台東区の4歳児中毒死事件に思う。家庭内でスケープゴートにされる子ども。虐待死を防ぐために必要な支援と、きょうだいのケアを願う

2024年2月16日(金)12時0分 婦人公論.jp


写真提供◎photoAC

台東区で4歳児が薬物によって中毒死し、両親が逮捕されるという痛ましい事件が起きた。父親による性虐待、母親による過剰なしつけという名の虐待を受けながら育った碧月はるさん。これは特殊な事例ではなく、安全なはずの「家」が実は危険な場所であり、外からはその被害が見えにくい。きょうだいでも虐待されたのは自分だけ…何度も生きるのをやめようと思いながら、彼女はどうやってサバイブしてきたのか?虐待当事者としての思いを綴る

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第7回「父の性虐待、母の暴力…兄も姉も両親に愛された。どうして、私なんだろう…家を逃れた先は閉鎖病棟だった」はこちら

4歳次女の殺害容疑で両親逮捕


2024年2月14日、X(旧Twitter)上に「両親逮捕」のトレンドが並んだ。このワードを目にした瞬間、また子どもが殺されたのだと直感した。

昨年3月13日、東京都台東区のマンションから救急搬送された細谷美輝(よしき)ちゃんが病院で亡くなった。享年4歳。司法解剖の結果、美輝ちゃんの体内から抗精神病薬の成分と、工業用に使われる「エチレングリコール」がそれぞれ検出されたという。

2月14日午前、美輝ちゃんの両親にあたる父親の細谷健一、母親の志保両容疑者が殺人容疑で逮捕された。

美輝ちゃんは、3人きょうだいの末っ子、次女として生まれた。志保容疑者は、出産2ヵ月後に自宅ベランダにて衣類に火をつけたとして、虐待を通告された経緯があった。この件を受けて児相は子どもたち3人を一時保護したが、のちの親子関係を“良好”と判断し、保護を解除した。

美輝ちゃん以外のきょうだいにも直接的な虐待があったのかは、現段階では判然としない。だが、生き残った2人の心的外傷が深いことは言うまでもない。その上で、きょうだい1人がスケープゴートにされる虐待事案が決して珍しいものではないことを、私自身の体験を通して伝えたい。

子どもをスケープゴートにする家庭


家庭内に何らかの問題や不和が起きた際、抵抗する術を持たない子どもをスケープゴートにする親は少なくない。「スケープゴート」とは、ある集団の秩序を保つために特定の人物を悪者に仕立てあげ、攻撃を正当化する現象のことである。学生時代、クラス内でいじめのターゲットが定期的に入れ変わるのを見た人も多いだろう。あれと同じことが、家庭内という密室で行われる。

私は、先に述べた美輝ちゃんと同じく3人きょうだいの末っ子として生まれた。姉と兄は両親から“普通に”愛されていた。テストで80点を取ろうものなら、食堂の壁に答案用紙を貼り出し、この上ない誉れを受ける。スポーツの大会においても、「参加したこと」「がんばったこと」を褒められる2人は、結果に頓着しないぶん緊張に苛まれることがなく、いつものびのびとしていた。

一方私は、95点でも殴られ、数時間に及ぶ罵声を浴びせられた。

「どうしてあと5点が取れないの?!」

そう叫ぶ母の顔は、きょうだいの80点のテストを褒める人物とはまるで違う人のようだた。ぎゅっと吊り上がった目元と、歪んだ唇。母はいつも真っ赤な口紅を塗っていて、怒るたびにその赤が目に焼き付いて不快だった。定規で打たれ、平手で殴られ、父の拳が飛んでくる。それらの折檻は往々にして、きょうだいのいない時間・場所で行われた。

母が強いたダブルバインド


単純な折檻よりも私の心を砕いたのは、母によるダブルバインドであった。ダブルバインドとは、「二重拘束」を意味する。職場などで「わからないことがあれば聞いてね」と言うくせに、いざ質問すると「自分で考えなさい」と叱責する上司はさして珍しくないだろう。これが、ダブルバインドである。

母は私に100点の結果を求めたが、いざ100点を取ると「子どもらしくない」と突き放した。また、常に「状況を読め」と強いるのに、「周りの空気ばかり読んで気味が悪い」と言い放った。子どもらしく天真爛漫であることを許されるのは姉と兄のみで、私はどちらも許されなかった。子どもらしくあっても、完璧な結果を出しても、母は私を忌み嫌った。二重に拘束された心は行き場を失い、やがて私は「何をしてもダメなんだ」と思うようになった。

子どもだった私は、それでも母に愛されることを望んだ。時折気紛れに見せる優しさにすがり、それこそが母の本心なのだと信じることで己を保っていた。でも、そんなものはただの虚像だった。父が私に性的虐待を強いていることに気づきながらも、母は私を助けてはくれなかった。それどころか私への憎しみを募らせていく彼女の姿は、母ではなくただの“女”だった。

姉もいたのに、父がなぜ私だけを性的欲求の捌け口に選んだのかはわからない。ただ、私を虐げることで彼らの嗜虐心は満たされ、その上でしか成り立たない形があったのだろう。

“わたし”という人間をゴミ箱にして、日頃の鬱憤をすべて吐き出す。そうすることでバランスを保っていた我が家は、外側からは「ごく一般的な家庭」に見えていたはずだ。

なぜ、私だったのか。その明確な答えがわからないまま、私は混乱と恐怖の只中で右往左往していた。ただ一つだけはっきりいえるのは、両親がさまざまな問題を抱えていたことである。

両親が抱えていた心の闇


私の父は、アルコール依存症を患っていた。どうにか会社には行っていたものの、時には朝から飲酒した状態で出勤する始末であった。父の父、私の祖父に当たる人もまた、アルコール依存症だった。祖父は私が1歳の頃に他界したため、記憶にはない。だが、父は悪酔いするたびに自分の不遇を吐露していた。

飲み屋で酔い潰れた父親を迎えに行っては、担いで帰る日々。当時学生だった父に対し、周囲の大人は、酔い潰れて迷惑をかけている本人ではなく、まだ子どもだった父を責めた。この時、父を責めるのではなく手を貸してくれる大人がいたら。「迷惑なんだよ!」と怒鳴るのではなく、「大丈夫か?」と声をかけてくれる人がいたなら、私の未来も少しは変わっていたのかもしれない。

母もまた、平穏とは言い難い幼少期を生きてきた。母の実家は貧しく、産後も祖母は農業の手を休める暇がなかった。祖父は兼業農家で平日昼間は家を留守にしており、祖母には頼れる親族もいなかった。そのため、赤ん坊だった母は、家の柱に紐で縛られた状態で放置されていた。授乳時間になると祖母が戻り、授乳をしてオムツを替えて畑に戻る。その繰り返しの日々にあって、母は「泣かない赤ん坊」になった。いわゆるサイレントベビーである。

「虐待は連鎖する」という言葉が嫌いだ。連鎖させまいと懸命に踏ん張る人たちの存在を、この言葉は置き去りにする。だが、悲しいことに私の両親は、連鎖の縛りから逃れられなかった。

両親からの長年にわたる虐待被害によって、私は解離性同一性障害を患った。40歳を過ぎた現在も、何らかの負荷がかかると人格交代やフラッシュバックの発作が起こる。両親を許せる日は、きっとこない。それでも、まだ子どもだった彼らを助けてほしかったと、そう思う気持ちは否定できない。


写真提供◎photoAC

電話では虐待被害の状況は掴めない


冒頭に記した美輝ちゃんの事件に話を戻す。母親の志保容疑者は、美輝ちゃんの出産直前の2018年12月に、「精神的に不安定で支援が必要な特定妊婦」と児相に判断されていた。産後2ヵ月で衣類に火を付けた件を鑑みても、志保容疑者に長期的ケアが必要だったのは明白である。

2022年9月から11月にかけては、美輝ちゃんの右頬に青たん、左目脇に黄色い痣など、複数の外傷が保育所側から報告されている。家庭訪問で志保容疑者は対応を拒否しており、父親の健一容疑者が電話で「問題はない」と述べていたという。

虐待被害当事者の感覚から言わせてもらえれば、「電話」のみで被害状況を知ることは不可能だ。大人は多弁で、さらりと嘘をつく。子どもに恐怖を植えつけ、「転んだと言え」「問題はないと言え」と強いるケースも多い。被害を訴えて一時的に保護されたとしても、家庭に戻されれば、さらに酷い目に遭うかもしれない。その可能性がゼロではない以上、大概の子どもは口をつぐむ。

目の動き、話し方、挙動、衣服の状態、身体の発達、親を見る子どもの視線、子どもを見る親の目線、室内の状況。それらは、電話ではうかがい知れない。本件において、児相だけに責任を覆い被せるのではなく、児相が持つ法的効力の見直しなど、問題の根本に向き合う必要がある。

精神的に不安定な人=危険な人、という誤認は避けたい。ただ、各人の症状や状況によって、適切な支援が必要な人はいる。志保容疑者が、健一容疑者が、なぜ一線を超えてしまったのか。背景を知ることが、新たな被害を減らす一助になるかもしれない。だが、美輝ちゃんの人生は、「誰かを救うための人柱」ではなかったはずだ。美輝ちゃんは、生きたかったはずだ。愛されたかったはずだ。そのことを、私たち大人は決して忘れてはならない。

きょうだいたちのケアを最優先に


美輝ちゃんのきょうだい2人は、おそらく今後両親と生活を共にすることはないだろう。だが、だからといって「助かってよかったね」と安易に言える状況ではない。きょうだいの虐待被害、ましてや殺人にまで及んだ両親の凶行は、子どもたちに深い傷を残す。心的外傷のケアは、早ければ早いほど予後が良いといわれている。逆に、ケアを後回しにすればするほど後遺症は重く長く、心身にのしかかる。

虐待に限らず、何らかの暴力(暴言含む)を間近で見てきた者は、暴力を強いられてきた側と同程度のトラウマを抱えることが医学的にも証明されている。最新版のDSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)-5では、「事件を直接体験した人と、跳ね返りによってそれを体験した近親者を同等に扱うべきだ」としている。

弟の性虐待被害を知りながら、押し黙ることを強いられてきた代理受傷者の告発『ファミリア・グランデ』(カミーユ・クシュネル/柏書房)において、著者は次のように述べている。

“第三学年のとき、わたしは弟を見捨てる。そのことをわたしは忘れていない。”

子どもが子どもを守るなんて、実際には不可能だ。だが、代理受傷者の多くは自罰的感情に苛まれ、それゆえに心身の調和を崩すことも稀ではない。私が知らなかっただけで、姉や兄も両親に対し何らかの怯えを抱いていた可能性は否めない。同じく、美輝ちゃんのきょうだいたちも、不必要に己を責める危険性が高いといえよう。彼らの未来が守られるよう、報道のあり方を含めて、彼らの周りにいる大人たちは細心の注意を払い、何よりも子どもの心を守る方向に舵を切ってほしい。

失われた命はかえってこない。美輝ちゃんの未来は、残酷かつ理不尽な形で奪われた。同じ悲しみを繰り返さないために、問題の表面ではなく、国をあげて虐待問題の根本に向き合ってほしい。

学生時代、父は何度も私の首を絞めた。私が今も生きているのは、ただ運が良かっただけに過ぎない。密室の家庭内において、子どもの安否が“運”の要素で定まる社会であってほしくない。子どものSOSを拾うと同時に、大人側のSOSをも真摯に拾える社会こそが、被害を防ぐ最短ルートであるように思う。


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