下重暁子 藤原道長からいじめ抜かれた定子を清少納言は懸命に守ったが…紫式部が日記に<清少納言の悪口>を書き連ねた理由を考える

2024年4月10日(水)12時30分 婦人公論.jp


(写真提供:Photo AC)

2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』で注目を集める平安時代。主人公の紫式部のライバルであり、同時代に才能を発揮した作家、清少納言はどんな女性だったのでしょうか。「私は紫式部より清少納言のほうが断然好き」と公言してはばからない作家、下重暁子氏が、「枕草子」の魅力をわかりやすく解説します。縮こまらず、何事も面白がりながら、しかし一人の個として意見を持つ。清少納言の人間的魅力とその生き方は、現代の私たちに多くのことを教えてくれます。

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最後の一人になっても離れないと誓った、定子への想い


清少納言が仕えた中宮・定子との絆がさらに深くなったのは、皮肉にも、道長からのいじめともとれる行動が如実になったことがきっかけでもあった。
道長は娘彰子を十二歳とまだ少女のうちに入内させ、天皇にはいくら定子を愛しているといっても、権力を握る道長に反抗する力はなく、ここに、一条天皇をめぐって二人の后が並立するという珍事が実現したのである。
定子を皇后と呼び、彰子は中宮になる。これを見て、清少納言の定子への思いはますますつのる。
「枕草子」(第二百二十三段)にも書かれているように、最後の一人になっても決して定子のそばを離れまいと決心して、四ヵ月の休みの後定子の元へもどる。
それを定子は、とがめるでもなく、ユーモアを交えて迎え、ほっとした清少納言もそれまでと同様、いやそれ以上に懸命に宮仕えにはげんだ。もはや定子を守ることだけがつとめであり、道長方からの様々ないじめや政変を書き残すことが使命となったのである。
ところが、うち続く身のまわりの悲劇にたえかね、一条天皇の愛情だけを頼りに、一年ごとにたて続けに子供をみごもった肉体的な負担も追い討ちをかけたのか、定子は二人目の皇女の生誕を待つように亡くなってしまった。
二十四歳という若さであった。

定子との別れ、心の支えが失われた後の清少納言は……


清少納言の心の支えは完全に失われてしまった。
厳しい環境の中で定子への思いだけで、宮仕えを続けていた清少納言の意地もくじかれてしまった。

すでに三十五歳になっていた。それからあとの清少納言がどう過ごしたかは、よく知られてはいない。
定子の遺児たちの下に仕えることも考えられたが、それも中宮となった彰子が面倒を見ることになってはもはや居場所はない。父の残した家にもどって、「枕草子」の完成まで書き続けることに心血をそそいだ。
すでに清少納言が最初の夫・則光の後結婚した藤原棟世との間にできた子供達も大きくなり、下の娘小馬命婦(こまのみょうぶ)も十歳になり一緒に住んだと考えられる。
一方夫である棟世は、六十四歳という当時としては老齢になり、宮仕えに出た妻に今さら文句を言うでもなく、迎え入れたのであろう。
そのあたりは、諸説あって、清少納言の晩年は謎になっているが「枕草子」だけは清少納言の思いを乗せたまま確実に残されたのである。

見事な政治家、道長と紫式部


さて彰子の教育係として道長から抜擢された一方の才女紫式部はどうしたか、清少納言との違いをながめてみよう。
この世の春となった彰子の元にあって彼女の才もまた大きく開花する。
道長の歌、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」。
道長という人は権謀術数を駆使して権力を手中に収めた後、相手方をめった打ちにして、再び立ち上がる力をなくしたのを見て、以後温和に扱うあたり、実に見事な政治家である。
恨みを恨みのまま残すのではなく、許す方向に持って行き、太平をもたらすという老獪さを持ち合わせていた。
しかし、彼が、彰子のためにあつめた女性達はそうではなかった。恋多き女として知られる和泉式部などは、定子方の清少納言の才をスカッと認めていたが、紫式部はそうではなかった。
「枕草子」の中に書かれた紫式部の夫藤原宣孝(のぶたか)や従兄藤原信経(さねつね)についての描写を決して許すことができなかった。
清少納言の直情的にものを言うその言葉によほど傷ついたのだろう。
清少納言の方にも自分より若くして力を発揮した閨秀(けいしゅう)作家・紫式部に思う所あったのか。しかし、それほど深い悪意があったとは思われない。

作品の精巧さと同様に、恨みも深かった



紫式部と清少納言にはライバル関係が?(写真提供:Photo AC)

というのは清少納言という人の性情は、ねちこく誰かに妬みを持つという所が、その言動からして感じにくく、むしろ紫式部が必要以上に清少納言を意識した結果だと思う。
もう一つ紫式部の氏・素性は辿ることができるほどしっかりしたものだったために、位の低い清少納言から言われたことを許せなかったこともあろう。この時代いくら女自身に才があろうとも、男の係累が物を言ったのである。
『清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほどもよく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行末うたてのみ侍れば』(「紫式部日記」)
紫式部の恨みは激しく、決して許すことはない。現在の清少納言への悪口、さらに清少納言の将来にまで思いを馳せる。
このことから見ても紫式部という人はその作品「源氏物語」の精巧さから見ても人に心の内を見せることがなく、優秀なだけに、かえって煙たがられることもあったのではないか。
まわりの女官達からは尊敬されても近づきにくい所があり、性格的にも清少納言とは違って隙のない人物のような気がするのである。

※本稿は『ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考』(草思社)の一部を再編集したものです。

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