英国外交官アーネスト・サトウが来日して6日後に生麦事件が勃発、四国艦隊下関砲撃事件、鎌倉事件との関わり

2024年3月27日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


開国後の情勢とサトウの来日

 1859年(安政6)、江戸高輪の東禅寺に駐日イギリス公使館が開所された。イギリス公使オールコックは、1861年(文久1)7月の第1次東禅寺事件(水戸藩浪士ら14人が江戸高輪の東禅寺にあったイギリス仮公使館を襲撃し、書記官オリファントや通訳官モリソンらを負傷させたが、警備の幕兵により殺傷・逮捕された事件)の後、公使館を横浜に移動した。

 オールコックの賜暇帰国中、代理公使ニールは再び公使館を東禅寺に移した。しかし、1862年(文久2)6月、第2次東禅寺事件(松本藩士伊藤軍兵衛が単身、自藩が東禅寺警備のために多大の出費を要するのを憂い、警備責任を解こうとして仮公使館内に侵入しイギリス人水兵2人を殺害して自殺した事件)に遭遇した。

 そのためニールらは、再び安全な横浜に帰還せざるを得なかった。幕府は、品川御殿山に新公使館を建設しようとしたが、落成直前の1863年(文久3)1月31日、長州藩の高杉晋作・久坂玄瑞らによって焼き打ちされた。これによって、建物は全焼してしまい、計画は頓挫したのだ。

 イギリス公使館では、日本語書記官ユースデンが中心となって、オランダ語畑の通訳官が幕府との外交交渉を担当していた。しかし、外交交渉の増大に伴い、日本語を直接英語に翻訳できる通訳官が必要とされた。日本語を駆使するサトウの登場が、切望された背景がここにある。

 1862年6月、第2次東禅寺事件が勃発し、外交交渉がいっそう頻繁になった。ニールは、北京にいる日本語専攻の通訳生を呼び寄せることにし、白羽の矢はサトウに立てられた。8月6日、サトウは北京を出発して上海経由で日本赴任し、9月8日に横浜に到着した。19歳の若さで初来日であり、横浜のホテルでの仮住まいの後、年末には横浜の外国人居留地20番のイギリス公使館の東の角部屋を貸与された。サトウの日本での生活が、ここにスタートしたのだ。


生麦事件と江戸との出会い

 サトウが来日して6日目の1862年9月14日、薩摩藩士が上海のイギリス人商人リチャードソンらを殺傷する生麦事件が勃発し、政局を揺るがす大事件に発展した。サトウは、神奈川方面にリチャードソン救出に向かう騎馬自衛軍団をホテルの前で見送ったが、その後サトウと親交を深めるイギリス公使館付医官ウィリアム・ウイリスは、生麦事件の現場に急行して惨状を目撃している。

 12月2日、代理公使ニールは第2次東禅寺事件の賠償金4万ドルの要求と、生麦事件の協議のため江戸を訪問した。サトウは臨時通訳官のシーボルトらと一行に加えられ、初めて江戸訪問を経験したのだ。ユースデンとウイリスは海路を、サトウらは東海道を東禅寺へ向かったが、横浜から江戸への所帯道具一式を携えての大移動は手間と経費がかさみ、江戸公使館の建設が急務であることが認識された。

 12月3日、サトウはニールに同行して、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を視察し、その美しさと壮大さを日記に詳述した。そして、12日に江戸を引き揚げるまで、愛宕山、王子、十二社(じゅうにそう)の池(西新宿4丁目、1968年(昭和43)新宿副都心計画で埋め立て)、洗足池、目黒不動、浅草、神田明神、上野不忍池、芝明神前などへ馬で遠乗りして観光した。こうした体験は、サトウが日本文化に造詣を深める出発点となったのだ。


薩英戦争と四国艦隊下関砲撃事件

 イギリス政府は、生麦事件の犯人処刑と賠償金10万ドルを薩摩藩に要求した。1863年(文久3)8月6日、ニール以下8名の公使館員も7隻のイギリス艦隊に搭乗し、鹿児島に向けて出航した。サトウとウイリスは、軍艦アーガスに乗り込み遠征に参加した。

 しかし、交渉は進展せず、台風の最中、8月15日から16日にかけて各砲台とイギリス艦隊は砲撃戦を展開した。イギリス側には戦闘にならないとの油断があり、緒戦は苦戦した。旗艦ユーリアラスのジョスリング艦長ら13名が戦死しており、思いもよらぬ打撃を受けたのだ。

 イギリスは、この戦闘で初めて最新式のアームストロング砲を使用した。その威力は絶大で、反転攻撃によって鹿児島城下を焼き払った。なお、民間人に被害を与えたとされた砲撃は、イギリス議会で論議となり非難の対象となった。驚くべき、先進的な民度であろう。

 11月9日から3回にわたり、横浜のイギリス公使館で薩摩藩とイギリス間で和平交渉が開催された。決裂寸前にまで至ったが、武器や軍艦の購入を要望するなど、薩摩藩の起死回生の対応によって、その後の薩英間の交流を深めることに寄与する会談となったのだ。

 1863年6月から7月にかけて、下関海峡を通過したアメリカ商船ペンブローク、フランス通報艦キアンシャン、オランダ軍艦メデュサが次々と、即時攘夷を標榜する長州藩から砲撃を受けた。そして、7月にアメリカ軍艦ワイオミング、フランス軍艦セミラミスおよびタンクレートが長州藩を報復砲撃した。

 1864(元治1)年8月末から、イギリスのクーパー提督を総司令官とする4国連合艦隊が横浜から下関へ遠征し、9月5日から長州藩への砲撃を開始した。いわゆる、四国艦隊下関砲撃事件である。サトウは、クーパー提督付通訳として旗艦ユーリアラスに搭乗し、9月6日の戦闘に参加した。外国側の圧勝に終わったこの事件によって、長州藩の藩論は即時攘夷から未来攘夷へ転換することになった。

 1864年7月、藩主を説得するため急遽ロンドン留学から帰国した長州ファイブの伊藤博文と井土馨は、全権の高杉晋作とともに、講和談判に通訳として参加した。これ以降、サトウは伊藤らと交流(文通)を開始し始めており、双方にとって有意義なパイプが確立したのだ。


鎌倉事件の実相とサトウの関わり

 オールコック公使が帰国する直前の1864年11月21日、攘夷派浪士の清水清次と間宮一が鎌倉見物に出かけたイギリス陸軍第20連隊(山手駐屯)士官ボールドウィン少佐とバード中尉を鶴岡八幡宮に至る段葛(参道、車道より一段高い歩道)で襲撃・殺害する事件が勃発した。2人は軍葬とされ、横浜山手の外国人墓地(1854年、ペリー2度目の遠征時、死亡した水夫の墓が起点。20世紀半ばまで、40か国計4万4000人埋葬)に葬られた。

 この出来事は、鎌倉事件と呼ばれるが、横浜居留地の外国人社会を震憾させた。1864年12月、清水は逮捕のうえ処刑され、間宮も1865年(慶応1)9月に逮捕、10月に処刑された。この事件は、さほどの外交問題には発展しなかったが、サトウは戸部で執行された清水・間宮、更に共犯者の蒲池・稲葉の処刑に立ちあい、匿名記事を上海の『ソース・チャイナ・ヘラルド』(1864年12月24日号)に掲載している。

 次回は、サトウが週間新聞『ジャパン・タイムズ』に無題・無署名で発表した論説「英国策論」について、その内容や幕末政治史に与えた多大な影響について、詳しく追ってみたい。

筆者:町田 明広

JBpress

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