促されたと言ったほうが正しいだろう。


 またタイヤ性能が向上すると、それを使い切るべくシャシの性能向上もはかられ、タイヤに適合するためのさまざまな改良も促される。これはマシンだけではなく一部のライダーにもライディングスタイルの変化を求める結果となり、適応できないライダーは残念ながら争いの場から脱落していくことになるのだ。


 タイヤの構造的な変革のみならず、タイヤメーカーが異なるだけでも本来のパフォーマンスが出せないライダーも存在する。1998年にレッドブル・WCM・ヤマハチームから世界グランプリの500ccクラスに参戦したサイモン・クラファー選手もそのひとりだ。


■ダンロップからミシュランタイヤにスイッチしたサイモン・クラファー


 彼は当時低迷していたヤマハ陣営にあって同年の500ccにおいて唯一優勝したライダーで、そのレースは第8戦のイギリスGP、履いていたタイヤはダンロップだった。彼が開催サーキットとなったドニントンパークを熟知していたこと(ちなみに彼はニュージーランド人)、タイヤを供給するUKダンロップもコースを熟知していることが優勝につながったと思われる。しかし、このイギリスGP以外ではオランダとオーストラリアで表彰台に上っただけで、あとは全く精彩を欠いた。


 彼は(ほかの多くのライダーもそうだが)タイヤのエッジグリップに依存するライディングスタイルが特徴だった。当時のダンロップは構造的にサイドウォールが柔らかくて、ゆえにフルバンク付近で感触が頼りないという不満を彼は常々漏らしていた。そこで翌年はミシュランにスイッチ。前年以上の躍進が期待されたが、ここで彼は大きなトラップにはまることになる。ありていに言えば、ミシュランとダンロップの特性の違いに適応できなかったのだ。


 当時のミシュランもエッジグリップは決して高いとはいえなかった。その代わりマシンをフルバンクから少し起こしたところのグリップは非常に優れていたので、ライダーはそれを生かすように走りかたを変える必要があった。いわゆる「ミシュラン乗り」と言われるスタイルだ。残念ながら彼はこの特性に適応することができなかったようで、シーズン半ばでそのシートをオーストラリア出身のギャリー・マッコイ選手に奪われるという厳しい結末となった。結局、彼のグランプリ挑戦はこの年をもって終わってしまった。


「たられば」になってしまうが、あのままダンロップを使い続けていれば彼のグランプリにおけるキャリアはもう少し長くなったのかもしれない。そういう意味でここがまさしく彼にとってのターニングポイントであったといえるだろう。そして彼の人生における輝かしい瞬間は、ダンロップタイヤにとっても二輪ロードレース最高峰クラスにおける目下最後の栄光となってしまったのである。(中編に続く)


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