ドラマ『対岸の家事』で見えた「持つ者」「持たざる者」。子持ちは果たして「持つ者」なのか?
2025年5月9日(金)12時0分 婦人公論.jp
(イメージ写真:stock.adobe.com)
貧困家庭に生まれ、いじめや不登校を経験しながらも奨学金で高校、大学に進学、上京して書くという仕事についたヒオカさん。「無いものにされる痛みに想像力を」をモットーにライターとして活動をしている。第87回は「ドラマ『対岸の家事〜これが、私の生きる道!〜』4話を観て思うこと」です。
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「持つ者」「持たざる者」という視点
現在放送中のTBSの火曜ドラマ『対岸の家事〜これが、私の生きる道!〜』(原作、朱野帰子さん)が大きな話題を呼んでいる。父親の不在でワーキングマザーがワンオペになりがちで、保育園の呼び出しに母親がすべて対応した結果、抜けた分の仕事を補う部下からチクリと言われてしまう。同じ子育ての当事者なのに、どこか家事や育児に他人事で、仕事を抜けるなんて無理、と同じく働きながらも子どものために急な休みをとり早退もしている妻に言ってしまう夫。そんなリアルな描写がたくさんあり、見ながらとてもヒリヒリする。観る人を巻き込み、現代の問題を考えるきっかけを生む優れたドラマだと思う。
中でも印象的だったのが4話の「持つ者は持たざる者の気は知らず?」だった。タイトルに入っている「持つ者」「持たざる者」という視点で色んな問いかけがされていく。
「持つ者」「持たざる者」という視点の軸は主に二つ登場し、一つは「実家格差」の問題だ。対岸の家事では、様々な実家事情の登場人物が描かれる。主人公の村上詩穂(多部未華子)は、学生の時に、専業主婦の母親が亡くなってしまう。以後、仕事一筋の父親は家事を詩穂に押し付けるようになり、詩穂は高校卒業と共に実家を出た。以後、実家には一切帰っていない。詩穂のマンションのお隣さんである長野礼子(江口のりこ)は、夫が出張によく行っており、ワンオペ育児を強いられている。実家が遠くにあるため、両親を頼ることができない。詩穂の夫・虎朗(一ノ瀬ワタル)は、両親が早くに亡くなり、実家自体がない。詩穂のパパ友である中谷達也(ディーン・フジオカ)は、裕福で教育熱心な実家だが、母親から教育虐待を受けた過去があり、絶縁状態となっている。
頼れる実家があることは当たり前ではない。人それぞれに事情があり、実家の資本力や実家との関係性で、本人の生きる難易度は大きく変わる。長期休みには帰省し、子育てで両親や義実家を頼る。それが当たり前みたいな風潮がある中で、そんな当たり前がない人たちの存在が可視化されたことはとても意味があることだと思う。
「子持ち」は「持つ者」?
「持つ者」「持たざる者」という視点のふたつめの軸は、「子持ち」「子なし」だ。
礼子は、職場で年下の女性に、悪気なく子育てしたい人を応援したいと言った主旨の発言をしたところ、相手はその場では同調していたが、トイレでその発言をさして「傲慢」と言い、子どもを持つことがいいという前提で話すのはどうなのかといった陰口を言っているところに遭遇してしまう。その相手は、礼子を「持つ者」とし、「持たざる者」の気持ちなどわからないと言っていた。
『死ねない理由』(著:ヒオカ/中央公論新社)
礼子は傷つき、困惑する。そして、そう言われた気持ちを詩穂に吐露する。
「子どもは可愛いだけじゃない。
私だって仕事終わりに焼肉に行きたい。
私からしたらあっちの方が持てるものなんじゃないかと思うけどね。
自分のために時間を使える自由がある」
礼子を「持てる人」とした職場の女性は仕事終わりに焼肉に行くと言っていた。礼子からすればその自由が自分にはない。自分が欲しい自由や自分の時間がある彼女のほうが、「持っている側」に見える。
「持つ者」「持たざる者」それぞれの地獄
4話では、虎朗のこんなセリフが登場する。
「みんな自分が持ってないものの話になると、冷静じゃなくなるんだよな」
このセリフにすごく共感する。
地域に根付いた病院である蔦村医院の後継ぎと結婚し、受付で働いている晶子(田辺桃子)のことを、礼子は「なんでも持ってる人」だと思っていた。しかし、実際は晶子は跡継ぎの嫁として、「孫を産むこと」を義理の両親だけでなく、患者たちからも強く望まれ、日々そのプレッシャーと闘っていた。さらに、不妊治療に通っていた。
様々な事実を知った礼子は、「外から見てるだけじゃ本当のところわからない」
と自らの言動を反省する。
不妊治療をしている人からすれば、子どもを授かった人はまさに「持つ者」と映るだろう。
「持つ者」「持たざる者」というレッテルを貼るのは簡単だが、外から見えないことの方が多い。「持つ者」に見える人にもまたそれぞれの地獄がある。また、「持つ者」「持たざる者」とはとても主観的な概念で、絶対的なものではなくとても相対的なものなのではないか。
色んな論点があると思うが、「子持ち」を「持つ者」、「子なし」や「独身」を「持たざる者」とする風潮には、私は強い違和感を覚えている。
子持ちは「子持ち様」と揶揄され、社会から疎まれることすら多いのが現代の現実だ。「子持ち」が「持つ者」であり、強者とされるのには、背景がある。賃金は上がらないのに税金や社会保険料は上がり続け、未曾有の物価高はとどまるところを知らない。さらに必要最低限と言われる教育費の水準も上がり続けている。そんな状況では、とても子どもなんて持てないという人が増えるのは仕方のないことだ。
可愛いと思えなくなる瞬間も
しかし、だからと言って「子持ち」を「持つ者」とするのはおかしいとも思う。
子持ちでなくとも、少しでも子育てを見聞きした人なら、その壮絶さがわかるのではないか。
私も、姪っ子や友人の子と出かけたり、一時的に預かったことが何度かある。
私の場合はではあるが、言葉が通じない新生児とは、30分一緒にいるのが限界だった。外から見る分には可愛い。でも一緒にいて世話をするとなると、可愛いと思えなくなる瞬間の方が多い。
未就学児と同伴で入れない店も多い。雑貨屋など子どもが触って割ったり、走って迷惑をかける店には入るのを躊躇してしまう。
ベビーカーやマザーズバッグを持ち、抱っこ紐で赤ちゃんを持てばかなりの重量で、歩ける子も連れれば道路に飛び出す危険性もあり常に神経を尖らせる必要がある。
食べ物の好き嫌いもあり、ご飯を食べさせるのも簡単ではない。トイレに行っておきなさいと言っても聞かず、トイレが遠ざかってからトイレに行きたいと言い出す。長距離は歩けないし、予想できない方向にいきなり走り出す。お腹が減ったり眠くなると機嫌が悪くなり手が付けられなくなることもあるし、癇癪を起こせばもう可愛い子どもの面影はそこにはない。
子どもが中心の生活になると、自分の好きなものをゆっくり食べたり、好きな場所に行く、自分に時間をかけるということが極めて難しくなる。まとまった睡眠もとれず、夜中に起こされ、やっと寝ても早朝に起こされ。慢性的な寝不足で体調も悪くなる。
子どもは本当によく熱を出す。保育園に預けないと働けないが、預ければ次から次へとあらゆる感染症を持って帰り、そのたびに親は会社を休まざるをえない。そうなると代わりに仕事を引き受ける同僚からいい顔をされないこともあるし、重要な仕事は任せられないと判断されやりがいのある仕事から外されることもある。
主人公の詩穂は、自ら専業主婦という道を選んだ。火曜ドラマ『対岸の家事〜これが、私の生きる道!〜』(C)TBS
子育ては「誰かがやらないといけないこと」
子育ては誰かがやらないといけない。少子化により社会保障制度や教育制度、社会そのものが維持できなくなったら不利益を受けるのはこの社会で生きるすべての人なのだ。そう思うと、子育てする人は自分のためだけにやっているのではない。この社会で生きるすべての人の替わりに、命がけで子どもを産み(これは女性だけだが)、多額のお金をかけ、体力や時間、持てる資力を使って、時に自分のキャリアややりたいことを犠牲にして、「誰かがやらないといけないこと」をやってくれている人たちなのだ。
そんな人たちを一方的に「持つ者」と決めつけ、子持ち様と揶揄する。そんな視座の低さがあらゆるものの見方や議論を歪ませている気がしてならないのだ。子育てをする人への給付金などの議論が出ると、「独身税だ」「独身を無下にするのか」といった声が出る。
しかし、ひとりの人間を育てるとなれば途方もないお金がかかる。給付金が出ようが焼け石に水。経済的に負担を回避するという観点であれば子どもを産まないほうがよほど正解なのだ。
実際は大きな犠牲を払っている人を「持つ者」と断じるのではなく、実情を冷静に見ることが必要なのではないか。
前回「NHK朝ドラ『カムカムエヴリバディ』が描いた「夢が叶わないこと」。その後の人生のほうが長いのだから、そちらを教えるべき」はこちら
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