曹操と団結した一族、最大勢力ながら空中分解した袁紹一族との対比

2025年5月19日(月)5時50分 JBpress

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?


最大勢力だった名門袁氏が、空中分解した最大の理由とは…

 三国志を読んだ人が必ず知っている、諸侯の最大勢力だった袁紹。袁紹の一族は名門であり、四代にわたって三公(政府の高官)を輩出しています。袁紹の大勢力は、200年に官渡の戦いで曹操軍に敗れ、袁紹は敗戦のショックにより2年後に病死しています。

 袁紹には異母弟の袁術(一説には従弟)がおり、この袁術も名門の御曹司として後漢治世の時代に都でもてはやされた人物でした。しかし、袁紹と袁術はことあるごとに仲たがいし、敵対勢力として争うことで、袁氏を滅亡へ導いてしまいます。

 この記事では、名門袁氏の内紛による愚かな滅亡と、挙兵した曹操を一貫して支え続けた曹氏、夏侯氏の団結の違いを対比することで、一族がまとまることがいかにメリットを生むかを見ていくことにしてみます。


都でちやほやされた頃の生活を忘れることができない、愚かな袁術

 190年に反董卓連合が呼びかけられ、各地の軍事勢力が集まり暴虐の限りを尽くしている董卓を排除する連合軍を作ります。その連合軍の盟主となったのが袁紹であり、その反董卓連合に一勢力として袁術の軍も参加しています。

 袁紹が反董卓連合軍の先頭に立ったことで、都に残っていた名門袁氏一族はほとんどが董卓に殺害されてしまいます。192年に董卓が部下の呂布に殺害されると、反董卓連合軍は名目を失い、しだいにお互いの勢力拡大のために抗争を激化させていきます。

 野心ある袁術は、南方に進出し南陽郡を中心にして勢力を拡大します。一方で、自らが袁氏の正当な継承者だと思い込む袁術は、異母兄の袁紹を嫌い、袁紹が揚州刺史に任命した袁遺(同族の袁氏)を戦闘で撃破してしまいます。袁遺は敗戦ののち部下に裏切られて死去。

 異母兄である袁紹と対立を深めながら、支配地域である南方で過酷な搾取をおこない、自らは贅沢を極めながらも、兵士は飢えているような状態を続けました。この豪奢な生活は、あたかも恵まれていた都での少年時代の勘違いを、そのまま持ち続けているかの状態です。

 一時は皇帝を僭称した袁術は、袁紹と曹操の連合勢力に何度も戦闘で敗れて、次第に劣勢となっていきます。落ちぶれた時、袁紹に救いを求め、袁紹は袁術を助けようとしますが、曹操に阻止されたことで両者は連合することなく、袁術は絶望の中で病死します。

 袁術の遺子たちは、紆余曲折の上で孫策配下の呉の勢力に取り込まれることになり、孫権の子孫と婚姻関係を結ぶ一族ものちに出ています。


袁紹の子供たちも、親世代と同じように内紛で自滅していく

 袁術と争った袁紹は、200年の官渡の戦いののち、202年に失意の中で病死したことはすでに述べました。袁紹が生前、長男の袁譚を正式な跡継ぎにせず、末子の袁尚を可愛がっていたことで、それぞれに部下が派閥を作り、父親の死後も後継者あらそいを続けました。

 その結果、4郡を束ねるほどの勢力があった袁氏は、次第に曹操軍に追い詰められてしまい、205年に袁譚が敗死、207年に袁尚が敗死して名門袁氏は乱世に滅亡してしまいます。

 北方で一時勢力を拡大した袁紹と、都から南方を目指して勢力を拡大した袁術。同族の両者が、もしお互いに一致団結して天下を目指すことができれば、比肩する勢力がないほど強大になっていたはずです。彼ら二人は、目の前にあった天下を、兄弟の骨肉の争いに目を奪われることで失うことになりました。

 袁紹も袁術も、おろかにも敵を間違えていたのです。家の中に敵をつくる者は、家の外の敵を忘れており、内紛で自滅する者は、最も身近な一族と協力することで達成できた栄光や豊かさを、ことごとく手離すようなみじめな敗北を迎えます。


資質と大局を見極めて、曹操を守り続けた一族

 曹操の一族は、最後の勝利のかなめとなる人物として曹操を正しく認識し、一族は命をかけて曹操を支持し、守り続けました。曹操の従弟の曹洪は、190年に曹操軍が徐栄軍に大敗した時、馬を失った曹操に、自らの馬を与えて曹洪は徒歩で曹操を守って逃げのびました。一度は曹洪からの馬の申し出を断った曹操に、曹洪は次の言葉で反論しました。

「天下に洪(わたしく)がいなくとも差し支えないが、君(あなた)がいないわけには参りません」(書籍『正史三國志群雄銘銘傳』より)という曹洪の言葉が、一族の視点をみごとに表現しているといえます。

 曹洪は一族として、曹操の死去まで最前線で果敢に戦い、曹操が魏王となる道をつくった功臣の一人となりました。この強固な結びつきと、誰が一族の大将であるかを明確にして優先順位を全員で頑なに守ったことが、曹操一族の最終勝利と、天下を手に入れたことでの栄華をもたらしたのです。

筆者:鈴木 博毅

JBpress

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