『幸福の黄色いハンカチ』の作家、病で40kg痩せて。希望を捨てずに生き、退院5ヵ月後にユージン・オニール名誉賞を受賞

2024年5月22日(水)12時30分 婦人公論.jp


(写真提供:Photo AC)

映画「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」(1977年)の原作者として知られる、米国著名作家でジャーナリストのピート・ハミルさん。2020年8月5日に85年の生涯を終えてから、今年で4年が経過します。ピートさんの妻で作家として活躍する青木冨貴子さんは、最愛の夫との大切な記憶を、手記『アローン・アゲイン:最愛の夫ピート・ハミルをなくして』に書き留めました。「ふたたび一人」で生きていく青木さんが、心の筆で綴ったエピソードの一部をお届けします。

* * * * * * *

わが家への帰還


「ラスク・インスティテュート(ニューヨーク大学病院内のリハビリ施設)」に入ってからすっかり回復し食欲も出てきたので、ピートは次第に病人用に組まれた献立にも飽きてきた。

近くの18丁目にピザ屋を見つけたわたしがそこのピザを買っていくと「これは美味い!」と大喜び。生地が薄くてこんがりとしたピザは確かに美味しかった。それからほとんど毎日のように、帰り支度をすると「明日もあのマルゲリータ・ピザを買って来てくれ」と頼んでくるようになった。

ラスクに入って3週間ほど経った2014年5月、この後、どこへ行くかが問題になった。

「自宅へ帰すのなら、24時間の介護が必要です。必ず2名がいなければ帰宅は許可できません」と担当医に言い渡された。わたしのほかにもうひとり夜間の介護人と昼間の介護人がいなければ、自宅へ帰せないというのだった。

まずは自宅バスルームに手すりとハンド・シャワーを取り付けた。

その頃、ピートの面倒を見てくれている看護師助手のパメラがそっと声をかけてきた。勤務の後、わが家へ来て夜12時間、働いてくれるという。

一方、姑がブータンから来た女性に長い間とても良く介護してもらっているという話を友達から聞いていた。住み込みで24時間介護しているという。ニューヨークにはブータンから来た移民のコミュニティーがあって彼女は顔が利くと教えてくれた。

昼間の我が家の介護人には男性が良いので、早速、ブータンの男性を紹介してもらい、電話で面接してみた。

「ブータンではどんな仕事をしていたのですか」

ひとりはテレビ局で働いていたといい、2人目は確かセールスと答えた。3人目は、「病院でフィジカル・セラピストをしていました」というではないか。まさに適任者だった。

ドージーという34歳の男性で、早速会ってみると真面目そうな青年だった。働いているクリーニング屋を辞めて、朝9時から夜7時まで1日10時間、月曜日から金曜日まで週5日来てくれることになった。

2ヵ月半ぶりのわが家と街の空気


5月29日、ピートはついに退院した。車椅子ごと救急車に乗ってトライベッカのロフトへ帰る。ピートにとって3月10日から2ヵ月半ぶりのわが家だった。

この日には「ビジティング・ナース」という訪問看護サービスから看護師が派遣されてきた。この先1ヵ月ほど、血圧測定、インシュリン注射など看護全般を監督してくれる。電動式ベッドもビジティング・ナースの手配でこの日遅くにようやく届いた。

パメラが夜7時に到着。リビングルームに電動式ベッドを置いてピートを寝かせ、その近くのカウチで一晩中、仮眠を取りながら介護してくれる。わたしは自分の寝室に引き上げて久しぶりに休むことができた。

パメラはカリブ海のトリニダード・トバゴ共和国の出身。昼間は病院で働き、夜はわが家へ来るからほとんど24時間勤務である。

「そんなに働いて、体は大丈夫なの」と訊いてみると「わたしはずっとこうやって仕事してきたから大丈夫」と笑いながら答える。看護師助手といってもいろいろな種類の免許があるらしいが、最上級の免許までもっているという。

ドージーが来た翌日、ピートは初めて車椅子に乗って表に出ることができた。ピートの車椅子はわたしには重くて押せないが、ドージーならニューヨークのデコボコ道を問題なく押していくことができた。

馴染みある通りもお店もずいぶん見ないうちに新しい風景になっていた。前の通りで掃除などしている雑役夫のジョーに声をかけ「元気になったよ」と握手したり、角のレストランを指して「ああ、また新しい店になったね」と変化を楽しんでいる。街の空気を吸ってピートは心から嬉しそうだった。

79歳の誕生日


6月24日は、ピート79歳の誕生日だった。弟のデニスとブライアンを呼んで、形ばかりの誕生日パーティーを開いたところ、この晩からひどい下痢が始まった。

はじめは糖尿病患者には決して良くないケーキを口にしたせいかと思っていたが、そんな簡単なものではなかった。数日経っても治らないので、胃腸科の医者に診てもらうことにした。


(写真提供:Photo AC)

初めてタクシーに乗せて、車椅子で医者を訪ねる。医師は院内感染で「C.diff」というバクテリアに感染していたことを突き止めた。この頃のノートにわたしはこう書き留めた。

「6月28日、体重は134ポンド(60キロ)」

初めて会った30年前から肥満型だったが、結婚後も肥満はどんどん進み、一時は100キロを超えていた人である。それが半分近い60キロになっていたのはショックだった。とくに手と足の筋肉がなくなり、鳥のように痩せ、昔の面影はない。

車椅子で出かけられるようになったので、ようやく念願の眼科へ行ってみると、視力は変わっていないという。眼科医がメガネを調整してくれたので本も読めるし、コンピューターのスクリーン文字も読めるようになった。自分の机について、メールのチェックもできるようになった。次第に回復していくのが手に取るようにわかる。

退院4ヵ月後、二組の介護人を置いておくのはさすがに経済的負担が大きくなってきたので、パメラに代わってわたしがピートの隣のカウチで毎晩寝るようにした。

退院いらい初めての公式の場へ


カウチ・ベッドにも慣れてきた5ヵ月後の10月20日、アイリッシュ・アメリカ協会からユージン・オニール特別名誉賞を受けることになった。

ノーベル文学賞を受賞しアメリカの近代文学を築いたユージン・オニールの名前を冠した賞には、さすがのピートも嬉しそうにしていた。

病後初めてスーツを着たピートを車椅子に乗せ、大型車で52丁目にあるマンハッタン・クラブに到着。

車椅子を押して会場に入ると、集まった数百人の観衆から割れんばかりの拍手で迎えられた。退院いらい初めての公式の場である。

いつまでも鳴り止まない拍手を耳にしながら、ああ、やっとここまで来られたかと初めて涙がこぼれた。

※本稿は、『アローン・アゲイン:最愛の夫ピート・ハミルをなくして』(新潮社)の一部を再編集したものです。

婦人公論.jp

「作家」をもっと詳しく

「作家」のニュース

「作家」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ