なぜ10歳年下の妻は少しも死に動じないまま<あっぱれな最期>を迎えることができたのか…夏目漱石の名句から見出したそのヒントとは

2024年3月5日(火)12時30分 婦人公論.jp


菫の花のように「小さき人」として生きる(写真提供:Photo AC)

2022年、61歳の奥様に先立たれたというベストセラー作家の樋口裕一さん。10歳年下の奥様は、1年余りの闘病ののちに亡くなられたとのことですが、樋口さんいわく「家族がうろたえる中、本人は愚痴や泣き言をほとんど言わずに泰然と死んでいった」そうです。「怒りっぽく、欠点も少なくなかった」という奥様が、なぜ<あっぱれな最期>を迎えられたのでしょうか? 樋口さんがその人生を振り返りつつ古今東西の文学・哲学を渉猟し「よく死ぬための生き方」を問います。

* * * * * * *

妻に先立たれ、「死」が身近なものとして迫ってくる


妻の死という大きな出来事があると、どうしても死を意識してしまう。

私は、しばしばコンサートに行くが、その時も、「そういえば、あの時、〇〇さんをこのあたりで見かけたが、数年前に亡くなったんだった」と思い出す。「あのころはあの人は元気だったが、もう亡くなった」「あの人は癌で亡くなった」。
そんなことが頭をよぎる。「人は死ぬ」「誰もが死ぬ」「目の前のこの人も、そしてもちろん私も近いうちに死ぬ」。そのことが、リアルなものとして私に迫る。

コンサートだけでなく、どこに行っても、何をしても、それが頭から離れない。友人にメールやLINEで連絡を取る。なかなか返事が来ない。「もしかして死んでいるのでは?」「また親しい人を亡くしたのではないか」という恐怖を覚える。もちろん、これまでそのような心配が実際に起こったことはほとんどないのだが、それでも恐怖を覚える。

もちろん、妻の死後も楽しいことはたくさんある。うれしいことはたくさんある。孫と話すと幸せになる。音楽を聴くと感動する。旅行に行くと目を奪われる。気の合う人と一緒にいると楽しい思いをし、笑い転げる。
だが、しばらくは心の奥底で死の音が鳴り続けていた。まるで通奏低音のように、私の心の奥底で常に死のメロディが鳴っていた。道を歩いていて、ふと自分が険しくて暗い表情をしていることに気づくことがあった。

好きなフォーレの『レクイエム』を聴けなくなった


フォーレは好きな作曲家の一人だ。あの清澄で心洗われるような『レクイエム』をはじめ、歌曲や室内楽にはしっとりとして内面的な美しい曲がたくさんある。

以前は、フォーレを平気で聴いていた。大学に通う車の中でも聴くことがあった。

ところが、妻の死後、フォーレを聴くとなんだか悲しみの中に沈潜(ちんせん)してしまう気がする。フォーレの内面的な音楽の中の悲しみの部分に、そして自分自身の悲しみの核心に触れているような気がする。暗い気持ちになり、悲しみから逃れられなくなる。フォーレを聴くごとにそんな気持ちになるので、しばらくフォーレを聴くのをやめている時期があった。

そのような日々、私はあの疑問、なぜ妻はあっぱれな最期を迎えることができたのかという疑問をずっと抱き続けていた。

妻はあっぱれな最期を迎えた。息子も娘も、妻の腹の据わった態度、少しも死に動じない態度には驚嘆していた。なぜ妻はあれほどあっぱれな最期を迎えられたのだろう。

死に動じず、恬淡として死を迎え入れる……。そんな人物の話を聞くことがある。だが、少なくとも私の知る限り、そのような人物は人生を達観した人、悟りとまではいかないにせよ、それに近い境地にいる人だった。少なくとも、何らかの人格者であり、煩悩から離れた人だった。

だが、妻はそのような人間ではなかった。

夏目漱石の名句に込められた深い心情と妻の生き方


そのようなことを考えながら生活している時、夏目漱石にかかわる仕事の依頼を受けた。漱石は大好きな作家だが、私は漱石の専門家でもなければ、そもそも国文学の専門家でさえもない。いったんはお断りしたが、熱心でとても優秀な編集者に押し切られて引き受けた。
そうして、蔵書をひっくり返し、夏目漱石の作品を読み直していた。パラパラとめくるうち、やはりあまりの文章の見事さ、思想の深さに、つい本文を読んでしまい、なかなか仕事が進まずにいた。

そうしているうちに、ふと目に飛び込んできたのが、あの有名な俳句だった。

菫(すみれ)ほどな小さき人に生まれたし

明治30年、漱石、30歳。俳句を盛んに作っていたころの作だという。鏡子と結婚したばかりで、まだ英国留学はしておらず、もちろん小説は一作も書いていない。第一作『吾輩は猫である』は明治38年の発表なので、それよりもかなり前のことだ。親友である正岡子規とやりとりしながら句作を行い、俳人として知られる存在だった。

「菫ほどな」と字あまりになっており、のちに子規の指摘によって「菫ほど小さき人に生まれたし」と訂正されたといわれる有名な句だ。

この句には、晩年の漱石が「われ」の葛藤の末にたどり着いた「則天去私」の境地を先取りしているといえるかもしれない。
虚勢を張り、肥大化した「私」にうんざりし、名もなき小さなものとして生きたいと願う気持ちを凝縮した言葉の中に描いている。頭の中に野の中の紫色の小さな菫の花が浮かんで、まさに名句だと思う。

以前から好きな句だが、改めて読んでいるうちに、「おや!」と思った。

身の程をわきまえ「小さき人」として生きる


おや! この句はまさしく妻の生き方を表しているのではないか! いや、それどころか、妻があっぱれな死を迎えることができたのは、菫のような小さな人として生きた、あるいは生きようとしたためではないか。そう思い当たった。

妻は漱石の愛読者ではなかった。漱石について妻と語ったことはあったので、数冊は読んでいたと思う。だが、それほど漱石に詳しいわけではなかった。漱石に関心を持っているわけでもなかった。

いや、それどころか、ずっと昔、初めて私がこの句を知った時、それなりに感動して妻に話したことがあったような気がする。だが、その時も妻は特に際立った反応は示さなかった。

妻は自分の生き方が、この句に具現されているなどとは考えてもいなかっただろう。もし、妻に対して、「この句にお前の生き方、死に方が現れている」と語ったとしても、妻はまったくそれに賛成せず、それどころか大いに反対したかもしれない。そもそも妻が菫が好きだとは聞いた覚えがないし、病院などに誰かの見舞いに行く時などはカサブランカの花を選んでいたという。

だが私は、この句が妻の人生を示すものであるような気がしてならない。

「菫ほどな小さき人に生まれたし」。この句を考えると、妻の行動の意味がよくわかる。妻の行動のすべての謎が解けた気がしたのだった。妻は身の程をわきまえて、世界の片隅で名もなき者として生きようとした。
菫は誰もおだててくれない。誰も見てくれるわけでもない。だから、見栄を張らなかった。自分を誇張して考えることを好まなかった。野原の中の平凡な菫なのだから、それ以上を求めなかった。
※本稿は『凡人のためのあっぱれな最期』(幻冬舎)の一部を再編集したものです。

婦人公論.jp

「年下」をもっと詳しく

「年下」のニュース

「年下」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ