一族の力、曹操、劉備、孫権を導いた血族の支援者たちは誰だったのか?
2025年4月25日(金)5時50分 JBpress
約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
乱世の英雄たちには、彼らの巣立ちを支えた血族がいた…
曹操、劉備、孫権などの英雄が活躍した三国志時代。184年の黄巾の乱をきっかけに、後漢帝国の崩壊が決定的になる中、若き英雄たちは自らの行動と叡智で新時代を切り拓こうと奮闘を開始します。
彼らの雌伏の時期には、必ずその歩みを支える誰かがいました。その誰かの支えをきっかけにして、若き英雄たちはやがて雄飛の瞬間を迎えることができたのです。この記事では、曹操、劉備、孫権の三人が、もっとも身近な存在である「彼らの血族(親族)」から、どんな支援を得ていたのかを比較してみます。
曹操を支えた曹氏、夏侯氏などの親族たち
曹操の最初期を支えた親族は誰だったのか。もっとも最初に曹操を支えたのは、父親である曹嵩であると思われます。彼は、元は夏侯氏でありながら、宦官である曹騰の養子となり、のちの息子の曹操にもその権勢の影響は引き継がれました。
父の曹嵩はわいろが利く後漢末期に大金を使って官位を買い、大尉の地位にまでのぼりつめています。その意味で、宦官として権力の中枢にあった祖父の曹騰があり、大金をわいろに使える曹嵩という裕福な父が、若き曹操の補佐として存在していたことになります。
資金面や権力だけではなく、武力においても曹操は親族の助けを得ることができました。190年に反董卓連合の一勢力として蜂起したときには、親族の中で夏侯惇と曹洪などが武将として参加。そのほか、のちに曹操軍団の宿将となる曹仁や、武勇で鳴らし、曹操軍の最精鋭部隊である虎豹騎を率いた曹純などが加わり、資金と権力だけでなく、挙兵初期から夏侯氏、曹氏など親族の武力的な支援を曹操が得ていたことがわかります。
曹操の初期は、さながら親族を中心とした武力軍団であり、武力の現場指揮を親族中心として飛躍しました。軍略や政治を司る文化人、優れた軍師を外部から採用してその武力を支える頭脳としたのが曹操軍団だったともいえます。
3人の英雄のうち、親族の支援を最も得ることができたのが曹操でした。曹操は挙兵の最初期から、魏王として栄光の頂点に至るまでの時期を、親族の強い支援を得ながら突き進んだのです。
劉備を支えた数少ない劉氏たち
三国の一角である蜀を建国した劉備は、幼い頃は貧しい生活をしていたことが知られています。祖父の劉雄と父の劉弘は地方の役人を務めましたが、父の劉弘は劉備が幼い頃に死去。そのため、劉備は子供のころに草鞋を売るような極貧生活をしています。
劉備を支援した血縁者として、劉子敬と劉元起が有名です。劉子敬は劉備の叔父、劉元起は親族とされています。劉子敬は、子供の劉備が「いつか天子(皇帝)が乗る車に乗ってやる」と言ったとき、「そんな言葉を口にすれば一族が危うくなるぞ」とたしなめた記録が残っています。
劉子敬はおそらく、母子家庭で貧しい生活をしていた劉備一家に、経済面などの支援をしていたのではないでしょうか。また内心、劉備が将来大物になる可能性に気付いていたのかもしれません。
劉元起は、息子の劉徳然とともに劉備を有名な儒者の盧植の学舎に入れています。そのときの学資は、劉元起がすべて負担しました。そのことを妻に責められても、劉元起は取り合わなかったとされています。青年劉備の奥にある特別な資質を見抜いていたのでしょう。
盧植門下では学問に励むよりも、もっぱら野心ある若者たちとの付き合いを重視した劉備ですが、のちに北方で一大勢力を持つことになる公孫瓚とも出会ったことで、盧植門下に入ったことは、劉備の未来に大きな足掛かりを生み出すことになりました。
劉備はその後、彼の才能と将来を見込んだ商人から軍資金を得ており、その意味で盧植門下に入りさまざまな人物たちと出会わなければ、劉備の挙兵自体が不可能だったかもしれません。
一方、184年の劉備の挙兵以降、劉備の血族・親族の足跡は一切残されていません。これは、曹操の一族にいた大富豪のように、乱世でも存在感を示すことができるほどの力を、劉備の一族がもっておらず、挙兵した劉備一団も弱小勢力だった故だと思われます。
劉備は、その青年期に飛躍の小さなきっかけを与えられただけで、その後は徒手空拳で乱世を渡っていったことになります。その意味で、曹操や孫権に比較して、一族の支援は極めて少なかった英雄だと言えるでしょう。
孫権を支えた父と兄、反乱を目論んだ一部の孫氏親族
江東(中国南方)で一大勢力となり、のちに呉の皇帝となった孫権。父である孫堅が呉氏の最初の武力勢力を立ち上げ、兄の孫策とともに孫権が父の軍団を引き継ぐことになりました。父の死去は孫権が10歳のとき、兄の死去は孫権が19歳のときの出来事です。
兄の孫策が掌握していた呉軍団は、基本的には江東地域の有力氏族や知識人などを中心とした構成でした。孫権の父である孫堅には、末弟に孫静という人物がおり、孫堅が死去したとき、孫策(孫権の兄)の軍事的独自を支援するために孫静は軍事支援をしています。
孫堅の叔父にあたる孫静はその後隠棲しますが、子供たちの何人か(孫権の従兄弟にあたる)は呉軍団に加入して活躍をしています。孫策(孫権の兄)の死去は200年のため、曹操が本格的な挙兵をした190年からちょうど10年が経過していました。
しかし孫氏の親族は、その後は呉軍団の中で、次第に存在感を失っていく印象があります。これは、周瑜のように呉の軍団が江東の名門氏族との連合体であったことが1つの理由であり、2つ目の理由は孫策が死去した200年に、孫氏の親族による反乱や謀叛に近い行動が散発したことも一因でしょう。
孫静の長子だった孫暠は、孫策が死去した際に領地の一部を支配しようと企むも頓挫し、もう一人の親族である孫輔は、赤壁の戦いのあとに北方の英雄だった曹操と内通したことがばれて失脚しています。一方、孫静の子供のうち、孫瑜、孫皎などは武人として活躍し、孫権と呉軍団に大きな貢献をしますが、壮年になる前にいずれも病死しています。
呉軍団内における孫一族は必ずしも一枚岩ではなく、孫策の死や赤壁の戦いなどの外圧で揺らぎを生み出す元にもなっていました。そのため、呉軍団のトップとしてかじ取りをする孫権は、親族を頼りにする一方で、彼らを牽制したり、親族をむしろ遠ざけたり排除する必要があったのではないかと推測できます。
曹操と曹氏、夏侯氏一族の団結が光る
戦乱の中で、血族あるいは一族の団結を守るのは非常に難しいものです。それは親族故に成功すれば権力の中枢にいることになり、権力の近くにいることが、他の思惑や野望を引き寄せるからです。一方で挑戦をすることは、非常に多くのリスクを引き受けることにもなり、親族が団結して戦うことで、全滅の可能性も出てくるわけです。
劉備の親族である劉氏が、劉備の実際の挙兵のあとに付き従わなかったことは、劉氏側からすればリスクを避ける当然の判断だった可能性もあるでしょう。
比較をすると、曹操とその一族の団結力が際立っていることがわかります。これは曹操自身が、一族の多くの者が運命を任せられると思うほどの傑出した人物だったこと、また曹操自身が明確な目標を示すなどの、優れたリーダーシップを発揮できたからでしょう。曹操軍団が盤石な形で勢力を拡大できた理由は、親族を団結させ活用できたできたことも大きかったのです。
筆者:鈴木 博毅