上杉謙信の死因である「虫気」とは?上杉景勝書状から考える結論

2024年1月21日(日)6時0分 JBpress

(歴史家:乃至政彦)


上杉謙信の「虫気」

 上杉謙信は享禄3年(1530)1月21日生まれである。亡くなったのは、天正6年(1578)3月13日である。

 生没年月日が明確に伝わっている戦国大名は意外に希少で、しかも謙信の場合、その死因まで明記されている。

 謙信の死因は「虫気」である。

 これは、一次史料の上杉景勝書状にはっきりと記されている。ただし、その解釈は微妙である。

 通説は、謙信が「脳卒中」で亡くなったとしており、その根拠をこの景勝書状にある「虫気」としている。私はここに異論がある。

 景勝は同時期にほぼ同じ内容の書状を、複数の人物に書き送っている。

 そのひとつを次に示そう(『上杉家文書』六七二号文書)。

態用一書候、爰元之儀可(「無」欠)心元候、去十三日、謙信不慮之虫気不被執直遠行、力落令察候、因茲遺言之由而、実城へ可移之由、各強而理候、任其意候然而、信・関諸境無異儀候、可心易候、扨亦、吾分事、謙信在世中別而懇意、不可有忘失候、肝要候、当代取分可如意之条、其心得尤に候、猶喜四郎(=吉江信景)可申候、穴賢々々、

「追啓、謙信為遺言刀一腰次吉作秘蔵尤候、以上、」
         三月廿四日     景勝〈花押〉
         小島六郎左衛門(=職鎮)とのへ

 ここで景勝は、「さる13日に謙信が不慮の虫気から回復されず、遠行されました」とその死因を虫気であることを述べている。そして、人々が景勝に謙信の「遺言」がある通り「実城」に入るよう強く主張したため、彼らの意思に従ったことを述べている。最後に追伸として、謙信の「遺言」であなたに「次吉作」の刀をひとつ贈るので、大事にしてくださいと述べている。

 現在の通説は、ここにある「虫気」を「脳卒中」と解釈するが、その場合、この書状は景勝の信頼を無くすものとなってしまうのではないだろうか。


景勝が意図する「虫気」の意味

 なぜなら景勝は謙信の「遺言」によって自分が後継者になったことと、書状を書き送った小島職鎮に形見分けを認めることを伝えているからである。

 当時の医療技術からすると、「脳卒中」に倒れた謙信が後継体制の指示、一家臣への心遣いまで指示する遺言を残すことができたとは考えにくい。

 謙信は、意識がはっきりしており、個々への気持ちを思い巡らせながら、明確に言葉を発する状態にあった。少なくとも景勝はそう伝えている。すると景勝は「虫気」を、「脳卒中」の意味では使っていないと見るべきだろう。

 脳卒中で倒れていて回復することなく亡くなったと言っているなら、この「遺言」は自分の捏造ですと言っているも同然になってしまう。こうした公的書状は、側近たちの補佐のもの作成される。実城(謙信の公邸)に移り住むのだから、景勝の左右には謙信の遺臣たちがいる。

 謙信死後の体制を整える重要な時期に、謙信の遺臣たちが軽率な表現を使うとは思われない。

 そもそも中世から近世の史料において、「虫気」を「脳卒中」とする用例が見当たらない。原則として、「虫気」は「腹痛」の意味で使われている。

 わかりやすい例があるので、次に3点ばかりこれを挙げておこう。


中世の用例から導く結論

 1点目に、興福寺大乗院の門跡経覚による自筆日記『経覚私要』の応仁元年(1467)2月6日条には、「余、今夜より虫気以つての外なり、一両度反吐をこれ為し、迷惑しめすもの也(私は今夜、ひどい虫気になり、二度も吐きました。困ったものです)」とあり、ここでいう「虫気」は脳卒中と解釈するよりも「腹痛」とみるのが妥当だろう。

 2点目に、若き日の武田晴信が春日源助に書き送った起請文(通説は天文15年[1546]に比定する)を見ると、「弥七郎に頻りにたびたび申し候えども、虫気の由、申し候間、了簡なく候(弥七郎に何度も呼びかけたが、虫気になったと知らせがあり、理解されていませんでした)」とある。この「虫気」も「腹痛」の意味で読むのが自然であろう。

 3点目に、慶長4年(1599)元旦のことを記す村井長明の書いた『陳善録』を見ると、「(前田利家が豊臣)秀頼様へ御礼の時、利家様御虫気を発し候よしにて、御城御台所の際に、内証にて御装束成されるべくよしにて(豊臣秀頼様のもとへ元旦の挨拶に出向くところ、前田利家様が虫気になられたので、こっそりと別室で装束を用意なされた)」とあり、虫気が原因で着替えの用意をしたことを記している。その後、利家はお供3人を連れて「秀頼様御礼申し上げ候」とあり、不調ながらも動くことはできたようである。

 当時の医療技術で、脳卒中のあと、吐き気に苦しみながら日記を書いたり、主君に病状を申告したり、年始の挨拶に赴くことができたとは思えない。

 いずれも強い「腹痛」の意味で使われていると考えるしかないが、謙信だけ例外として「脳卒中」と同義に見るのには、それなりの説明を要すると思うが、どうであろうか。

 謙信の死因は、脳卒中ではなく、腹痛を伴う内臓疾患だろう。家臣や景勝たちも謙信から「景勝は実城に入り、わが跡を継ぐこと。この人物にはこの刀を肩身をわける」などと遺言をしかとその耳で確かめたと考えるのが自然である。

【乃至政彦】ないしまさひこ。歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(ともにJBpress)、『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。現在、戦国時代から世界史まで、著者独自の視点で歴史を読み解くコンテンツ企画『歴史ノ部屋』配信中。

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筆者:乃至 政彦

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