ユースは「太い柱」、それでも「全国高校サッカー選手権」はやめない…川淵三郎が「断固反対」したワケ
2024年12月3日(火)10時0分 読売新聞
サッカー・Jリーグ初代チェアマンで、日本サッカー協会会長などを歴任した川淵三郎さんが、読売新聞ポッドキャスト「ピッチサイド 日本サッカーここだけの話」に出演。スポーツ団体や大会における「歴史」や「伝統」の重要性を、番組MCの元男子日本代表の槙野智章さんと語った。
ナビスコカップ誕生の舞台裏
1993年にスタートしたJリーグは当時、新しいスポーツリーグとして華々しいスタートを切った。ただ、意外にも川淵さんはスポーツにおける「伝統」や「歴史」の重みを強調して、Jリーグ誕生前の体験を明かす。
「もう覚えていないだろうけど、ナビスコカップ(現・YBCルヴァンカップ)をスタートするとき、わりかた、みんな『やる必要ない』って反対したんだよね。僕は『よく分かってない』って断固(開催を決めた)。どんな大会だって1回目がある。数を重ねていくうちに値打ちが出てくる。そういうためにナビスコカップをやるべきだと言って。30回以上続けて今は値打ちのある大会になったわけだから」
伝統という意味では、今年103回目をむかえる全国高校サッカー選手権大会についても同じだ。Jリーグの各クラブが運営するアカデミー出身の代表選手が増えたが、上田綺世(フェイエノールト)らは、全国高校サッカー選手権大会の出場経験を持つ選手たちだ。
「Jリーグができた時に選手権大会をやめて、クラブとの日本一を決める年代別の大会をやろうと言われて、俺は断固反対したんだよね。選手権大会って長い歴史がある。歴史は大事にしなきゃいけない。伝統っていうのはね、絶対に大事なんだよ」
廃止論に「待った」
高校サッカーとJリーグのクラブチームのアカデミー組織。この二本柱がそれぞれ存在できているのが、日本サッカー界の特色でもあるという。
「日本と海外で違うのは高校サッカーなんだよね。これはやっぱり大事なんだ。太い柱が高校サッカー。今はクラブチームのユースも太い柱になってきたけど、支えてきたのは高校サッカーなんだよ。だから高校サッカーを大事にしながら、クラブとも切磋琢磨してやっていく今のあり方はすごくいいと思う」
12月28日に開幕する今年の全国高校サッカー選手権大会は、全国から48校が出場し、決勝は1月13日に開催される。
「(選手権大会は)最後までひたむきな姿勢がすごくいいよね」。もし、選手権大会をなくしてしまっていたら? 日本のサッカーは今のように世界で戦えていただろうか。
どうして学校の芝生化?
川淵さんがチェアマンを務めていた時代、Jリーグは「百年構想」と銘打って大々的にキャンペーンを展開。その中の一つが、学校の校庭の芝生化だ。日本サッカー協会もJリーグと歩調を合わせ、校庭や公共のグラウンドの芝生化を推進している。
「日本代表の強化は僕が必死にならなくても誰かが必ずするわけ。そんなことより、草の根の育成が日本にとって一番大事。しかも、子どもの体力は1985年以降からガタ落ちになっている。こんなことでは健康寿命を全うできやしない。子どもの健康な体づくりのためにサッカー界は力を注ぐべきで、そのために芝生のグラウンドというのは絶対必要。だから小学校の校庭を芝生のグラウンドにしようと動いた」
「僕が関係しただけでも1500校以上が芝生の校庭になった。当時は小学校の野球関係者から『サッカーのために芝生のグラウンドをつくるんでしょ。野球は困ります』って言われた」
川淵さんはそういった声を否定する。
「(土のグラウンドだと)休み時間、校庭の真ん中に出てこなくて、端っこの方で遊ぶだけ。芝生の校庭になったら、みんな真ん中に出てきて、走り回る、跳び回る、滑り込む。体を使って自分たちで楽しく、自分たちで遊びを考える」
校庭の芝生化は、子どもたちが体を動かしたくなる環境づくりだ。
「雨が降っても水たまりができない。小鳥やトンボが飛んでくる。自然に触れ合える。だから、『芝生のグラウンド、芝生のグラウンド』って(Jリーグの)初めから言ってるんだよ。サッカーのために芝生の校庭をつくろうとしていると必ず言われるんだけど、子どもたちが少しでも体を動かすことで体が鍛えられ、100歳までちゃんと生きられる体力を身につけられる。遊びの中で育ってくれればなって、僕は今一番思ってる」
プロフィル
川淵 三郎(かわぶち・さぶろう)
日本トップリーグ連携機構会長、Jリーグ初代チェアマン。早稲田大学、古河電工サッカー部でプレー。サッカー日本代表として1964年東京五輪に出場。現役引退後は古河電工監督を経て、80年〜81年に日本代表監督。Jリーグチェアマン、日本サッカー協会会長(キャプテン)として「日本サッカーの強化」と「地域スポーツの振興」に力を注いだ。2009年に旭日重光章、15年に文化功労者。1936年、大阪府生まれ。