フランスからみた幕末日本、ロッシュからの外交の変化と転換、失敗までの経緯

2024年1月24日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)

◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか①
◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか②
◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか③


フランスの琉球進出

 ナポレオン帝政(1804〜15)後のフランスは、東アジアヘの進出に熱心であり、特にその矛先はインドシナ半島に向いていた。日本との接触は、中国(清)と薩摩藩による二重支配を受けていた琉球から始まった。当時の琉球は、清による冊封体制下で朝貢国として存在すると同時に、薩摩藩による実効支配を受けていた。つまり、両属関係にあったのだ。

 天保15年(1844)、東洋艦隊のアルクメール号が琉球列島に来航し、首里王府に和親と通商、キリスト教布教を求めた。2年後の弘化3年(1846)、セシル提督が那覇に来航し、再び条約締結を迫ったが琉球はこれを拒否した。もちろん、その決定には薩摩藩の意向が反映していた。

 これ以降も、フランスの東アジア政策は日本本土によりも、琉球列島に対して重点が置かれた。安政2年(1855)、那覇に来航したゲラン提督は軍事的圧力を行使し、琉仏和親条約を締結させた。その後、フランスが他の列強と対日政策で足並みを揃えるのが安政の5ヶ国条約(安政5年、1858)からであり、当初はイギリスと同一歩調であったのだ。


ロッシュの登場と対日外交の変化

 フランスの転機はロッシュ公使の来日であり、イギリスとの協調外交を改めることになった。その背景として、ナポレオン3世による第二帝政下のフランスが極東市場を重視しており、積極的な外交展開をロッシュに要請していたのだ。

 ロッシュは、日本を代表する政府は依然として幕府であるとの認識を持っており、幕府、とくに新将軍の徳川慶喜に接近してパイプを強化するために数々の助言や援助を行った。時にロッシュの動向は本国の意向を遥かに超え、著しく幕府に肩入れすることになったのだ。

 ロッシュの対日政策は、横須賀製鉄所の建設、横浜仏語伝習所の開校、パリ万国博覧会への参加実現などに代表される。さらには、経済使節団を来日させ、600万ドルの対日借款や特別貿易計画を策定し、武器契約の売り込みを行った。

 また、幕府は近代的で強力な陸軍を創設するため、フランスに軍事顧問の派遣を依頼した。これを受け、参謀大尉シャノワーヌや陸軍砲兵大尉ブリュネが幕府軍創設のために日本に派遣された。彼らによる軍制改革は、フランス軍をモデルとする近代的な軍制度を我が国にもたらしたのだ。


フランスの親幕外交とイギリスとの対立

 ロッシュは、反イギリスのプロパガンダを幕閣に展開し、幕府内部に小栗忠順や栗本鋤雲らの親仏派を形成することに成功した。ロッシュは幕府とフランスとの経済的な関係を深めるため、幕府に対して、生糸を独占的にフランスへ輸出することを提案した。ロッシュには自国の絹工業の原料となる、日本からの生糸の輸出を独占しようとの魂胆があった。

 当時、ヨーロッパを襲った蚕の病気によって、フランスの養蚕業も壊滅的打撃を受けていた。そのため、日本の生糸をフランスが独占的に輸入できれば、幕府への援助のみならずフランス本国の利益にもなると判断し、一挙両得を画策したのだ。こうした蜜月関係は親仏派を勢いづけ、幕府はフランスを後ろ盾として、長州再征以降の政局運営を図ることになったのだ。

 一方で、フランスの幕府への接近政策、特に生糸独占の意向はイギリスに大きな不信感と対抗心を抱かせた。パークスは、日本語に巧みな書記官アーネスト・サトウを日本各地に派遣し、情報収集を図るとともに、薩摩藩が主張する天皇の下に徳川将軍も同列においた諸藩連合による新政府樹立という構想への理解を示し始めたのだ。


フランス本国の方向転換

 こうしたイギリスの幕府離れは、慶喜に大きな危機感を抱かせ、イギリスの懐柔を施させた。しかし、パークスは内乱によって、有力な市場である日本が混乱することを恐れた。パークスは、あくまでも薩摩藩や長州藩といった有力な西国雄藩による王政復古を期待したのだ。幕府の最後の拠り所はフランスのみとなり、ロッシュによるバックアップを期待せざるを得なかった。

 こうした中で、フランス本国においては、対日政策が大きく転換する事態に直面していた。外相が更迭され、新任外相は対日政策に極めて消極的であり、ロッシュを召還することを決定してしまったのだ。フランスの対日政策の転換には、ヨーロッパ大陸においてプロシアとの対立を深め、国内においてもナポレオン3世が民衆の支持を急速に失いつつある背景が存在した。


フランスの対日外交の失敗

 政権末期のこうした状況下にあって、対アジア外交の縮小が企図された。フランスは、アジア侵略の拠点としていたのはコーチシナ(ベトナム南部)の確保を最優先とした。それに伴い、既に日本を代表する政府として機能していない幕府を支持し続け、イギリスと対立を深めることは危険極まりないとの判断があった。

 日本における事態の推移は、イギリスの期待通りとなり、ロッシュは召喚されてしまい、フランスの対日外交は失敗に終った。しかし、フランスが幕府にもたらした様々な先進的な技術は、明治期以降の我が国の殖産興業・富国強兵に大きく寄与した事実は、記憶に止める必要があろう。

 次回は、鎖国日本において、欧米で唯一の窓口となったオランダと、早くから南下政策を始めて、常に日本に脅威を与え続けたロシアの対日動向を探ってみたい。

筆者:町田 明広

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