三国志で一番人気の猛将・関羽の最後の奮闘「樊城の戦い」とは

2025年2月28日(金)5時50分 JBpress

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?


劉備配下の猛将、関羽の流浪と活躍

 219年7月に漢中王となった劉備は、その年に自身の最大版図を獲得し、劉備軍団はようやく天下の一角を占める勢力に成長しました。その絶頂の翌8月、劉備軍団の最大の悲劇となる樊城の戦いを関羽が開始します。

 関羽は当初、北上して包囲した魏の樊城の戦いで戦局を優位に進めるも、魏と結んだ呉によって背後の拠点(江陵)を失い、わずか4カ月後の219年12月には息子の関平とともに敗死します。

 関羽は、劉備が184年の黄巾の乱で義勇軍として挙兵した当時からそばにあり、関羽、張飛の二人は常に劉備の身辺を警護したほどの固い信頼関係でした。関羽と張飛は、それぞれ兵1万人に匹敵する猛将であると、敵の武将からも恐れられたほどの武勇を発揮します。

『(陳寿の)評にいう。関羽と張飛はともに「万人の敵」(1万人に匹敵する)と称され、世の「虎臣」であった。関羽は曹公(曹操)に(顔良を斬る手柄で恩に)報い、張飛は義により厳顔を釈し、ともに国士の風がある』(書籍『関羽 神になった「三国志の英雄」より』

 劉備と関羽、張飛は184年から戦闘を開始するも、英雄が乱立する乱世で自身の拠点を持てず、流浪を繰り返しながら各地で傭兵軍団の隊長のような役割を果たしながら生き延びていきます。猛将の関羽と張飛は、苦難の道を劉備と常にともに歩き続けたのです。


乱世の英雄、魏の曹操と関羽の関係

 関羽は死後、次第に神格化されて現在では『関帝廟』にまつられる存在になりました。その理由に、曹操の配下であったときにさえ「劉備との義」を守り切った関羽の固い信念があったとされています。

 関羽は一時、劉備と離れ離れになり、曹操軍に降伏したことで曹操傘下となっています。曹操と袁紹が対決した「官渡の戦い(200年)」では、曹操軍の配下として、袁紹側の武将「顔良」を切り伏せて勝利します(三国志演義では、袁紹の武将「文醜」も関羽が斬ったと創作された)。

 大軍の中を分け入り、敵将顔良を討ち取った白馬の戦いは、関羽の若き日の武勇のクライマックスの一つであり、三国志正史に記載されている虚飾のないものです。

 関羽がこのような武勇を発揮できたのは、曹操軍が兵站や軍事組織的に優れており、関羽が純粋に武勇を発揮することに集中できたからだという推測もできます。逆に言えば、常に兵力や人材に不足していた劉備陣営の軍中では、ここまでの鮮やかな活躍は猛将関羽といえども簡単にはできなかったとも言えます。

 袁紹陣営に主君劉備がいることを知った関羽は、曹操からの厚遇に感謝しつつ、主君の元に向かいます。

『関羽は、ことごとくその贈り物に封印をし、手紙を捧げて訣別を告げ、袁紹の軍にいる劉備のもとへ奔った。左右の者がこれを追おうとすると、曹操は「かれはかれで自分の主君のためにしていることである。追ってはならない」と言った』(関羽伝、書籍『関羽 神になった「三国志の英雄」』より』

 正史に描かれる、曹操に対して「劉備との義」を貫いた関羽のエピソードですが、関羽が(後世の評価で)義の人であることが決定的となった事績が、敵側のトップである曹操との関係で示されたことは、非常に興味深いことです。

 関羽は降伏ののちに、自身を厚遇してくれた曹操の恩に、敵将顔良の撃破という戦功を挙げ、曹操はその戦功と関羽の義心に感嘆して関羽が去ることを許可しました。曹操からの恩を武功で返してから去る猛将の関羽、その関羽の武勇を愛しながらも劉備への義心を認める英雄の曹操。乱世の英雄である曹操の心を打つものが、関羽という武将にあったのでしょう。


主君を替えた張遼、徐晃、龐徳などの猛将と比較される関羽

 三国志の読者がよく知る魏の武将のうち、張遼はもともと呂布の配下であり、徐晃も主君を替えて曹操に仕え、219年の樊城の戦いで関羽に敗れる猛将の龐徳も元は馬超の配下でした。この三人の勇猛な武将は、曹操というリーダーに惚れ込んだことで、魏の武力として縦横無尽に活躍をしていきます。

 曹操には、武将たちや軍師を惹きつける英雄の気質があり、曹操自身も優れた人材に対する敬意や恩賞を惜しまなかったため、上記の三人以外にも、他の武将の配下から曹操の元に下り、そのあとは一貫して曹操の元で武力や知略を発揮した者は少なくありませんでした。

 そのように、優れた人材、勇猛果敢な武将たちを広く惹きつけた曹操から離れていく関羽は、その義心が高く評価されるのも当然といえるでしょう。また、先に挙げた龐徳は、曹操の恩義に報いるために、関羽軍に囲まれた樊城を救出する戦闘で敗れて、関羽に降伏することを拒否して死を選んでいます。

 龐徳が死を選んだ戦闘では、魏の宿将の一人である于禁が関羽に降伏をしており、それほどの過酷な戦況でも戦い抜いた龐徳を、曹操は高く評価しました。

 魏の援軍として到着した徐晃は、関羽側の城の背後に塹壕を掘って後方を遮断する動きを見せたため、関羽は樊城包囲から撤退。さらに徐晃は関羽の陣の2つ(囲頭と四象)のうち、囲頭を攻めるふりをして四象を急襲します。

 不意を突かれた関羽は四象を守るため、兵5千と救援に駆け付けますが、待ち構えた徐晃軍にさんざんに打ち破られます。

 龐徳による魏の援軍が壊滅したのち、次の援軍として徐晃が率いる軍が関羽の軍を破り、敗戦のさなかに、蜀の後方陣地だった江陵が呉にすでに占領されたことを知った関羽は敗走を始めます。魏の武将である徐晃は、関羽が白馬の戦いに参加した当時に関羽と知己となっており、張遼とともに魏軍内では関羽と親しかった相手だったことは、運命の皮肉なのかもしれません。


関羽の敗死と共に、消えた劉備と蜀の天下統一

 関羽は、三国志正史でも武勇と義心のエピソードを残しており、三国志演義ではさらに脚色が加えられて知勇を兼ねた武将として描かれているため、無数の武将の中でもファンが多い人物だと言えます。

 関羽という人物が、三国志の最大の転換点(蜀の天下を叶える)において敗れたことは、惜しいの一言であり、関羽がもし樊城の戦いに勝利していたらどうなったのか、と夢想する三国志ファンが多いと思います。

 関羽の敗死で、劉備や諸葛亮の構想は永遠に夢となり、三国志における蜀の快進撃は完全に止まり、あとは劉備と張飛などの悲劇が続く、下降線をたどり続けます。死後、関羽の首級は孫権を通じて呉から魏の曹操に送られ、曹操は関羽を諸侯の礼で埋葬しました。

 義兄弟ともいえる信義を交わした劉備、そして張飛とともに描いた野心、天下への野望を実現させることなく世を去った関羽ですが、その存在と際立つ「義」の心は、三国志に触れる人々の心を、今もとらえて離さないのです。

筆者:鈴木 博毅

JBpress

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