父・逸見政孝(当時47歳)の胃がん発覚、医者から「私の力ではどうにもできない」と…逸見太郎(52)が明かす、父親の「がん告白会見」その壮絶な裏側

2025年3月30日(日)12時0分 文春オンライン

〈 「高校でも『逸見政孝の息子』と呼ばれて…」「精神的にキツかった」15歳で高校中退→イギリス留学…逸見太郎(52)が語る、父親との“本当の親子関係” 〉から続く


 1993年12月25日にスキルス胃がんで亡くなった人気キャスター・逸見政孝(享年48)の長男で、『5時に夢中!』などの司会を務めたことで知られる逸見太郎(52)。


 そんな彼に、政孝氏のがん発覚時の状況、政孝氏ががんを公表した会見に対して抱いた思い、会見から3ヶ月後の逝去などについて、話を聞いた。(全4回の3回目/ 4回目 に続く)


◆◆◆


父の胃がん発覚当初は「軽いものかな」と感じていた


——1993年1月18日に受けた検診で、お父さんの胃がんが判明。太郎さんは、検診前にお父さんの体調などに違和感を抱くことはなかった?


逸見太郎(以下、逸見) 痩せたなとは感じていましたけど、それが病気と結びついているとは思いませんでしたね。局アナ時代はふっくらしていた印象でしたけど、人気が出て、注目を浴びることが増えて、人目を気にするようになってから少しシュッとしてきたのかな、という印象を受けたのを覚えています。


「カッコよくなったな」とまではいきませんが、「人目に触れることで、人ってここまで洗練されるものか」と驚いた記憶があります。


 ヘアメイクもIKKOさんに担当していただいて、見た目がとてもいい感じになっていたんですよ。さらには、洋服にはスポンサーさんが付いて、本人も大喜びで。


——太郎さんがお父さんの胃がんについて知らされたのは、いつ頃でした?


逸見 最初の手術までには聞かされていました。でも、自分のなかでは、そこまで死に直面しているような恐ろしいイメージがなかったんです。


 そもそもがんに対する知識もなかったので、家庭内の空気感もそれほどどんよりしていたわけではなく、どちらかというと「軽いものかな」という感じでした。今思うと、母が子どもの僕たち2人に対してあまり心配させないよう努めていたのかもしれませんね。



逸見太郎さん ©釜谷洋史/文藝春秋


「うちではこれ以上はムリ」手術をした病院からまさかの発言


——胃がん発見の際に「初期のもので切れば治る」と告げられ、93年2月4日に手術を受けたら「がんは初期のものじゃなかった」と。その手術の跡がコブ状のしこりになって、8月に切除手術を受けると、執刀医から「これ以上は私の力ではどうにもできません」と言われてしまっています。この間にセカンドオピニオンを受ける考えはなかったようでしたか。


逸見 父が親しくしていた方の紹介でその病院にかかるようになって、定期健診などなにかと診てもらうようになったんですよ。父は律儀な性格で「ここで診てもらって、ここで胃がんがわかったんだから、ここで治療してもらうのが筋だろ」という考え方の人なので、病院を変えようとはしなかったんです。


 でもその病院は、実は痔が専門なんです。今でこそ当たり前になってきましたけど、セカンドオピニオンという考え方はお世話になっている先生に失礼で、そういった選択肢を思いつきも、考えもしなかったんじゃないかなと思います。がんという病名を告知したり、公表したりすることも、当時では一般的ではなかったですし。


 結果的には父の件が告知の在り方やセカンドオピニオンの重要性、クオリティオブライフ(生きる上での満足度)について多くの方が考えるきっかけにはなったのではないかと思います。僕自身もこれらはとても大切だと思っていますし、その重要性は今後も声に出していきたいです。


 手術の後、父は「なんか、いつまで経っても硬いんだよね」なんてしこりのことを話してました。それでしこりを取る手術を2回やって、その後に病院から「うちではこれ以上はムリ」ということで、アメリカにいる化学療法の先生を紹介されて。


アメリカで治療するはずが、病院から「治療の予約が取れなかった」と…


——すぐにアメリカでの治療を決意されたそうですね。


逸見 病院から電話でアメリカの医者を紹介されたときは、ちょうど僕もアメリカから帰国していたときでした。「早く受けたほうがいい」ということになり、8月12日のコブを切除する手術からわずか1週間後の19日にアメリカに行くことになって。退院が17日だったので、大慌てで準備して。僕が通訳で同行することにもなったのですが、まさかの父のパスポートの期限が切れていたんです。


 父と僕で外務省に行き、父が「1日でパスポートを作ってくれませんか。これを治さないといけないんです」と話をしながら服をまくって、手術跡まで職員の方に見せながらお願いしたんです。それで本当にパスポートを発行してもらえたのでさすがにビックリしました。


——でも、アメリカには行かなかった。


逸見 出発の前日になって、病院から「治療の予約が取れなかった」というような連絡が来たんです。そもそもアメリカでの治療の話は、いろいろな点で僕たちも「何か、おかしくない?」と感じていて話をしていたんです。さらに直前で中止になったことで「これはもう、さすがに……」となって、最終的に東京女子医大で治療をお願いすることになったんです。


「武士が戦いに挑む覚悟を見せつけられた」父のがん告白会見を見たときの心境


——東京女子医大で手術を受ける10日前の1993年9月6日、お父さんは記者会見を開いて「私がいま侵されている病気の名前、病名はがんです」と公表して、「がんは隠すもの」という当時の常識を覆しました。生中継の会見でしたが、太郎さんはご覧になっていましたか。


逸見 僕はボストンにいたので、あの会見を生で見ることも手術に立ち会うこともできていないんです。後で、父から「やって良かった。想像以上の反響だった」と書かれた手紙と一緒にビデオテープが寮に送られてきて、それを見ました。


 その映像を見た時の衝撃は今でも覚えています。武士が戦いに挑む覚悟を見せつけられたというか……。自分の知っている父とは違って見えましたね。


 最近では、重い病気を公表する方も増えてきましたけど、その先駆けというか、会見を開いて病気を公表し闘う決意表明をする、覚悟を見せることを初めてしたのは父だったのではないかと思います。とてつもない勇気ですよね、告知さえ一般的でなかった時代に。


 これまでに誰もやったことがないのに、病気の重さやさまざまな恐怖を抱えて、自分だったら同じことができたのかな、と思うととてもイエスとは言えないですね。父はこれまでの常識を覆したのだな、と改めて思いますし、強い人だなと。


「エッ!」病室で父と握手したとき、声を上げそうなくらい驚いた理由


——9月16日の手術は13時間におよび、胃の4分の3を摘出。手術後、すぐに会ったのでしょうか。


逸見 あの年、僕は10月、11月、12月って、3回帰ってきてるんです。僕と父が病室で握手している写真がありますよね。あれを撮ったのが10月8日で、手術後に会った日で。


 父の顔を見た瞬間に「かなり、やせ細ったなあ」と思いながら、握手をしたら「エッ!」と声を上げそうなくらい手の力が弱々しくて。ただ、手術は成功したとのことだったし「まあ、大丈夫だろう」とボストンに戻ったんです。


 その後、11月に短い休みがあったので再び日本に帰った時に父から「おまえ、こっちにはどれくらいいるんだ」「1週間くらいかな」なんて話をして、出発の準備をしていたんです。ところが、先生から「お父さん、ちょっと危ないですね」と。「年末は越えられないかもしれない」とも告げられて、その時初めて「そんな状態なの?」と実感しました。


父が弱音を吐くことは決してなかった


——そうなると、ボストンに戻ることには躊躇しますよね。


逸見 でも、父には「1週間後には戻る」と言ってしまっていたんですよね。それなのに日本にいたら、父が「息子が日本に残るってことは……」と余計な勘繰りをしてしまいそうで。


 それでも残ることにしたんですが、お見舞いに行くこともできず、家でじっと過ごしているだけなので正直「自分は何をスタンバイしているんだ……させられているんだ??」と思っていました。


——手術してからのお父さんは、どういった様子でしたか。


逸見 当たり前ですけど、明るい感じではなかったですね。父は忍耐強いタイプだったので、じっと耐えているように見えました。弱音を吐くことは決してなかったですね。


 それに、気を遣われるのを嫌がるんです。僕たちが早くから病室に行って夕方になると「もう夕飯だろ。早く帰れ」と。自分は以前みたいに食べることができないので、見舞いに来ている僕たちがお腹が減って、隠れて食べたりする姿が気になったんでしょうね。


 自分を気にして、コソコソ食べているのがイヤだったみたいで。家族にそういう配慮をさせてしまうこと自体が嫌だったのだと思います。仕事でもそうですが、周りをよく見て気を配る父らしいところでした。せめて家族にはそこまで気を配らずに、もう少しわがままを言ってくれてもよかったのに、と思いますがそれもまた父の性格、気質だったんでしょうね。


死を現実として受け入れられず、素直に泣くことができなかった


——1993年12月25日にお亡くなりになりましたが、太郎さんはその数日前に帰国を。


逸見 モルヒネを打っている影響もあって朦朧としていて、弱っていく父を目の当たりにしても、どこか現実として捉えられない状態というか。涙が出てこないんですよ。


 フジテレビや日本テレビの関係者など、親しかった方々が会いに来てくださり、みなさんが父に話しかけて、足や手をさすったりしてくれる姿を、まるで俯瞰で見ているような感覚というか。


 母や妹も涙ぐんで、一生懸命に言葉を掛けていましたが、僕は「長男だから、しっかりしていなきゃ」という気持ちも強くあって、どこか感情的になれなかったですね。「え? 本当に死んじゃうの?」と現実として受け入れられなくて。それに、そうすることが恥ずかしいという思いもあったんです。


——泣きたいけど、泣けない。


逸見 素直に泣けないといいますか。これが52歳のいまだったら、「親父!」って泣き叫びますけど、当時21歳の自分にとっては相手が父ということもあり、気恥ずかしさのほうが勝ってしまっていましたね。


 物心ついてから、握手なんかしたことなかったですから。あの写真で手を握っていたのが、初めてのちゃんとした握手じゃないかってくらいで。


——なにか、今後のことを言われていたりは。


逸見 「頼むぞ」的なことですか? いや、言われた記憶はありませんね。僕が見てきた闘病生活の中では、最初から最後まで、そういった言葉がでることは一度もなかったです。


「たけしさんは泣き崩れていたと聞きました」気持ちが追いつかないまま父の葬儀が終わり…


——お父さんが亡くなったことを、現実のものとして受け止められたのはいつ頃でしたか。


逸見 お通夜、お葬式の後ですかね。どちらも、山城新伍さんや(ビート)たけしさんがいらしてくださって、失礼があったらいけないと気を張っていましたが、もうなにがなんだかわからない状況でした。自分たちの気持ちが追いつかないままどんどん進んでいくというか。


 お葬式って、忙しさに追われることで一時的に悲しみを和らげる、といいますけど、まさに忙しさと緊張感でその場にいるのに気持ちがどこか遠くにあるような感覚だったと思います。


 目の前のことを理解しているけれど、実感として受け止められないというか、どんどん進む時間にただ追いついていくだけで。でも気持ちはおいてけぼりにされているような、そんな状態だった気がします。同時に、来てくださった多くの方々の言葉や行動に励まされたり、「こんなにも多くの人が父を大切に思ってくれていたんだ」と改めて感じていましたね。


 たけしさんは、仮通夜にもいらしてくださって。僕はその場には居合わせていなかったのですが、泣き崩れていたと聞きました。


——お母さんの著書では、たけしさんは葬儀の手伝いも買って出てくれたと。


逸見 そうだったと思います。僕のなかでは、お通夜でもお葬式でも呆然とされている印象がありましたね。父とは、ひとりの友人として接してくれたというか。父も、たけしさんを本当に特別な存在だと思っていたようですし。


 たけしさんと一緒にゴルフをする日が決まるたびに、子どものようにはしゃいでいましたから。「明日、たけしさんとゴルフだ」ってわざわざ言いに来ることもありました。そのときの表情が「あ、そんな顔するんだ」と驚いたのを覚えています。


 そういう父の本気の敬愛みたいなものが、たけしさんにも深く伝わっていたんでしょうね。だからあれだけ心を寄せてくださったのかなと思います。


「大学で勉強して、ちゃんと卒業したほうがいいよ」ビートたけしからの助言で学業に専念


——太郎さんはお父さんを亡くした逸見家の経済事情を考え、留学を辞めようとしたそうですね。


逸見 そう考えていました。ただ、マスコミや芸能界に進みたい思いも少なからずあったので。父はフリーになった際、三木プロダクションと業務提携していたことから、三木プロの三木社長が、東京医大の先生を紹介してくださったり、いろいろと助けていただきました。


 父が胃がんになってから、三木プロが僕に対してプロモーションをかけているのを感じることはありました。ボストンから帰って病室の父と握手した日も、会った直後に僕が記者会見をすることになっていたんです。


 僕自身はそんなこと聞いてなかったので、準備されていて「エッ?」と思いましたね。「僕が行くところに、なんでこんなにマスコミがいるの?」と思う場面が何度もありました。


 それが良いか悪いかはともかく、「逸見政孝がいなくなったら、今度は息子の逸見太郎を売り出そう」という雰囲気があったのは事実です。


——芸能界に行きたいなら、それに乗っかったほうがいいかもしれないと。


逸見 そうですね。でも、たけしさんがお線香を上げに来てくださった際に、「まだ若いんだから、大学で勉強して、ちゃんと卒業したほうがいいよ」「世間には、いつだって出られるんだから。出るべきときに、出るんだから」との助言をいただいたんです。


 たしかに、そのまま大学を辞めてデビューしても、自分には何も力がないじゃないですか。「そんな状態で、どうやって芸能界で生き残っていくんだ」ということを自分でも考えて、やっぱり一度距離を置いて学業に専念しようと決めました。


1997年に映画『HANA-BI』で俳優デビューした経緯


——1997年、たけしさんの映画『HANA-BI』で俳優デビューされましたが。


逸見 進路について助言をいただいたこともあり、「無事に卒業しました」とお手紙を送りました。その中で、「やっぱり映画にすごく憧れがあります。芸能界に進もうと思います」という意志を伝えたんです。そうしたら『HANA-BI』で声をかけていただきました。


 とはいえ、現場ではガチガチで、四苦八苦しながらやってましたね。たけしさんからは、「普通でいいから」と言われましたが、その「普通」を演じるのが一番難しくて「わからないなぁ」と思いながら必死で取り組んでいました。でも、芸能界デビューのきっかけをいただいたことは、本当にありがたかったです。


——太郎さんにとって、たけしさんはどんな存在なのでしょう。


逸見 大学進学について助言をいただき、芸能界に進むきっかけをくださって。本当に恩人だと思っています。その後もいろいろとお声を掛けていただいて、感謝しかありません。


——『HANA-BI』の現場では「わかんないなぁ」だった演技は、だんだんと自分なりに掴めるように?


逸見 『HANA-BI』が終わった後、事務所に所属することになり、役者として活動は始めましたけど、うまくいかないことも多くて。「自分はこの仕事に向いてるんだろうか」と考えるようになってしまったんです。


 維持費の掛かる家を引き継いだり、仕事が激減して月収2万8000円になったりして……。とんねるずの石橋さんがサインに書いてくれた「いつまでもあると思うな親と金」という言葉が身に染みることになりましたね。


撮影=釜谷洋史/文藝春秋

〈 父・逸見政孝が建てた“13億円豪邸”で生活→人気番組降板→仕事激減で“月収2万円”に…逸見太郎(52)が語る、それでも自宅を売却しなかったワケ 〉へ続く


(平田 裕介)

文春オンライン

「がん」をもっと詳しく

「がん」のニュース

「がん」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ