ヒオカ「世間が作った〈普通を通れない人は可哀想〉という偏見。人間の数だけ普通、欲望、幸せがあるのに」

2024年5月24日(金)12時30分 婦人公論.jp


写真提供◎AC

貧困家庭に生まれ、いじめや不登校を経験しながらも奨学金で高校、大学に進学、上京して書くという仕事についたヒオカさん。現在もアルバイトを続けながら、「無いものにされる痛みに想像力を」をモットーにライターとして活動をしている。ヒオカさんの父は定職に就くことも、人と関係を築くこともできなかったそうで、苦しんでいる姿を見るたび、胸が痛かったという。第67回は「普通になりたくても、なれなかった」です。

* * * * * * *

普通って、なんなんだろう


NHKドラマ『燕は戻ってこない』を観ていたら、他者に恋愛感情を抱いたり、性的に惹かれることがないという2人が偶然出会う場面があった。お互い別のグループで飲んでいたが、偶然会話が聞こえて2人は対話することになった。その会話の中に、こんなセリフが出てきた。

「若い頃は自分が変わってるんだと思ってました。でも、無理に好きになろうとすると、どうしようもなく気分が悪くなるんです。で、もう自分の感情はありのまま。放っておくことにした。こういう世の中からはぐれたような気分は絵を描くのにもちょうどいいので。これだけ人間がいるんですよ。性も欲望も、いろんな形があって当たり前なんです」

このセリフは、春画作家の女性のものだ。このセリフを聞いたとき、胸に積もっていたいろんな感情が溢れ出して、気が付いたら泣いていた。

普通って、なんなんだろう。
最近、そんなことをよく考える。

「わたし、とにかくいろんなことが普通から外れてて。普通が欲しかったんです。でも、どうやっても、手に入らなそうで」

私がそう友人に相談したとき、友人は言った。

「普通はこうってさ、思い込まされてるだけなんじゃないかな」

これを聞いたとき、顔をパチンとはたかれたような衝撃を受けた。先ほどの春画作家のセリフのように、きっと、普通は人の数だけあるはずなのだ。

普通はつくられた価値観


NHKの情報バラエティ番組『あさイチ』で、「性体験がないのは恥ずかしいこと?」という特集が組まれた。そこでは、性的なことに興味が持てない、試してみたが苦痛だった、自分に恋愛や性愛は必要ないと感じた、という人たちが登場した。恋愛や性愛抜きで結婚し、子どもを持つ人もいた。その中で、性体験や恋愛体験がないことを、自分は何か欠落しているんじゃないか、普通じゃないんじゃないか、と苦しむ人たちの声が紹介されていた。

性社会と文化史の研究者は、恋愛してなんぼ、早く複数の人と性的関係を結ぶことがもてはやされ、煽られた時代があったと解説していた。それは、恋愛至上主義を煽ることで、膨大な消費を生めるという策略があったからだという。そして、その文化は、雑誌やメディアによって創り出され、半ば大衆は洗脳されたようなかたちだったという。恋愛してなんぼ、セックスしてなんぼと煽られた全盛期に自己を形成した30代後半〜50代の人たちは、性体験や恋愛体験が少ないことに劣等感を覚えているのだという。

視聴者からの投書で、「30〜50代前半のみなさんが雑誌を読む時代にマスコミ・とある雑誌の編集部にいました。時はまさに、バブルとバブルがはじけた直後。セックス特集を何回も編集したことを覚えています。雑誌や情報を作っていた方も、バブル景気に浮かれていたと思います。女性がセックスをたくさんしよう、セックスをいろんな人としてもいいと思い込まされた。でも行動すればするほど女性の地位は落ち、女性の身体は傷ついていくと思います。考えてみれば、それを先導していたのも、男性の編集長や管理職たち。それに踊らされていたなといま恥じています」

というものがあり、なんとも考えさせられた。

この話を聞くだけでも、いかに私たちの当たり前とされている価値観が、「作られたもの」であるかが分かる。普通なんて時代と共に変わるのに。友人にも、「別に性行為をしたかったわけではなかったけど、付き合ったらするものだと思ったから応じた」「処女は20代前半で捨てといた方がいいとみんなが言うから、早くそこら辺の人とやって捨てたい」と言う子がいた。それは、本当に自分の望みなのか、それとも、社会から思い込まされているのか、わたしたちは意外と自分でも分かっていない部分が大きいのではないか。


写真提供◎AC

普通を通れない人は可哀想という偏見


近年では、個人のライフスタイルや価値観、セクシャリティの多様性への理解が進んできた。それでも、やはり、恋愛、性行為、結婚、出産という強固なレールが引かれている。本来、自分が幸せだと思える人生の必要要素は、自ら取捨選択し、組み立てていくものだと思う。それなのに、社会はこれが普通というものを規定し、否応なくそこに組み込もうとしてくる。だから、恋愛しないなんて可哀想、付き合ったら性行為はするもの、結婚しない人は訳アリの人、所帯を持ってこそ一人前、子どもを持つことが人生最大の喜び、と個人の幸せに必要な要素を勝手に決められて、そこを通れない人は可哀想だとか、不完全だとか言われてしまう。

普通から外れた人が、劣等感を感じたり、苦しみ、追い詰められたりするのは、なにも本人たちが勝手にそう思っているのではなく、世の中の同調圧力や、普通に乗れない人は異常、可哀そうな人、という偏見の目に晒されることで、そう思わされていくのだろう。


『死ねない理由』(著:ヒオカ/中央公論新社)

私は、昔から、いわゆるこれをやれば幸せと言われるものが、どうしてもわからなかった。子どもが欲しいと一度も思ったことがないと友達に言うと、「なんで? 普通は欲しいものじゃない?」と不思議がられた。

今でも正直、自分のことがよく分からない。セクシャリティに関することで、新たな概念が生まれて名前が付けられたりカテゴライズされることが増えたが、まだこれこそが自分のアイデンティティと言える場所を見つけられていない。深い森にひとり迷い込んだような、途方もない孤独感を感じ、底なしの絶望に引き込まれていきそうになる瞬間が何度もある。これから先、共感しあえる人は現れるのだろうか。

人々は、どうしたって分かりやすさを求める。でも、恋愛も性行為もするか恋愛も性行為もしないか、この二択ではない。恋愛するけど性行為はする、恋愛はしないけど性行為もする、も当然あるし、

これ以外にも、ひとそれぞれの恋愛への至り方や、好き、嫌い、苦手、快・不快があって、膨大なグラデーションが広がっている。乱暴にカテゴライズできるものではないし、分かりやすさを求めることは暴力的だ。


写真提供◎AC

人間の数だけ普通、欲望、幸せがある


恋愛や性愛がわからないと言うと、ネットでは絶対に「モテないやつの言い訳だ」とか「まだ出会っていけないだけだ」とか言われて口を塞がれる。自分の幸せだと思うことは他の人にとっても幸せなことだと信じて疑わなかったり、普通からはみ出る人を可哀想だとか、損しているだとか言ってしまう人は、あまりに視野が狭すぎる。そして発想が貧相だと思う。

人が幸せだと感じることが、ほかの人にとっては存在を根底から揺るがすほど、不快で恐怖を感じるものだったりする。

私だって、普通になりたかった。
普通に誰かを好きになれて、誰かに好意を向けられたときに気持ち悪くならなくて、好きな人に性的な目で見られても恐怖を覚えなくて、好きな人とは性行為をするものだということに疑問を抱かず、恋愛結婚をして、子どもを産んで。

そうすれば、普通は手に入るんだろか。

何度か普通になろうと挑戦してみたものの、気持ち悪くなって、何を食べても吐きそうになり、無気力になり、部屋が荒れ、完全にメンタルのバランスを崩してしまった。

改めて思う。人間の数だけ普通があり、欲望があり、幸せがある。世間のいう普通に乗れない人は、惨めでも、不完全でも、何かが欠落しているわけでもない。

私は、ひとりの意思のある人間だ。私の幸せは、世の中が言う普通を叶えた先にあるものではない。私は何があれば幸せだと感じられるのか。それをこれからも探していく。

前回「ちゃんみなさん、坂口涼太郎さん…貴重な瞬間、謙遜や自己卑下で、本心をないものにしない。「欲しいものには欲しい」と言おう 」はこちら

婦人公論.jp

「偏見」をもっと詳しく

「偏見」のニュース

「偏見」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ