朝敵とされてきた会津藩や庄内藩。近年では擁護の論調も強くなっているが、はたして…歴史研究家・河合敦が解説!【2024年下半期ベスト】

2025年3月10日(月)10時0分 婦人公論.jp


(写真提供:Photo AC)

2024年下半期(7月〜12月)に配信したものから、いま読み直したい「ベスト記事」をお届けします。(初公開日:2024年8月28日)
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NHK大河ドラマシリーズや映画などで「日本史ブーム」がまだまだ続いています。しかし、歴史研究家の河合敦先生いわく「じつは教科書が改訂されるごとに、多くの歴史用語や人物が消滅したり、評価が逆転したりしている」そうで——。そこで今回は、河合先生が日本史の新説をまとめた著書『逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~』から「薩長史観」についてご紹介します。

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薩長のおかげで江戸幕府が倒れ、日本は近代化できた


2018年は明治維新から150年だとして、講演会で維新の話をリクエストされることが非常に多かった。

でも、正確にいうと、この1868年という年が明治維新というわけではない。

維新というのは、幕府の崩壊から新政府の成立にいたる激動の時代、すなわち時間の帯(時期)である。

諸説あるが、ペリーの来航(1853年)から廃藩置県(1871年)、あるいは西南戦争(1877年)ぐらいまでを指すことが多い。

ただ、1868年が明治元年であり、新政府が五箇条の誓文(新政府の方針)を出し、戊辰戦争で日本(北海道を除く)を統一し、その拠点を江戸(東京)に移したことから、象徴的な年であることは確かだろう。

薩長史観の見直しが進んだきっかけ


そんな記念すべき明治維新150年だが、このところ、薩長史観の見直しが進んでいる。というより、否定されていると言ったほうが正確かもしれない。

そのきっかけとなったのが、原田伊織氏の著書『明治維新という過ち』(毎日ワンズ)である。2012年に出版されたが、増補版として2015年に出版されたころから話題となって大ヒットし、さらに2017年には講談社文庫に入った。

その副題が「日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」という衝撃的な文言だったことも読まれる原因だったのだろう。

確かに吉田松陰は、安政の大獄が始まると、大老井伊直弼(なおすけ)の手先となって京都で尊攘派を弾圧する老中間部詮勝(まなべあきかつ)の襲撃を叫び、さらに弟子たちに先駆けになって死ぬことを求めた。

実際、久坂玄瑞(くさかげんずい)や高杉晋作など弟子の多くが、過激な攘夷運動を繰り返した。

ただ、歴史を見ればわかるとおり、政権を倒そうとする革命家は、強大な権力に真っ向から立ち向かうことは不可能ゆえ、権力者に対する暗殺やテロという手段をとることは少なくないし、それ以外、弱者が強者に勝つことは難しい。

やはり私は吉田松陰は偉大な教育家であり、あそこまで弟子たちが過激になったればこそ、幕府は瓦解に至ったのだと思っている。

会津藩、庄内藩を擁護する論調


とはいえ、おそらく長州藩や薩摩藩が幕府を倒さなくとも、日本は近代国家になっていたはずだ。

すでに幕府の有能な官僚や将軍徳川慶喜は、フランスなどの制度を参考に近代国家への移行を考えていたからだ。

けれど、「勝者が歴史をつくる」という慣用句どおり、戊辰戦争に勝った明治政府が正義とされ、とくにその中枢をになった薩長藩閥が戦前は力を握り続けていたから、幕府や佐幕藩、明治政府に逆らった東北諸藩は悪だとされた。

戦後もそうした薩長史観は大きく変わることがなかったが、近年、朝敵とされた会津藩や庄内藩を擁護する論調が強くなってきた。

でも、果たしてそうなのだろうか——。

藩が仕組んだ狂言


私は新政府に逆らった藩が必ずしもまったくの被害者とは思えないのである。

東北・北越諸藩は奥羽越列藩同盟を組織し、新政府軍と激戦を繰り広げた。同盟側は全部で31藩。けれどその多くは、会津や庄内、米沢や仙台といった大藩に強要され、いやいや同盟に参加したのである。


(写真提供:Photo AC)

越後の新発田(しばた)藩もその一つ。もともと勤王派だったので、なかなか出兵して新政府軍と戦おうとせず、同盟諸藩からせっつかれた。そこで兵を出そうとしたところ、領民が暴動を起こして行く手を阻んだのである。

でもじつはこれ、藩が仕組んだ狂言だった。

疑いをもった米沢藩主は新発田領近くに着陣し、新発田藩主に来訪を求めた。場合によっては人質にしようという魂胆だ。

追い込まれた新発田藩はやむなく兵を出すが、新政府軍が優勢になると、突如、領内に新政府軍を引き入れて寝返った。

村上藩の場合はもっと複雑だ。藩主の内藤信民は新政府への恭順を説くが、藩士の多くが主戦派で、なおかつ、庄内藩や米沢藩が味方するように圧力をかけてきた。

そこで仕方なく村上藩は列藩同盟に加わるが、悩んだすえ19歳の藩主はなんと自殺してしまい、藩内は大混乱に陥ってしまう。そうした中、いよいよ新政府軍が大挙して村上城下に入り込んでくる。

主戦派と恭順派


このとき主戦派の若き家老・鳥居三十郎は、驚くべき決断をする。城下を戦禍から守り、武士の意地を通すため、少数になった主戦派だけをともない、隣りの庄内藩へ向かったのである。

庄内藩は鳥居たちを受け入れ、藩境の鼠ヶ関(ねずがせき)を守らせた。

一方、恭順した村上藩士は新政府方となり、脱走村上藩士と同士討ちを演じる悲劇が起こってしまう。

ただ、脱走村上軍は、庄内藩士と手をたずさえて新政府の大軍を食いとめ、最後まで鼠ヶ関砦を守り切ったのである。が、そんな庄内藩も降伏することになり、鳥居たちは村上に帰った。

無抵抗で城下を明け渡した村上藩は本領を安堵されたが、列藩同盟に加わった責任は問われた。

このとき首謀として自ら名乗りを上げた鳥居は東京で刎頸(ふんけい)の判決を受け、村上で処刑されることになった。これに主戦派が反発、結局、藩は切腹へ変更する。

しかし処刑前日、恭順派のリーダー江坂與兵衞が主戦派によって殺害されたのである。このため、明治になってからも村上では、主戦派と恭順派がいがみ合い、これに町人の対立が加わって混迷を極めることになった。

このように弱い藩から見れば、会津藩や庄内藩、仙台藩こそが「悪」という見方も成り立つのである。

いずれにせよ、明治維新150年を機に、多様な観点から歴史が語られるのは、大いに賛成である。

※本稿は、『逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~』(扶桑社)の一部を再編集したものです。

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