『光る君へ』藤原道長の兄の生涯、道隆は定子の父となり道兼は天皇を欺いた?

2024年1月22日(月)8時0分 JBpress

文=鷹橋 忍 

 大河ドラマ『光る君へ』では、藤原道長の同母兄(次兄)である玉置玲央が演じる藤原道兼が、紫式部(ドラマでは、まひろ)の母を殺害したり、坂東巳之助が演じる円融天皇の食事に毒を盛らせたりするなどして、注目を集めている。

 今回はその藤原道兼と、道長のもう一人の同母兄(長兄)・井浦新が演じる藤原道隆を取り上げたい。まずは、長兄の藤原道隆からみていこう。


道隆の容貌は?

 藤原道長の長兄・藤原道隆は、天暦7年(953)に生まれた。

 康保3年(966)生まれの道長より、13歳年上である。

 宇多天皇(在位887〜897)から堀河天皇(在位1079〜1107)までの15代・約200年間を扱う編年体歴史物語である『栄花物語』と、平安時代後期成立の紀伝体による歴史物語『大鏡』には、道隆にまつわる説話が載っている。

 道隆の容貌に関して、『栄花物語』巻第三「さまざまのよろこび」には、「御かたちも心いとなまめかしう(容姿も心も、大変に優雅でいらっしゃった)」とある(校注・訳 山中裕 秋山虔 池田尚隆 福長進 『新編日本古典文学集31 栄花物語①』)。

『大鏡』にも、「御かたちぞ、いと清らにおはしましし(容姿が実に綺麗でいらされた)」と記されている(校注 石川徹『新潮日本古典集成 大鏡』)。


妻は才媛

『栄花物語』巻第三「さまざまのよろこび」によれば、道隆は、あちらこちらの女性と情を交わしていたが、誰よりも気に入っていたのは、板谷由夏が演じる高階貴子(生年不詳〜996)だった。

 高階貴子は、高階成忠(923〜998)の娘だ。高階成忠は人から煙たがれていたが、学問には秀でていたという。

 貴子も、女性に漢学の素養は無縁であった時代において、実に見事に漢字を書くなど才識が豊かだった。円融天皇の代に宮中の女房として出仕し、掌侍(内侍司の三等官)に任命され、高内侍と称されたという。


娘は清少納言が仕えた、中宮藤原定子

 道隆と貴子との間には、三男四女の子が誕生している。

 そのなかで、高畑充希が演じる長女の藤原定子(976〜1000)は、正暦元年(990)正月、15歳のときに、塩野瑛久が演じる一条天皇(980〜1011 在位986〜1011 /円融天皇と吉田羊が演じる藤原詮子の子)の後宮に入内し、同年10月に一条天皇の中宮となった。

 当時、一条天皇は11歳。定子より4歳年下であった。

 定子は天皇に寵愛され、その生活は定子に仕えた、ファーストサマーウイカが演じる清少納言(生没年不詳)の『枕草子』に描かれている。

『枕草子』には、道隆も何度も登場している。才気溢れる清少納言を定子の側近としたのは、道隆だともいわれる(繁田信一『殴り合う貴族たち』)。


死因は酒の飲み過ぎ?

 道隆は無類の酒好きだったと伝えられる。

 車中で飲み仲間の藤原済時(941〜995)、藤原朝光(951〜995)と痛飲し、酩酊して、簾を上げて冠を脱ぎ、髻を人前に晒した。

 また、下鴨神社では、素焼きの杯で御神酒を3杯飲むのが定例だが、道隆の酒好きを知る神主・禰宜は、特大の杯に酒をついで差し出した。

 道隆はそれを7、8杯ほども飲み、上賀茂神社へ参拝に向かう途中で、車の後の方を枕に、眠り込んでしまったなど、『大鏡』には、道隆の酒にまつわる説話が綴られている。

 道隆は疫病が大流行した長徳元年(995年)に43歳で死去するが、死因は疫病ではなく、酒の飲みすぎによる病だった。

 亡くなる直前に、念仏を唱えるように勧められると、道隆は「済時、朝光なども極楽に往生しているだろうな」と飲み友達の名を口にしたことが、『大鏡』には記されている。

 きっと極楽でも三人で、飲み明かしていることだろう。


道兼は顔色が悪く、毛深い?

 藤原道兼は、応和元年(961)に生まれた。

 弟の道長より5歳年上である。

『栄花物語』巻第三「さまざまのよろこび」では、道兼の外見について、「顔色が悪く、毛深く、ことのほか醜い」と称している。

 気性については、「大変に老成していて男らしい」としつつ、「何となく恐ろしく感じるほど、意地悪く口やかましい」と記されている。

 また、長幼の序(年長者と年少者の間の守るべき秩序)を破り、兄の藤原道隆に意見したという。


花山天皇を欺いた?

 寛和2年(986)6月、本郷奏多が演じる花山天皇(968〜1008 在位984〜986)は、宮中を抜け出し、突然に出家した。

 代わって、一条天皇が7歳で即位。

 一条天皇の外祖父である、段田安則が演じる藤原兼家が摂政となるという、政変劇が起こった(寛和の変)。

 一般に、これは一条天皇の即位を急ぐ藤原兼家が、道兼ら息子たちと図り、花山天皇を出家に追い込んだとみられている。

『大鏡』では、このとき道兼は、「自分も一緒に出家し、弟子となって仕える」と約束して信用させ、宮中から密かに脱出した花山天皇を出家へ導いている。


父親の供養を拒んだ?

 道兼の父・兼家は、正暦元年(990)5月、道隆に関白の座を譲ると、7月に亡くなった。

『大鏡』によれば、道兼は父・兼家の四十九日の服喪には、土殿(喪中に籠もる場所)にも入らず、読経も念仏も唱えなかった。

 それだけではない。仲間を呼び寄せ、『後撰和歌集』や『古今和歌集』を広げて、即興の冗談や洒落を言って遊び、少しも嘆かなかった。

 その理由は、父・兼家が関白職を、兄・道隆に譲ったからだという。

「花山院を退位させたのは、この私だ。だから、関白職は私に譲るべきだ」というのが、道兼の主張である。

『大鏡』では、道兼の主張を「世間では通らない非常識な話」と断じている。


七日関白

 長徳元年(995年)4月10日、道隆が死去すると、4月27日、一条天皇は道兼を関白の座につけた。

 念願の関白職を手に入れた道兼だったが、同年5月8日、道兼も35歳で、この世を去った。道兼も病に冒されていたのだ。

 世の人々はこれを、「七日関白」と称したという。


【藤原道隆、道兼ゆかりの地】

●豊楽院

 平安京大内裏の朝堂院の西にある一角。節会や大宴会が行なわれた。

『大鏡』には、藤原道隆、道兼、道長の三兄弟は、五月下旬の、気味悪く大雨が降る夜に、花山天皇から肝試しを持ちかけられる説話が載っている。

 そのとき、道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿の塗籠、道長は大極殿まで行くように命じられたが、道隆は得体の知れない声を聞き、途中で引き返した。

●仁寿殿

 平安京内裏の中央にあった建物。もとは天皇の御座所。のちに、内宴や相撲などを行う場所となった。

 前述の肝試しにおいて、道兼は仁寿殿の東側の敷石の辺りに、軒に届くほど背が高い人が立っているように見えて、やはり引き返している。

筆者:鷹橋 忍

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