伊藤比呂美「ジャニスとジョニとひろみ」
2025年3月21日(金)12時30分 婦人公論.jp
(画=一ノ関圭)
詩人の伊藤比呂美さんによる『婦人公論』の連載「猫婆犬婆(ねこばばあ いぬばばあ)」。伊藤さんが熊本で犬3匹(クレイマー、チトー、ニコ)、猫3匹(メイ、テイラー、エリック)と暮らす日常を綴ります。今回は「ジャニスとジョニとひろみ」。20年以上維持したヘアスタイルを変えた伊藤さんは——(画=一ノ関圭)
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ヘアスタイル変えました。
もう二〇年以上、あたしは、ロングヘアでパーマをかけて、乱れ髪の、蓬髪の、ざんばら髪の、ソバージュというか、むしろフランス語なんか使わずに、使い慣れた英語で、サベイジ(野蛮人!)と言い切ってしまいたいような髪形をしていた。白状すると、おてほんはちょっとだけジャニス・ジョプリン。
一九七一年のアルバム『パール』、最初の曲は「Move over」、「ジャニスの祈り」なんて邦題がついていた。そういう時代だった。あたしはB面の「ベンツが欲しい」が好きだった。しゃがれた声で、アカペラで、神さまに「メルセデス・ベンツ買って? カラーテレビ買って?」とねだる声。
ジャニス・ジョプリン、あたしがロックを聴き始める直前に死んだ。若くて死んだ。一方あたしがこの髪形にしたのは五〇になる前だから、ジャニスというよりは安達ヶ原の鬼婆的なイメージでずっと維持している。
ところが夏は、鬼婆だって暑くてたまらない。後ろでくくりたくなる。ズンバをやるときにもやっぱりくくる。少しでも涼しくなりたくてちょっとずつ切ってるうちに、昔は背中まであった髪がこの頃は肩までしかない。その上、くくるからすぐパーマが取れる。それで美容室に行ってまたかける。
この髪形を維持するのもなかなか面倒で、墓じまいならぬ髪じまいを考え始めたあたしは、美容室にパーマかけに行くたびに「年取ったらおさげにしたい」と美容師さんに話していた。アメリカの先住民みたいなおさげである。「将来、まあ七〇くらいになったらね」ナドと言ってるうちに、もう七〇ではないか。ファンタジーのようなものだった、老いるということ。
さて、去年の九月のこと。夏じゅう酷暑で、夏じゅう髪をくくりあげていたから、パーマがすっかり伸びちゃって、久しぶりに美容院に行って、安達ヶ原のジャニスに戻ったところだった。で、また「いつかおさげに」と言ってたら、美容師さんが言った。
「こないだグラミー賞の授賞式にジョニ・ミッチェルが出てきて、もうすごいおばあさんで足も悪そうだったけど、髪を長いおさげにしてましたよ。昔の歌を歌ったけど、なんだか昔よりずっとよかったですよ」
ジョニ・ミッチェル。
一九七六年に、アルバム『ヘジラ』を聴いたときの衝撃は忘れがたい。
「ほら、これ」とその場でグラミー賞の映像を見せてもらって、あたしは決めた。いつかじゃない、今だと。よし来たと美容師さんがざっくり編んでくれた。短いおさげはちょんちょこりん、額から顔の周りにカールしたての髪がパラパラかかった。
鏡を見ると、なんだかものすごくなつかしい顔が映っている。あたしは小さいときにもこの髪形だった。父の撮った三歳のあたし。六歳のあたし。あれから何にも変わってない気もした。
さて、何かにつけせわしなかった師走のある夜。心ここにあらずだったんだと思う。あたしは家の中の階段を転げ落ち、頭をぶつけて血まみれになった。
血を見たら怖くなって隣人に電話したらすぐに来てくれて、「病院で見てもらったほうがいい、僕はもう飲んじゃったから」と救急車も呼んでくれて、(初めての)救急車にも乗った。いや、たいしたことはなかった。血が派手に出ただけで意識は明瞭、バイタルも正常だから、受け入れてくれる病院もなく、救急車は家の前から一歩も動かないまま、あたしは降りてすたすた家に戻った。
次の日外科に行ったがやっぱりたいしたことはなかった。頭の傷は縫う必要もなく、足の親指は生爪がはがれかけていたが、バンドエイドを貼るだけで済んだ。階段から落ちてこれだけとはすごいとお医者に言われた。ズンバのおかげだと思う。それでもふだん落ちない階段から落ちたというのは、やっぱり年末のせわしなさ、そして老いのせいだ。
次の日は東京で講演だった。ところがあたしは頭のてっぺんに大きなガーゼがあり、髪の毛は血糊でゴワゴワなのに、髪は洗っちゃだめですよと言われ、しかたがないから病院を出てすぐに帽子を、「Yo!」とか言ってる若い男の子がかぶるようなのを調達した。
かぶった帽子からおさげが飛び出した恰好で東京に行ったら、かわいいかわいい、似合う似合うとみんなからほめられ(誰も中の血のゴワゴワは見てない)、すごく気をよくして今に至る、と。
ところでジョニ・ミッチェル。
その映像ではすごいおばあさんに見えたけど、あたしと十二歳しか違わない。
一九七六年、あたしは大学生で、詩を書き始めていた。当時『ヘジラ』には「逃避行」なんていう邦題がついてて、聞き慣れないこの言葉、いろいろ調べてみたけど、よくわからなかった。あたしは若くて無知だった。でもジョニ・ミッチェルの詩が好きだというのはすぐにわかった。辞書と首っぴきで聴いた。乗り物を乗りついで移動するとか、コヨーテみたいな男に関わるとか、飛行機の窓から地上の風景を見つめるとか。そんなことを語る女の、語りみたいな歌声を聴いていたときには、やがて自分が同じような生活をして、同じようなことを詩に書くとは思わなかった。
ジョニ・ミッチェル、ジャニス・ジョプリン、それからパティ・スミスもか。
こういう女のロックミュージシャンたちの生きざまを、こう生きたい、と念じながら見てきたなあ、日本のどんな詩人たちより(富岡多恵子を除けば、である)、と思い出した。