下重暁子 清少納言の「短く言い切るセンス」と「物事を直截に表現する力」に圧倒されて…『枕草子』は<俳句そのもの>
2024年4月12日(金)12時30分 婦人公論.jp
(イラスト提供:Photo AC)
2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』で注目を集める平安時代。主人公の紫式部のライバルであり、同時代に才能を発揮した作家、清少納言はどんな女性だったのでしょうか。「私は紫式部より清少納言のほうが断然好き」と公言してはばからない作家、下重暁子氏が、「枕草子」の魅力をわかりやすく解説します。縮こまらず、何事も面白がりながら、しかし一人の個として意見を持つ。清少納言の人間的魅力とその生き方は、現代の私たちに多くのことを教えてくれます。
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清少納言の文体は俳句に近い
この記事は、私の独断と偏見なのだと、最初にお断りしておきたい。学問的に言えば、なんの根拠もないとおしかりを受けることを承知で書くことにした。
私の感性だけでそう思ったというに過ぎない。だからといって自信がないかと言えばそうでもない。
清少納言の「枕草子」は、俳句そのものなのだ。
俳句は連歌の上の句である五・七・五で作られた定型詩で、十七語、十七音とも呼ばれる。
清少納言が「枕草子」を書いた時代、つまり平安時代に俳句という短詩型の分野は存在しなかった。
江戸時代になって松尾芭蕉あるいは、小説家としての方が名高い井原西鶴らが、俳諧師として活躍。座の文芸として集った人々が五七五の発句(ほっく)と七七の脇句を交互に連ねて歌仙を巻き、俳諧師という職業の人々が中心になって、一つの物語をつくる遊びが生まれた。
それは俳諧と呼ばれたが、もとはといえば、平安時代半ばに流行した長短二句を唱和する連歌(れんが)の流れを汲んだものである。
曲水の宴などと呼ばれる、庭の池や流れにそれぞれ陣どって前の五七五につなげて七七と連想をつなげていく優雅な遊び。
貴族たちの遊びから生まれ、やがて「俳句」となった
私も中国を訪れた時、大学の師であり俳人(桐雨)でもあった暉峻康隆先生のツアーで、その真似をしたことがある。
鵞池(がち)という王羲之ゆかりの蘭亭(浙江省紹興市)の庭の池のまわりに好きな場所を占め、池の流れに沿ってゆらゆらと酒を注いだ盃がまわってくるまでに次の句をつけてゆく。
難しいが楽しい遊びであった。
三十六歌仙巻き終わった時の満足感! 十人ほどの参加者の頬は、酒のほてりも加わりほの赤く輝いていた。
暉峻先生もいつにも増して満足げであった。
もともと貴族達の遊びだが、こうした和歌、連歌の流れから、江戸になって庶民の文芸になり連句と呼ばれるようになる。
俳句という名称は明治期、正岡子規にはじまり、高浜虚子が提唱して以降、定着したといわれる。
「奥の細道」は発句集だった
数人から十人、それ以上のこともあって連句が作られ、その中の最初の一句、発句と呼ばれるものを中心人物の宗匠が詠む。
その五七五、だけを選んで作られた発句集が芭蕉の「奥の細道」であり、「笈(おい)の小文」や「猿簑(みの)」だったのである。
そして江戸時代に全盛をきわめ、明治になってから、正岡子規が五七五だけで独立した文芸として「俳句」と名付けたのである。
ここに至って平安朝から日本の文芸の中心であった和歌が基本となって、短歌と俳句と川柳に分かれた。生みの親は同じでも、それぞれが短詩型の独立した文芸になってみると、見事に違うものになった。
清少納言の文体はもともと短詩型の趣があったが、さらに言えば短歌より俳句に近かった気がするのだ。
短く言い切るリズム
それは多分に清少納言の性格や何を「をかし」と見るかによって自然に方向付けられたと思う。
短く言い切るリズム感が俳句的であり、物事を直截に表現する力に秀れたものがある。
情景を切り取る力が絵画的であり、いらない言葉を削ってできるだけ少ない言葉で言いたいことを表現しようとする。
素材を提供し、読む人に任せる(写真提供:Photo AC)
その最たるものが、体言止めで、説明を省くこと。
『海は、水(うみ)、與謝(よさ)の海、川口(かはくち)のうみ。』
それで充分に意味は通じるし一種のテンポができてくる。
「いとをかし」といった形容詞や副詞だけで何が言いたいかがわかる。彼女がさし出すものは素材だけで、あとは読む人、見る人に任せる。
読む人の能力を試しているとも言える。その意味では意地の悪い文学と言ってもいい。
試された私達がそれをどう読み取るかは、私達自身に任されるのだが、あくまでも彼女が書いているのは、彼女の目を通した美しいものであり、醜いものであり、彼女自身をさらけ出して見せているのである。「源氏物語」のようなフィクションではなく、素の清少納言に触れられることが私には嬉しい。
清少納言は短歌が苦手だった?
今の時代、エッセイと一般的に呼ばれるものは、随想でもあり評論でもあり、様々なジャンルを含んではいるが、「枕草子」がより多く著者の思いを率直に投げかけている所に私は共感を覚えている。
俳句は一つの絵を切り取るものであるのに比べ、短歌はその絵に対する解説が必要になる。五七五の俳句なら、言い切って終わりとなるものが、そのあとに七七と付く短歌となると、五七五でさし出した素材に対する感想を加えなければならなくなる。
私自身、長らく俳句で遊んできたが、その後に七七が必要となると素材に対する感想を言わなければならなくなるのが面倒なのだ。
無理やり悲しいだの、嬉しいだの付け加えたものは決していい作品にはならない。
清少納言は和歌が得意ではなかったのではないか、というのは彼女の和歌はあまり残っていないからだ。
あれだけの才女だから、いくらでも作れたし、作ったであろうけれど、彼女自身、あの和歌ののどかな調子に身を委ねることを快しとしなかったかもしれない。漢詩、漢文から文学に入ったことと決して無縁ではない気がする。
※本稿は『ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考』(草思社)の一部を再編集したものです。
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